diary 2021.3.

diary 2021.4.


2021.3.31 (Wed.)

あまりにも荷物が多くて、昼飯がてら家と学校を往復する破目に。最後の最後で礼服とスーツがデカかったなあ。

年度末ということで最後まで残っている皆様は少なかったのだが、笑顔で見送っていただけたのはありがたい。
校長からは何度か「損失」という言葉をいただいたのも、まあそういうお世辞を言われる程度には働けたのかなと。
異動してきてたった1年で去るというのは、あまり貢献できずにただ迷惑をかけただけという印象になってしまうが、
それでも気持ちよく送り出していただけて、僕としては感謝しかございません。本当にありがとうございました。

しかし一度も学級担任をやることなく11年の中学校教員生活を終えるとは……。逃 げ お お せ た


2021.3.30 (Tue.)

旅行から日常に戻って、職場の片付け作業を開始する。今回はプリント類や本などの資料をかなり強引に断捨離。
英語サヨウナラ、中学サヨウナラということでバンバン処理して、送り出す荷物をダンボール箱1個に抑え込んだ。
しかし文具類が意外と大量で、ここで難儀。何でももったいないと思ってしまう悪癖が出て苦しんでおります。

午後は歯医者に行って睡眠時無呼吸症候群の医者に行って、そのまま明日職場で配る菓子を見繕う。
結局はどら焼きにしたのだが、どら焼き40個はたいへん重い。冷静に考えると当たり前か。あんこは重い(→2018.2.26)。

買い物を終えるとカフェに寄って昨日までの旅行の写真整理に取り組む。相変わらず中身の濃い旅行だなあとしみじみ。
それにしても、今回の旅程みたいな天才的な組み方を自慢できる相手が周りに誰ひとりいないのが、ちょっと虚しい。
日田から中津に出るルートを採用することで耶馬渓でのサイクリングを組み込むとか、凄くないかい? 凄いでしょ?
市役所めぐりと神社めぐりと観光地めぐりを、本当に無駄なくかなり合理的に実現できていると思うんだけどなあ。
あともうひとつ思うのが、自分は写真が上手いのかどうなのか。そもそも「写真が上手い」とはどういうことなのか、
正直自分でもよくわかっていないのだが、被写体の魅力をかなりきちんと表現できているのではないかと思っている。
それについての感想をもらったことがまったくないので、自信が持てないでいるのだ。僕は写真が上手いんですかね?
上手いと思った人は、素直にびゅく仙にその旨を伝えましょう。写真については本当によくわからないままだなあ。


2021.3.29 (Mon.)

昨日の夕方からすでに青空になっていたが、今朝もなかなか気持ちよい朝である。ただ、中国からの黄砂がけっこう強い。
絶景の写真を撮りたい身としてはちょっと残念だが、春の九州だからしょうがない。むしろ晴れたことを感謝しなければ。
特に今日は自転車が生命線となるので、晴れてくれなかったら大惨事になるところだった。ありがたやありがたや。

さて最終日は、宿泊した耶馬溪サイクリングターミナルで朝イチで自転車を借り、まずは一目八景・雲八幡宮を押さえる。
そしてそのまま国道212号を中津方面へと移動し、羅漢寺・青の洞門へ向かう。それでいったんサイクリングは終了するが、
バス移動で中津駅まで出たら、再びサイクリングで中津市内を動き、さらに豊前市役所へ。死ぬほどサイクリングな一日だ。

おいしく朝食をいただくと、荷物を預かってもらって自転車だけ借りる。8時半、いよいよサイクリングがスタート。
最初に目指すのは一目八景。周囲八方の岩峰群が一望できることからその名がついた耶馬渓の名所だが、南へ12kmである。
一口に「耶馬渓」と言っても範囲はとんでもなく広くて、一目八景は「深耶馬渓」に位置するのだ。行ってやろうじゃんよ!
耶馬溪中学校前の三叉路から県道28号に入るが、いきなり上り坂。鼻息荒く走っていくと、なんと目の前に鹿がいた。
唖然とする僕を見て、鹿も唖然としている。両者しばらくそのままでいたが、僕がカメラを取り出そうとしているうちに、
鹿は山へと逃げていってしまった。とんでもないシャッターチャンスを撮り損ねて全力でがっくり。今でも本当に悔しい。

