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2025.4.17 (Thu.)

東京都写真美術館の『ロバート・キャパ 戦争』を見たのであった。撮影NGなのでエントランスの写真だけ貼る。

 この展覧会、有名なやつはだいたい押さえていたのではないか。

アンドレ=フリードマン時代、つまり若い頃の写真はけっこうちょっとピンぼけなのであった。
その後、「ロバート=キャパ」を名乗るようになると、作品が一気に洗練されていく印象を受ける。
パートナーのゲルダ=タローを失って、独り立ちを余儀なくされた影響だろうか。どこか覚悟を感じさせるのだ。
あらためてノルマンディーのボケボケ写真(→2024.6.17)を見てみると、むしろ撮ったのが偉いという種類の写真だ。
また、地雷を踏んで亡くなる直前に撮影した写真もあった。こういう状況に身を置く覚悟が写真を研ぎ澄ませるのか。

どの写真も絵画的センスを感じさせるというか、構図がビシビシ決まっている。背景を含めて見透している感覚。
そういうアングルを一瞬で見つけられるのが、写真家の才能というものなんだろうなあ、と思わされる。
もうひとつ特徴的なのが、戦争の中の日常など対比、あるいは複数の解釈が含まれる写真が多いということだ。
基本は間違いなくジャーナリズムの写真だが、ただ瞬間を切り抜くだけでなく前後の物語を想像させるものがある。
対象に付随する余白を見抜くというか、事態の背景を見抜くというか。単なる撮影対象以上のものを読ませる写真、
フィルムを通して事態を見透した気にさせる写真なのである。因果(→2020.3.16)にまで踏み込んだ写真という感じ。

思わず図録を購入してしまった。歴史総合の授業で使えないか、作品を眺めながらあれこれ画策してみることにする。

もうひとつの展覧会、『TOPコレクション 不易流行』も見てみた。女性、寄り添う、移動の時代、音、昭和から平成、
以上の5つのテーマでコレクションを展示する企画。こちらはほとんどが撮影OKで、気になったものをピックアップ。

  
L: 下岡蓮杖『梅の枝を活ける女性』。  C: 下岡蓮杖『手を繋ぐ二人の女性』。下岡蓮杖(→2017.10.7)の写真とはすごい。
R: フェリーチェ=ベアト『お茶くみ』。外国人向けの土産物として撮られた写真で、着色してある。いわゆる「横浜写真」。

  
L: NASA『ミッション:アポロ(サターン)14号』。  C: NASA『ミッション:ジェミニ(タイタン)4号』。
R: NASA『ミッション:アポロ(サターン)17号』。こうやって見ると、NASAにしか撮れない写真ってのは革命だなあ。

 林忠彦『引き上げ(上野駅)』〈カストリ時代〉。あまりにいい笑顔だったので。

  
L: トマソンには反応してしまうぜ。こちらはその元祖、赤瀬川原平『No.1 真空の踊り場・四谷階段 東京都新宿区本塩町 1972』。
C: 赤瀬川原平『No.2 歩行者用のダム 東京都千代田区神田駿河台 1972』。
R: 赤瀬川原平『No.3 通り抜けた家 東京都渋谷区南平台 1981.11』。かつては「原爆タイプ」と呼んでいたような。

オムニバスなので、好みに合うものと合わないものの差が激しいのであった。ハイ、僕の好みはこんなんです。


2025.4.16 (Wed.)

三菱一号館美術館『異端の奇才――ビアズリー』。あまりにも混みすぎていて、ぜんぜん落ち着いて見られなかった。

ビアズリーというと大学時代の造形芸術論I、カワジョー先生を思いだす。当時っからぜんぜん好みではないのだが、
日本のカワイイ文化の元祖(→2014.10.182023.11.272024.11.23)のさらに元祖ということで、無視できないのだ。
19世紀末の芸術を代表する存在であり、 先行したアーツ・アンド・クラフツ(→2024.3.4)の流れを受けて広げて、
アール・ヌーヴォーを牽引していく最先端がビアズリー。時代を切り開くそのクリエイティヴィティは迫力満点である。
それまで誰も思いつかなかったことをやってみせた独自性は、やはり偉大なのだ。その凄みを実感できる作品ばかり。