  
L: 鹿と遭遇した現場。まさか鹿がいるとは思わなかった。姿を撮影できなかったのが本当に悔しい。
C: 途中にある集落はこんな感じ。実にのどかである。  R: 奇岩が登場。いかにも猿が遊びまわっていそう。

山道のサイクリングを描写しても面白くないのでさっさと深耶馬渓に到着。時間にして30分強、電動自転車さまさまだ。
一目八景展望台の周辺には道沿いに土産物店が並んでいるが、平日朝9時はまだ開店前で、ひと気はまったくなかった。

  
L: 深耶馬渓に到着。鳶巣山の手前に土産物店が並んでいる。朝早すぎてまだ営業していなかったのが残念。
C: 岩山の手前、土産物店の裏には川が流れており、大きな鱒が泳いでいる。  R: 奥にある駐車場から見た風景。

ではさっそく一目八景の展望台へ。展望台とはいうが川のすぐ脇で高さはなく、対岸にそびえる山を見上げる感じ。
鳶巣山、夫婦岩、群猿山などが見えるが、正直どれも同じような印象の山で、あまり外見的な違いはないように思える。
紅葉の時期には絶景となるそうだが、黄砂越しでは魅力を完全に味わうのは難しかったか。まあ奇観ではあるんだけどね。

  
L: 鳶巣山。  C: 夫婦岩(左端)。  R: 群猿山。なお中津市は岩肌が見えるように木々を処理する事業をやったそうで。

 通りを挟んで反対側には烏帽子岩(左)と仙人岩(右)。

これで一目八景はクリアなのだ。帰りはバッテリーを無駄使いすることなく走って三叉路へと戻るのであった。
少し心理的な余裕ができたので、耶馬溪ダムを撮影しておく。ダム湖は耶馬溪湖と呼ばれ、水上スキーができるらしい。

  
L: 耶馬溪ダムの天端。  C: 県道28号から見た耶馬溪ダム。  R: 桜越しに眺める耶馬溪ダム。

三叉路へ出ると、そのまま国道212号を南西へ。5kmほど行ったところにある雲八幡宮に参拝するのだ。
面白い名前の神社だが、神功皇后が腰を下ろして休んだ石から703(大宝3)年に白雲が立ちのぼって童形の神様が現れ、
それでその石を磐座として祀るようになったという。973(天延元)年、清原正高により400m上流の現在地に遷座。

  
L: 雲八幡宮の境内入口。集落の西端に位置するが、いかにも山間の古社といった雰囲気。  C: 鳥居をくぐって参道を行く。
R: 手水鉢の河童。平家の落人の霊が河童となって暴れたため、祭りで「かっぱ楽」が始まったそうだ。350年以上の伝統がある。

  
L: 拝殿。  C: 本殿は覆屋の中。  R: 御神木の千年杉と境内社。千年杉は2010年に1本伐採されたが、残り2本あるみたい。

御守を頂戴すると、耶馬溪サイクリングターミナルに戻る。大分交通耶馬渓線の線路跡がサイクリングロードとなっており、
下りになることもあってたいへん快調に走ることができた。途中に下郷駅跡があり、鉄道時代の雰囲気をきちんと残している。

  
L: 大分交通耶馬渓線跡のサイクリングロード。こちらは下郷駅跡。  C: 駅舎は休憩所となっているようだ。  R: トンネル。

耶馬溪サイクリングターミナルで荷物を回収すると、お礼を言っていよいよ本格的に中津方面へと向かう。
サイクリングロードは山国川の左岸を走り、国道212号は右岸を走る。きれいに川の両側を並走する感じになっている。
車を気にせず走ることができるのは、たいへんありがたい。陽気がよくって絶好のサイクリング日和だ。景色も最高。