  
L: 『おまえの口にくちづけしたよ、ヨカナーン』。英訳版「サロメ」の挿絵を依頼されるきっかけとなった作品とのこと。
C: 『マダム・シガールの誕生日』。左の女性に両性具有的な人物たちが貢ぎ物をしているそうだ。  R: 『イゾルデ』。

ビアズリーはやっぱりオスカー=ワイルド『サロメ』の挿絵が有名で、展示もそこはしっかり見せてくれる。
撮影可能なのはありがたかったけど、人が多くて撮るのが大変。とりあえず印象的なものを貼り付けることにする。
それにしても、新約聖書から究極のヤンデレを生みだしたオスカー=ワイルドのヤバさよ。そこに痺れる憧れる。
もちろんビアズリーの絵がそのインパクトを決定づけたわけで、その相乗効果にあらためて震えるのであった。
しかしながら解説によると、オスカー=ワイルドはビアズリーの絵を嫌っていたそうでびっくり。ものすごく意外だ。

  
L: 『オスカー=ワイルド「サロメ」の表紙案』だが、没になったとのこと。まあこれじゃ何の話かわからんもんな。
C: 『「サロメ」の題扉』。  R: 『孔雀の裳裾』。ヨカナーンに会わせろとサロメがシリア人の隊長に迫るシーン。

  
L: 『ヨカナーンとサロメ』。  C: 『ベリー・ダンス』。サロメが「7つのヴェールを使った踊り」をヘロデ王に披露する。
R: 『踊り手の褒美』。銀の大皿に載せられたヨカナーンの首が届く。地下から伸びる巨大な黒い腕は処刑執行人のものだと。

 『クライマックス』。世紀末芸術を代表する一枚ですなあ。

ビアズリーも十分な量があったが、アーツ・アンド・クラフツを意識して三菱一号館美術館の持っているカトラリー、
さらにビアズリー以外の各種サロメ作品の特集もあった。三菱一号館美術館は周辺知識に丁寧な印象(→2023.3.6)。

  
L: 草花文ドアノブ。  C: 吉祥文双扁壺(左)、吉祥文花生(右)。どちらもロイヤル・ウースター社による陶磁器。
R: 祥瑞風吉祥文双耳扁壺。ロイヤル・ウースター社は日本的な様式の陶磁器を積極的に最産していたそうだ。ジャポニズム。

 さまざまな企業による銀製品。アーツ・アンド・クラフツの流れが実感できる。

あらためて作品をじっくり見てみると、やっぱり本当に上手い。夭折しているから印象としては異なるかもしれないが、
二十歳そこそこで広く才能が認められているのはさすがなのだ。初期はカリカチュアライズした人物画が目立っていて、
なんとなくロートレックっぽさ(→2024.9.3)を感じる。その時期を抜けて自分の作風を確立してからが、やはり強い。

  
L: 『「イエロー・ブック」出版案内書の表紙』。「イエロー・ブック」はビアズリーが創刊に関わった文芸誌。
C: 『ジョン・ラムズデン・プロパート蔵書票』。「イエロー・ブック」第1巻掲載作品の素描。
R: 『神秘の薔薇園』。「イエロー・ブック」第4巻の校正刷り。ビアズリーが関わったのは第4巻まで。

  
L: 『「キーノーツ叢書」の宣伝ポスター』。  C: 『「ステューディオ」第5巻 30号の宣伝ポスター』。
R: 『「筆名叢書と本名叢書」の宣伝ポスター』。いかにも絵画なロートレック(→2024.9.3)と比べると、デザインな感じだ。

  
L: 『アヴェニュー劇場公演の宣伝ポスター』。  C: 『T. フィッシャー・アンウィン社刊「子供の本シリーズ」の宣伝ポスター』。
R: 『セシル・レイナー編著「老嬢の処方箋」の宣伝ポスター』。こうして見るとビアズリーはモノクロの方が魅力が出るなあ。