  
L: 中津市役所耶馬溪支所。合併前は耶馬溪町役場だった。ちなみに自治体名としては「渓」ではなく「溪」を使用。
C: 山国川を渡る。  R: こんな感じの道を行き、青の洞門を目指して走る。やはり両サイドの岩肌が耶馬渓らしさ満載。

  
L: 途中の久福寺。耶馬渓らしい岩肌に観音堂が挟まっているのが見える。  C: 冠石野(かぶしの)駅跡。春でございますね。
R: 川のすぐ脇を通るが、左から岩がせり出して無茶なS字になっている箇所も。すぐ上を通る道路はトンネルとなっている。

そんなこんなで国道212号と合流し、羅漢寺駅跡に到着。ここから2kmほど南へ行くと羅漢寺である。当然、突撃なのだ。
山国川に架かる羅漢寺橋は1920(大正9)年に完成した石造3連アーチ橋で、アーチが緩やかなため工事は難航したとのこと。

 
L: 羅漢寺橋。  R: たもとから意地でアーチを眺める。大型車両は通行禁止。

ほどなくして羅漢寺の入口に到着するが、駐車場から石段を上っていくとリフトがあった。これはありがたい。
喜んでチケットを買ってリフトに座る。時間の都合もあり山頂までは行かず、途中の羅漢寺駅で降りていざ参拝である。
しかし羅漢寺は境内が全面撮影禁止。非常に残念だが、写真を撮りたい欲望を捨ててくれ、とのことなのでしょうがない。
まあ後で考えると、撮影禁止にしておかないと日に2〜3人は撮影の邪魔だと欲望丸出しでケンカをおっぱじめそうだし、
月に2〜3人はカメラに夢中で足元不注意で滑落死しそうだし、わりと油断ならない場所なのだ。舐めてかかるとかなり危険。
岩肌を削ってつくられた山岳寺院はさすがに強烈で、洞窟に無数の石仏としゃもじが並ぶ光景は現世のものとは思えない。
ふだん慣れている仏教とは少し違う価値観を目の当たりにして、なんとも不思議な気分になるのであった。

  
L: 羅漢寺の入口。  C: リフトに乗って山門へと向かう。リフトで寺に参拝するのは初めてだと思う。
R: ここから先は撮影禁止。「写真を撮りたい欲望を捨て、お参りする誓願のみで山内にお入り下さい」とのこと。

羅漢寺から羅漢寺橋まで戻ると、そのまま北へ進んでいよいよ青の洞門へ。この辺りは「本耶馬渓」エリアとなる。
まずは山国川の右岸を進んで青の洞門をくぐってみる。菊池寛『恩讐の彼方に』のモデルとして知られるトンネルだが、
掘った禅海は主殺しなんてしておらず、そこは完全に創作(そもそも小説の主人公の名前は「了海」となっている)。
耶馬渓へ立ち寄った際に人々が岩壁の鎖で行き来しているのを見て、1735(享保20)年から洞門の開削を開始した。
そこから30年かけて掘り続け、1764(明和元)年に洞門を完成させた。なお、1750(寛延3)年に第1期工事が完了すると、
人は4文、牛馬は8文の通行料を徴収して続く工事の費用に充てたため、これが日本初の有料道路と言われている。
1906(明治39)年から翌年にかけて拡幅工事が行われており、残念ながら禅海が掘った痕跡はほとんどなくなっている。

  
L: 競秀峰と禅海和尚の像。ぜんぜんお坊さんっぽくない。  C: そのまま進んでいくと青の洞門。これはなかなか強烈。
R: こちらがトンネル本体。ちなみに「青」とは周辺の地名で、駐車場のひとつ手前にあるバス停の名前にもなっている。

トンネルの手前には禅海和尚の手掘り洞門への入口がある。歩道から道路の地下を横断する感じになっているが、
曲がってくねって構造はあまりよくわからない。またコンクリートで補強されている箇所も目立っている。
とはいえ雰囲気はしっかり味わえる。しかしまあ、「青の洞門」という名前が抜群に上手いことハマったな、と思う。