  
L: 『黒猫(エドガー・アラン・ポー作品集の挿絵:刊行中止)』。
C: 『赤死病の仮面(エドガー・アラン・ポー作品集の挿絵:刊行中止)』。
R: 『アシャー家の崩壊(エドガー・アラン・ポー作品集の挿絵:刊行中止)』。

1895年、オスカー=ワイルドが男色の罪で逮捕されてスキャンダルとなると、ビアズリーは巻き添えを食ってしまう。
以降は健康を害したり経済的に苦しんだりと苦境に陥る。そして1898年に25歳の若さで亡くなってしまうわけだ。
晩年の作品は全体的なバランスがよくなって、それはそれでさびしい。どことなく漂う不安定さが味だったので。
描き込みが増えることで不安定さが減るというか、線もモダンになった感じ。明らかにミニマルの美に近づいていくが、
やはり時代の先を読む圧倒的なセンスがあったんだなあと思う。20世紀を迎える前に亡くなってしまったのは、
「ビアズリーの作風」が固定されたイメージとして残ることにつながった。でもミニマルのビアズリーも見たかった。

 ジョサイア=コンドルのベンチがあるのに今回初めて気がついた。

ショップではサロメのTシャツを思わず買っちゃったのであった。いやあ、そりゃあやっぱ買っちゃうよねえ。


2025.4.15 (Tue.)

昭和100年映画祭、第7弾は黒澤明の『羅生門』。芥川龍之介が原作だけど、『羅生門』ではなく『藪の中』が元ネタ。

つまんなかったー! 名作とはとても呼べないシロモノだ。宮川一夫の撮影と役者の熱演で名作扱いされているだけだろう。
結局のところ内容がミステリだから個人的に合わなかった面も大きいかと思うが(→2005.8.242006.3.312008.12.5)、
そういう好みの問題を差っ引いてもデキはよろしくない。まず、「羅生門」というタイトルにした分の無理がたたっている。
雨宿りで羅生門にやってきた3人の会話からの回想となっているが、その舞台空間がそもそもの間違いなのである。
ボロボロの羅生門で表現されるのは、何よりもまず、崩壊しきった社会である。そんな極端な背景を設定しておいて、
「人間が信じられない」とは何を今さら。被害者1人の殺人事件に対して関係者3人の供述が噛み合わないとか、
崩壊しきった社会の前では些細な問題になってしまう。それなのに「わからない」とか盛大に悩まれてもねえ……。
そして芥川の本家『羅生門』がどこまでも冷徹さを失わないのに対し、こちらは取ってつけたような赤子エンド。
せめて志村喬の懐から拾った短刀が落ちて、それを捨てるまでやらないと、赤子エンドは説得力が出ないだろう。
原作の改変について僕は肯定派だが(→2024.1.31)、芥川との差がここまで酷いとなると、呆れて物が言えない。
まあ黒澤明も若かったんだろうけど。少なくともこの作品については、芥川との才能の差は情けないほど明らか。

登場人物がみんな自分のことしか考えていない、というのは本家『羅生門』と重なっているポイントである。
しかし各人が嘘をつくに至る「立場」を描かないからダメなのだ。つまり登場人物の心理をきちんと描いていない。
エゴを描くには、エゴを正当化する思考回路を示すことが必要だ。そこに取り組むことなく映像でごまかしている。
そうなると、登場人物は黒澤明にとって都合のよい人形でしかなくなる。だから臆面もなく赤子エンドができるわけだ。
カメラを見つめる供述シーンと激しいアクションの対比、実はどっちも戦い慣れていない泥仕合の格闘シーンなど、
まったく工夫を感じないわけではない。しかしそういった表現手段に凝る一方、物語を描く目的が疎かになっている。
音楽もハマっているものの、非常にうるさい。もっともそれは、回想にドラマティックな演出が含まれることを示す工夫、
つまり誇張された回想なので嘘である、という表現であろう。志村喬の回想による種明かしシーンではBGMがなかったし。
しかし雨も赤子の鳴き声もうるさかった。黒澤明には音量バランスの感覚が欠けているのではないか、という気もする。

本当に褒めるべきは宮川一夫なのだ。黒澤明は巨匠という評判が定着しているが、この作品ははっきり言って二流である。
その評判と実態の乖離っぷりは、三船敏郎が演じる多襄丸にそっくりだ。そこに気がつくと、この作品は逆説的に面白い。


2025.4.14 (Mon.)

『バトル・ロワイアル』がリヴァイヴァル上映中なので観てみたのであった。20年前にDVDを借りていちおう見ており、
なかなか容赦のない酷評(→2005.6.24)。映画館だったら多少マシかも、と思って、今回は褒める部分を探して観てみた。

結論から言うと、たけしと山本太郎でもってる映画である。特に絵も含めて北野武の超人性に依存しすぎである。
出演者の皆さんはお疲れ様でした。20年前は演技力に問題があると書いたが、歳をとったら努力を褒めたい気分になった。

先週観た『仁義なき戦い』(→2025.4.7)と比較していろいろ考えてみる。『仁義なき戦い』は徹底してリアルだが、
こちらは全編が妄想の産物。それで殺し合いに至る前の関係性がきちんと描かれているかどうかが大きく異なっている。
『バトル・ロワイアル』は平時を描かずいきなり殺し合いだから、人間ドラマとしての説得力が出るわけなどないのだ。
はっきり言って、登場人物は人形にすぎない。最も象徴的なのが安藤政信で、殺人マシーンなのでセリフがないそうだが、
これは完全に失策。殺人マシーンになる経緯がなければ人間ではない。兵士を殺すドローンと変わらないのである。
そんなものの描写、やるだけ時間の無駄なのだ。葛藤する人間が殺す/殺されるからこそドラマになるはずなのだが。
各人が殺しに至るまでのそれぞれの理由を示すのに、会話ではなく黒地に白い文字を並べてモノローグというのは、
映画監督としてかなり情けない敗北である。しかも生きている間ではなく、死ぬときにやる。頭が悪すぎて悲しくなる。
また、キタノがヒロインを崇拝する理由も足りない。登場人物がみんな監督にとって都合のいい人形でしかない。

そもそもが、大人と子どもの違いを示していないのが致命的である。『蝿の王』(→2020.8.9)の大人は「理想」だった。
しかしこの映画では、大人がダメになったとまず宣言をする。それだと、子どもと大人の境界線がなくなってしまう。
なのに、子どもと大人は断絶しており、大人が子どもに殺人を強制する。論理的な前提が完全に破綻しているのだ。
中学生が殺し合うのは表現として「あり」だけど、中学生である理由を示すところまでいっていない、深められていない。
『仁義なき戦い』はヤクザなので最初から暴力的だが、『バトル・ロワイアル』は中学生なので暴力に理由が必要だ。
14歳であることを危うさの前提とするのは少々乱暴で、クラス全員がグレるわけではない。その論理回路を示すべきだろう。
好意的に解釈すれば、極限状態での人間のあり方を、中学生が持つはずの危うさと純粋さで描きたかったのかな、と思う。
しかし人数が多すぎることもあって一人ひとりの掘り下げが浅くなっており、暴力行為と心理のつながりが希薄というか、
暴力があまりにも先鋭的なせいもあり、行為に至る心理を描ききれていない。本来なら平時にそのきっかけがあるはずだ。