  
L: 禅海和尚の手掘り洞門入口。  C: 中はこんな感じで完全に手掘り感というわけでもない。  R: でも雰囲気は味わえる。

手掘り洞門を出たり入ったりして気が済むと、その名も禅海橋で左岸へと渡る。そうして山国川越しに競秀峰を眺める。
川に面して約1kmにわたり岩山が押し合いへし合い並んでおり、「競秀峰」とは実に上手い名前をつけたものだと感心する。
駐車場の北側はネモフィラ畑となっているが、これは「青の洞門」の名前にちなんで地元の人が植えたものだそうだ。
冒頭で述べたとおり、耶馬渓の範囲はたいへん広いが、その入口として耶馬渓を代表する景色であろうとしている。
(合併前に「本耶馬渓町」を名乗っていた点に強いプライドを感じる。1920年代から耶馬渓改名バトルをやっていたのだ。)
確かに見事な眺めだが、黄砂がすごいせいでなんとなく色合いがぼやけた印象。まあそれも含めて春の景色ってことで。

  
L: 山国川越しに眺める競秀峰。  C: ネモフィラ畑と競秀峰。  R: 対岸を眺めるが、確かに峰が見事さを競っている。

 
L: 自転車を返却。
お世話になりました。  R: バスの中から見た耶馬渓橋。8連で116m、日本最長の石造アーチ橋。

青の洞門駐車場からバスに乗り込み、そのまま青の洞門を抜けて中津駅前まで出てしまう。そしてまたレンタサイクル。
われながらなかなか狂気の沙汰である。でもそれがいちばん効率がいいのだからしょうがないのだ。気合いを入れて出発。
まずは中津市役所へ。ちょうど1年前にも撮影しているけど早朝で(→2020.3.29)、光の加減が厳しかったのでリヴェンジだ。
3回目にしてようやくマトモな写真が撮れて、少し感慨に浸る。なお、中津市役所は梓設計の設計で1982年に竣工している。

  
L: 1年ぶりの中津市役所。まずは西から。平日なので車がいっぱい。   C: 少し南に寄る。  R: 南西から。

  
L: 道路を挟んで南側。  C: 中津市役所は正面がわかりづらいが、南のこちらが正面。  R: 南東から。

  
L: 同じく南東から、交差点越しに眺める。   C: 東から見たところ。  R: 少し北に寄って眺める。

  
L: 意地で北から見たところ。  C: 駐車場に戻ってきて北東から。  R: 平日なので中に入ってみた。うーん80年代庁舎。

続いては中津城である。こちらも10年前に訪れているが(→2011.8.13)、旧城内にある神社についてはノーマークだった。
今回は神社の方を主体に動きまわるのだ。南から中津城公園に向かうと石鳥居があるが、これは中津神社の鳥居である。
くぐってまっすぐ進むと中津大神宮である。中津神社は左手(西側)の敷地端っこで、位置関係が少々ややこしい。
中津大神宮は1881(明治14)年の創建で、その名のとおり伊勢神宮からの勧請。神宮豊前教会が一等地を押さえたわけだ。

  
L: 中津城公園の入口にある中津神社の石鳥居。  C: まっすぐ進むと中津大神宮の境内。  R: そのまま参道を行く。

中津大神宮の奥には城井(きい)神社と扇城(せんじょう)神社が鎮座する。中津城を築いたのは黒田官兵衛孝高で、
豊臣秀吉の命で豊前国に入った。ところが豊前の国人には城井(宇都宮)鎮房がおり、秀吉との関係があまり良くなかった。
鎮房は英彦山の北東約7.5kmとかなりの山の中にある城井谷城を本拠地としていたが、伊予国への移封を命じられて反発し、
いったん明け渡した城井谷城を黒田氏から奪い返す。黒田長政は和議を結ぶと、鎮房を中津城に招き入れて謀殺してしまった。
その後、中津城に鎮房の亡霊が現れたため、孝高と長政は鎮房を祀る城井神社を城内に創建。長政が福岡に転封された後も、
福岡城内に鎮房の霊を祀ったという。1920(大正9)年には鎮房とともに戦った家臣45名を祀る扇城神社が創建された。