いつも書いているが、手段が目的となってしまうことは、たいへんに醜いことである。そしてこの映画はその典型だ。
物語を生みだす動機が、「暴力描写をやりたい」に留まってしまっている。暴力とは最も原始的な物理的行為であり、
知的生命体がその原始的な物理的行為に頼るには、やむをえない理由があるはずなのだ。暴力とはあくまで手段なのだ。
目的となっている暴力は、意味がきわめて軽い。銃の引き金には「軽い引き金」と「重い引き金」があるはずで、
そこの差を描いてこそ暴力描写が価値を持つ。重い引き金を引く葛藤を描くことで、暴力に意味が生まれるのである。
深作欣二は『仁義なき戦い』がたまたま上手くハマっただけで、上記のことをきちんと考えられるだけの頭がない。
結果、この映画はただの暴力の消費である。ドラゴンボールが大好きっていう知能の低い皆様は喜ぶかもしれないけどね。
物語の締め方も、なんにもならない締め方。暴力が発揮される対象は、子どもでなく大人・制度でないと話にならない。
山本太郎の敵討ちもぜんぜん果たされていない。果たしたと見なしても、成果が小さすぎて釣り合わない。話にならない。

品のなさが、まあ、東映ですねえと。……結局、褒められる部分はほとんどないのであった。


2025.4.13 (Sun.)

授業のときに持っていく道具を入れるFREITAGを購入したのであった。15年使ったLEO(→2010.1.22)にガタが来たので。
科目が地理なので黄緑色、とことん使い倒すことを考えて凝った要素のない無地のLELANDを第一希望としていたけど、
店に置いてあったものはかすりもしなかった。そしてBOBでオシャレなやつを見つけてしまったのであった。
BOBは10年前に通勤用で買っており(→2014.3.30)、同じ種類のものは買わないという原則を設けていたのだが、
オシャレなデザインには勝てず、大は小を兼ねるので結局屈してしまったのであった。もうね、こりゃしょうがない。

  
L: 300円のショッピングバッグで持ち帰る。  C: こちらが今回のBOBです。通称「サカナ」と命名。  R: 裏面。

引退する日までこのBOBを引っさげて授業に行くことになるのだ。まあのんびりと頼むぜ相棒。


2025.4.12 (Sat.)

昭和100年映画祭、第6弾は『八甲田山』。新田次郎の原作を豪華キャストで仕上げた大作映画。

 丸の内TOEIは今年の7月27日に閉館予定。名作映画を観る機会が激減してしまう……。

公開は1977年で、80年代のバブルを予感させる大作ですなあ、という映画。木村大作のカメラがしっかりハマっている。
ただ、木村大作の画(→2024.11.16)はそういうしっかり金をかけた豪華なつくりでないと意味をなさないとも感じる。
とはいえ「つくったのが偉い!」という種類の映画なのは間違いあるまい。金の使い方がたいへん正しい映画である。
かけた資金の分だけ圧倒的な説得力を生み出している。日本映画にとっては、ある意味で頂点と言える時代だったろう。
実際にやっていないと撮影できない映像が満載で、地形も吹雪もどう見ても本物。ごまかしがまったく感じられない。
関わった人全員の気合いがスクリーンを通して伝わってくる作品になっている。結果として、どこか青春の匂いがする。

大失敗の事件を映画にするのは勇気がいることだが、それをこれだけ丁寧に再現したのは本当に大したものだと思う。
誰か一人が特別に悪いわけではなくて(三國連太郎演じる山田大隊長がわかりやすく悪役だが、彼一人が悪いのではない)、
何気ないところから希望的観測の積み重ねで大失敗へと至る、いかにも日本的な負の連鎖をとことん描いたのは偉業だろう。

それにしても憎まれ役を演じた三國連太郎は偉いなあと。個人的には「悪のスカパラ谷中敦」に見えてしょうがなかった。


2025.4.11 (Fri.)

『アラビアのロレンス』を観たよ。完全版なので上映時間はなんと227分。ふざけんな、デヴィッド=リーン。

圧倒的なクソ長さなのであった。ただ逆を言えば、長い以外には文句の付けどころがない映画でもあった。
「アラビアのロレンス」とはイギリス陸軍の将校だったトマス=エドワード=ロレンスのことで、
第1次世界大戦後にオスマン帝国からの独立を目指すアラブ軍を指揮した人物である。その活躍を克明に描く。
砂漠の映像が本当に見事だし、史実を再現したであろう舞台空間も迫力があり、よくつくったものだと感心。
構成も冒頭でロレンスが死んでからの回顧という大胆なものになっているが、これが効いている。
おかげで最後に走り抜けていくオートバイからロレンスの心身の死が見えるってわけだ。伏線もしっかりしている。

内容も単なる異文化理解以上のことに踏み込んでおり、近代とは何かを考えさせられるレヴェルにある。
過酷すぎる環境の砂漠には独自のルールがあるわけで、そこを生き抜いてきたイスラームはさすがなのである。
ただ、それが砂漠以外の環境で正当となるかはまた別問題だが。近代とどうバランスをとるか、きちんと示唆がある。
丁寧に事態を描いた姿勢は評価したい。個人的には「ロレンス単独のアラブ部族」という発想がすごいなと感心。

ただ、さすがに4時間弱というのは常軌を逸している。削る才能も映画監督には必須だと痛感させられる作品でもある。


2025.4.10 (Thu.)

ワカメが上京してきて飲み会である。ナカガキさんとハセガワさんと4人でいろいろじっくりダベるのであった。
僕としては真人間の皆さんの感覚をしっかり学ぶ場である。しかしワカメもナカガキさんも人生を達観しつつあるね。
子どもの成長をきちんと見つめているとそうなるのだなあ。僕なんて、離島! 映画! 美術館! ひたすらそればっかり。
教養ある人間を目指してまっしぐらだが、あくまで自己満足でしかないからねえ。他人のために生きる人は本当に偉い。

なお今回のワカメのオススメは、空木哲生『山を渡る -三多摩大岳部録-』なのであった。
僕? 『私だってするんです』(→2025.3.24)を薦めておいたよ。ハセガワさんは夫婦で読むがよい。


2025.4.9 (Wed.)

昭和100年映画祭、第5弾は『ギターを持った渡り鳥』。小林旭のマイトガイっぷりを勉強するのである。
そしたらオープニングから「ギターしか持っていない渡り鳥」で、マイトガイの半端なさを見せつけられるのであった。

話としては……うーん、コテコテのコテコテ。それならもっといい見せ方がいくらでもあるだろうと思ってしまう。
函館の街の魅力はよく出ているし、小林旭ってスタイルがいんだなあ、と思うが、まあそれくらい。本当にそれくらい。
主役をかっこよく描くことに全振りで、何から何まですべてがそのためにお膳立てされている感じ。スターの映画ですな。

殺し屋ジョージがなんとなく宍戸錠に似てるなあと思ったら宍戸錠だった。やはり宍戸錠はほっぺたなのであった。
そして金子信雄が相変わらず昭和の食えないオヤジなのであった。脚本が原健三郎で、議員かよと思ったら議員だった。


2025.4.8 (Tue.)

本日は入学式。ついに始まってしまったか、と感傷に浸る時間なんてまったくない。やることが多すぎて目が回る。


2025.4.7 (Mon.)

昭和100年映画祭、第4弾は『仁義なき戦い』。DVDで以前見たけど(→2006.3.27)、映画館で観てみたかったのだ。

感想は基本的に19年前と一緒である。まずは暴力、暴力、暴力で観客を圧倒することで物語に入っていく。
その暴力描写が一段落ついたところで、登場人物たちがヤクザの世界に落ち着いていく。戦後の混乱が整理されていく、
そんな社会状況と重なっているわけだ。そして山守組は対外抗争に見せかけて、内部での実力者の抹消が続いていく。
最も義理人情にまっすぐな広能は、刑務所に入っていたことで権力闘争から隔離され、外から事態を見守ることになる。
結局のところ、親子の盃という仁義を盾に、若い者が使い捨てられていくだけ。どうしても暴力の描写が目立つが、
あらためて観てみたら描きたいテーマはかなりしっかりしていたのであった。やっぱりよくできていたんだなあと感心。

しかしながら、この映画のMVPはテーマ曲。ホーンセクションとベースが楽器本来の威力を知らしめる傑作ですわな。


2025.4.6 (Sun.)