  
L: 中津大神宮の拝殿。妻入で独特。   C: 城井鎮房を祀る城井神社。鎮房は善政を敷いていたそうだ。  R: 扇城神社。

中津城模擬天守の手前には奥平神社が鎮座している。こちらは1717(享保2)年から明治まで藩主だった奥平氏の中で、
徳川家に帰参した定能(貞能)、家康の娘婿となった信昌、その長男で初代宇都宮藩主となった家昌の3柱を祀っている。
また、先述の公園敷地西側にある中津神社は、城下町のさまざまな神社を合祀して1883(明治16)年に創建された。

  
L: 中津城の模擬天守前に鎮座する奥平神社。   C: 横から見たところ。  R: 敷地の西側にある中津神社。

では本格的にサイクリングを再開。目標は、南東5km強のところにある薦(こも)神社だ。大貞八幡宮という別名がある。
720(養老4)年、日向・大隅の隼人が反乱を起こすと、朝廷軍は三角(みすみ)池のマコモで八幡神の枕型御神体をつくり、
それを神輿に乗せて戦い鎮圧したという。薦神社は承和年間(9世紀前半)、その三角池のほとりに創建された。

  
L: 薦神社の北端の敷地入口。ここからだと三角池の東半分をまわり込んで境内へ向かうことになる。
C: こんな感じの中を行く。右手は一段高くなっており、その先に三角池。  R: 進んでいくと呉橋。

薦神社は、1622(元和8)年に細川忠興が再建した神門が国指定重要文化財となっている。二階建ての楼門で、
いかにも八幡神らしい神仏習合ぶりである。拝殿と本殿の間で横向きとなっているが、これは三角池から見ての正面か。
社殿は江戸時代末期の築で、幅が広くて宇佐神宮の下宮を思いださせる(→2011.8.132015.8.222020.3.29)。

  
L: 三角池を眺める。三角池は「御澄池」とも書く。  C: 神門へと向かう参道がかなり立派。  R: 神門。幅がないなあ。

  
L: 神門の脇を抜けて拝殿の方へ。神門(右)が横向きなのがわかる。  C: 拝殿。  R: 本殿を覗き込む。

御守を頂戴すると西へ10km、県境を越えて目指すは豊前市役所だ。午前中に耶馬渓をあれだけサイクリングしておいて、
さらにここでサイクリング。自分でも狂っているとは思うが、せっかくここまで来ているのだからやらないともったいない。
幸いなことに起伏はほとんどないし、国道10号は広くて走りやすい。夢中でペダルをこいで到着してしまったのであった。
しかしながら豊前市役所は、東側の棟が耐震補強工事の真っ最中。この厳しい現実は、僕の膝にかなりのダメージを与えた。

  
L: 豊前市役所。敷地入口(北西側)に駐車場を広くとる。  C: そのまま進むとエントランス。  R: 角度を変えて眺める。

豊前市役所は1974年に内藤建築事務所の設計で竣工。敷地内に工事関係者の名前を彫った石碑があるのでありがたい。
建物の配置がなかなか独特で、事務棟が北と東に延び、ずらして並べた議会棟が南に延びる構成となっている。
このギャップの部分が90度の角度を持つエントランスとなっていて、来庁者をしっかり迎え入れるような印象となる。

  
L: いったん敷地の外に出て北西から議会棟中心に眺める。  C: 西から。議会棟の側面。  R: 南から。左が議会棟。

なお「豊前市」とは平成の大合併で生まれたような名前だが、市制施行は1955年で、昭和の大合併の時期に誕生した市だ。
1935年に宇島(うのしま)町と八屋(はちや)町が対等合併して新たな八屋町となっており、これが新市の中心となった。
しかし市の名前を「宇島市」とすると旧八屋町民が反発し、その結果、「豊前市」という漠然とした名前で決着したのだ。

  
L: 再び敷地内に入る。南東から見たところだが、東側の棟がしっかり耐震補強工事中。せっかく来てこれはがっくり。
C: 北東にまわり込む。  R: 敷地の外、北から眺めたところ。向かって左が事務棟で、右が議会棟となる。

 平日なので中に入る。中央に広いロビーを置く構成が、当時にしては先進的。

余裕があれば天地山公園や大富神社まで行きたかったのだが、さすがにもう体力的にも精神的にも限界である。
かなりヘロヘロで東へ戻り、最後の気力を振り絞って山国川の河口近くにある八幡古表(こひょう)神社に参拝する。

  
L: 八幡古表神社の南の入口。この周辺はかつて「吹出浜」といい、島のような地形だったそうだ。
C: 表参道を行く。かなり長い。  R: 随神門。大きな唐破風が載っており、かなり独特なスタイル。

八幡古表神社の公式サイトの由緒を要約すると、545年に主祭神の息長帯比売命つまり神功皇后が現れたそうで。
三韓征伐の際にここで戦勝祈願を行ったけど、いい場所だから神社つくってくれたら国と民を守るわよ(ひどい意訳)、
ということで創建。744(天平16)年、反乱を起こした隼人の霊を鎮めるために神様の人形で相撲をやるようになった。
その細男舞・神相撲が「古(いにしえ)を表す」ものであるため、古表大明神と呼ばれるようになったという。

  
L: 随神門を抜けたところ。拝殿向かって左は住吉神社、右は四十柱(よそはしら)神社。この両神社の神々が相撲をとるそうだ。
C: 拝殿。  R: 左を向くと、左から境内社・文化財収蔵庫・神楽殿が並ぶ。神楽殿では4年に一度、細男舞・神相撲が行われる。

 山国川を渡って大分県に戻る。自転車でグランツーリスモな一日でございました。

御守を頂戴すると、フラフラになりながらどうにか山国川を渡って大分県へ戻る。駅で自転車を返却して一安心。
とんでもねえ春の大サイクリングがようやく終わって、呆けつつ小倉行きの列車に乗る。列車は順調に西へ進んでいくが、
さっき必死でペダルをこいで戻った道のすぐ近くを猛スピードで逆方向にすっ飛ばすので、なんとも虚しい気分になる。

朽網駅に到着すると、バスに乗り換えて北九州空港へ。スターフライヤーで快適に羽田までひとっ飛びなのであった。
しかしアレだな、大分県民はエンスト多すぎだな。横断歩道を渡るたび、かなりの車がエンストぶっこいていたのだが。


2021.3.28 (Sun.)

4日間の春休み旅行、3日目は久大本線で由布院方面へと向かう。目指すは由布市役所、そして日田市役所だ。

 別府駅前の油屋熊八もマスクを着用していたのであった。

朝の7時に別府駅から大分駅に移動し、久大本線に乗り換え。久留米-日田間の西半分は10年前に乗ったが(→2011.8.7)、
日田-大分間の東半分はまだである。初めて乗る区間なのでたいへんワクワクしているのだが、残念なことに雨である。
車窓の景色を楽しめないのはなんとも切ない。さらに初訪問となる由布市役所を撮影することを考えてもまた切ない。
でもこればっかりはしょうがないので、由布院温泉に浸かれるぞ!とポジティヴな思考回路で久大本線に乗り込む。
単線をのんびりと揺られること45分ほどで天神山駅に到着。ここが由布市役所の最寄駅なのだ。が、下車してびっくり。
ホームだけのきわめて簡素な駅だが、すぐ目の前の道(県道719号)が崩壊しているではないか! さすがにこれは怖い。

  
L: 天神山駅前、崩壊している県道719号。土砂が崩れて脇を流れる大分川へとなだれ込んでいるのであった。
C: 現場を覗き込む。  R: 角度を変えて眺める。奥が天神山駅。さすがにこんな状況に出くわしたのは初めてだ。