東京藝術大学大学美術館でやっている『相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史』を見てきたよ。

相国寺は足利義満が建てた寺で、作庭の名人・夢窓疎石(→2010.3.272010.11.272024.10.7)により開山。
「金閣寺」こと鹿苑寺と「銀閣寺」こと慈照寺は、ともに相国寺の境外塔頭である(→2010.3.272015.2.1)。
室町以降も安土桃山・江戸時代と、臨済宗らしく権力と結びつくこと巧みで、多数の文化財を抱えているわけだ。
また雪舟(→2014.7.262024.5.13)は若い頃に相国寺で修行しており、伊藤若冲も当時の住持とかなり関係が深かった。
そんな相国寺の力を存分に味わえる展示なのであった。次回の京都サイクリングではぜひ相国寺にも寄ってみようと思う。

展示はまず、禅らしさ満載のテキトーな書から。お得意の一行書(→2025.2.3)の世界だが、夢窓疎石はさすがに上手い。
まるで脱力感を競っているような字の崩し方に、やはり禅の美学が込められているなあとあらためて思うのであった。
義満といえば日明貿易の人で、相国寺には当時最先端の中国絵画がどんどん入ってきて、雪舟が修行したのもその影響。
しかし中国産の絵画は派手な色づかいに夢中でデッサンが少々狂っている印象。モチーフの強弱のバランスがおかしくて、
いちばん描きたい主題がわかりづらいように思う。あと古びて暗い色合で全体的に見づらくなってしまうのはなぜなのか。
中国からの文化の流れを示してから如拙、周文、そして雪舟。禅と水墨画における雪舟の総決算ぶりがよくわかる内容だ。
狩野探幽の作品も多く残されており、本気と脱力の差の大きさ、言い換えると作風の幅広さをしっかり味わえる。

後半は伊藤若冲を大々的に扱う。むしろ絵画を理解する伝統、若冲を評価していた寺ということでアピールしている。
そして確かにそれだけの作品が残っている。狩野派にはないユーモアにあふれる作品が多数味わえるのはさすがなのだ。
若冲は相国寺に残した水墨画において、ありとあらゆる技術を試している感触がある。自由な主題と構図に応じて、
確かな手腕が発揮されている。鹿苑寺大書院の障壁画はさすがの迫力。葡萄小禽図と松鶴図を両面そのまま展示しており、
実に贅沢な鑑賞経験。さらにCGで鹿苑寺大書院のそれぞれの障壁画を再現していて、これがかなりわかりやすかった。
三之間の月夜芭蕉図はぜひ本物を見てみたい。『玉熨斗図』も見事で、打ち出の小槌の胴体をどう塗ったのか不思議だ。
また近代になって入手したという円山応挙は『七難七福図巻』を展示。七難と比べて七福の生き生きした筆致が面白い。

以上気ままに書いたけど、禅と絵画の関係について学べたのと若冲のおかげで、かなり満足度の高い展覧会だった。


2025.4.5 (Sat.)

昭和100年映画祭、第3弾は『鴛鴦歌合戦』。マキノ雅弘(正博)監督が1939年につくったオペレッタ時代劇作品。
マキノ雅弘というと早撮りで80点前後の作品を量産するイメージ。決して100点満点の作品にはならないが、
それはそれで映画が娯楽の王道だった時代の職人芸の世界である(→2024.12.112024.12.132024.12.152024.12.16)。

この『鴛鴦歌合戦』も10日間ほどでつくったそうだが、そういうある種の「軽さ」がいい方に作用しているのはわかる。
阪妻のジャズ殺陣でも披露されていたマキノ雅弘の音楽センスが冴え渡る。早撮り由来のテンポの良さも噛み合っている。
もちろん楽曲もノリノリ。工夫したカメラワークで各キャラクターが朗々と歌う姿は、現代のPVにまったく見劣りしない。
家臣が和楽器を構えてから鳴り出すのがビッグバンドジャズという発想が凄い。刀を使わないジャズの殺陣もさすがだ。
合わない人はまったく合わないだろうなあとも思うが、娯楽作品としては振り切っていて、戦前の日本の凄みを感じる。
殿様とお富ちゃんの歌唱力が抜群と思ったらさすがの本職なのであった(ディック・ミネと服部良一の妹の服部富子)。
その中で志村喬の健闘ぶりもかなり印象的。残念なのはヒロインの魅力がイマイチなことで、性格が少々エキセントリック。
さらに歌はだいぶ厳しい箇所も。ヒロインは歌が上手くないといけないのだ、という基本的な事実を突きつけられた感じ。

そんなわけでだいぶ楽しませてもらったが、肝心の物語はやや粗く、最後の結論のもっていき方が雑だったのは残念。
あっちのネタバレになっちゃうけど、壺を生かした山中貞雄(→2022.11.5)との差は歴然としている。満点が取れない。
とはいえマキノ雅弘監督の凄みをわかりやすく示している作品なのは間違いない。わざわざ映画館で観た甲斐があった。


2025.4.4 (Fri.)

昭和100年映画祭、第2弾は『無法松の一生』。教養として無法松をきちんと知っておきたかったので観てみた。
4回映画化されたそうで、今回観たのは1958年の三船敏郎主演のやつ。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞とのこと。

結論から言うと超絶クソ映画であり、稲垣浩監督は監督の才能が皆無であるとしか思えないほどの駄作だった。
歌舞伎的ダイジェスト感覚による原作の展開を追うだけのカットの連続で、テンポの悪い編集は冗長極まりない。
地獄のような暗転の連続と特殊効果による逃げのクライマックスも拙い。松五郎の内面の葛藤が描ききれていない。
そもそも物語じたい、何が面白いのかまったくもってサッパリ。キレキレの三船敏郎以外に褒めるところがない。
こんなものを名作などとぬかしているのは、松五郎を見世物のように眺めて面白がっているだけの悪趣味な連中だ。
オレが独身男性であるせいで不快感がマシマシであるとは思いたくないが、本当に気持ちの悪い映画だった。


2025.4.3 (Thu.)

昭和100年映画祭、第1弾は『遙かなる山の呼び声』。山田洋次監督で舞台は北海道。主演が高倉健。相手が倍賞千恵子。
武田鉄矢が車を運転するし渥美清まで出てきて、なんだかどこかで見たような気がする(→2012.10.152024.11.19)。
そっちのログではかなりいろいろ分析したけど、小難しいことは考えずに観られるのが山田洋次監督の偉大さなので、
あれこれ書かずに結論だけ。ハナ肇が持ち味全開なので優勝です。もちろん吉岡秀隆も優勝です。おめでとう!

とはいえラストシーンについてちょろっと。倍賞千恵子とハナ肇が出てくるけど、このふたりが和解していることは、
高倉健の存在がなければありえなかったことなのだ。そして最後は、高倉健が泣かなかったという昔話を伏線としている。
キャラクターを操るストーリーとして本当によくできている。さすがなので山田洋次も優勝です。おめでとう!


2025.4.2 (Wed.)

「レドミ」ことレアンドロ=ドミンゲスが亡くなった。ついこないだまでキレキレのプレーを見せてくれていたのに。
やはりMVPを獲った柏時代が全盛期だとは思うが、横浜FC時代もとんでもない存在感だった(→2019.3.232019.8.24)。
強くて上手くて諦めなくて、こんなん相手にいたら絶望感が半端ないよなあ、なんて思いながら観戦した記憶が蘇る。
それにしても、自分より若くて頑丈で人間性も優れている人が病気で亡くなるというのは堪える。ただただやるせない。


2025.4.1 (Tue.)

本日より新年度であります。知らないうちにいろいろ変化があって、現状把握するだけでなかなか大変な一日だった。
まあそれだけ昨日まで豪快に遊び倒ししていたわけですが。でも遊びというよりはひたすら学びだったわけですが。
日記を書き上げて任務完了なので、なんとかして早いうちに学習した内容をまとめたいところであります。


diary 2025.3.

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