呆気にとられつつ、天神山駅から南西1.5kmほどのところにある由布市役所へ向かう。農地ばかりでのんびりしており、
いかにも平成の大合併で町が市になりました、という雰囲気。それで温泉街から離れた役場が市役所になっちゃったのだ。

 こんな感じの道を行く。

そんなこんなで由布市役所に到着。由布市は挾間町・庄内町・湯布院町が合併して、2005年に誕生した。
しばらくは市役所の機能を3分割して各庁舎で事務をやっていたが、2016年に庄内庁舎を本庁舎という扱いにした。
本館が1990年の竣工、新館が大有設計の設計で2016年に竣工している。雨の中、ションボリしつつ撮影を開始。

  
L: 国道210号の交差点から見た由布市役所。合併前は庄内町役場だった。生垣の内側はかなり広い駐車場。
C: 敷地内に入って全体を眺める。向かって右は議場かと思ったら保健センター。  R: 北東から見たエントランス。

  
L: 本館の裏にまわり込む。南東から見た側面と背面。  C: そのまま左を向くと新館。本館に雰囲気を合わせたデザインである。
R: 新館の東側の側面。議場はこちらの3階に入っており、新館が増築される前はやはり本館西側2階建て部分が議場だったのかも。

  
L: 南東から本館(奥)と新館(手前)を眺める。  C: 南から見た新館の背面。  R: 南西から見た新館。

  
L: 本館西側の背面。  C: 少し右を向いて本館全体の背面。右手前は新館。  R: 右を向いて新館の西側の側面。

  
L: 本館(左)と新館(右)の間の通路。  C: 西から見たところ。左が本館、右が新館。  R: 北西から見た本館。一周完了。

  
L: エントランスを中心に眺めた本館。  C: エントランス。いかにも平成な庁舎建築である。
R: 敷地の北西端、交差点に面して建っている素戔嗚尊像。庄内神楽の発展を祈念したものとのこと。

ベンチに座って雨が弱まるのをしばらく待ったのだが、結局どうにもならず。覚悟を決めて撮影を終えると天神山駅へ。
崖崩れ以外に特にこれといった面白みのないまま由布院へと向かうのであった。山の中を40分ほど走って由布院駅に到着。
ホームに降りるとさすがに有名な温泉地だけあり、観光客が多い。JR九州名物の特急列車が停車しており、かなりの賑わい。
とりあえずコインロッカーに荷物を預けて身軽になると、傘を差してメインストリートの駅前通りをまっすぐ歩いていく。

  
L: 由布院駅。「ゆふいん驛」という看板がなんとも間抜けなアンバランスさである。「ゆふいん」表記については後述。
C: 駅前通り。がっつり観光地である。晴れていればまた雰囲気が違うんだろうなあ。  R: 湯の坪街道。がっつり観光地。

由布院に来るのは初めてだが、溢れ出す「清里感」になんとも圧倒される。ホントこれ、清里の雰囲気なのである。
観光客を待ち構える小洒落た店が並んでおり、そんな通り(「ストリート」とカタカナ表記したい感じ)を歩くこと、
それ自体が消費行動として成立しているような、そういうリゾート感。21世紀にシフトチェンジしたバブルの残滓。
雨だけど観光客は本当に多くて、みんなはしゃいでいる。でも僕はその勢いに反比例して醒めていくのであった。
晴れてりゃもう少しポジティヴに事態を受け入れられたのかもしれないが、なかなかそこまでの心理的余裕はなかった。

  
L: 湯の坪街道には小ぎれいな店舗が並ぶが、一歩奥に入ると昔ながらの山間の住宅という雰囲気がよく残ってもいる。
C: やすらぎ湯の坪横丁。10ほどの店が集まり、回遊型の空間を上手くつくっている。  R: うーんこの清里感よ。

 
L: もくあみの杜。店舗と飲食店の複合施設。もりのわ設計室+建築デザイン工房kocochi空間JVの設計で2019年に竣工。
R: 中はこんな感じ。雨なのは残念だったな。ふだんはどんな感じで賑わっているのか、気になるところである。

そんなこんなで金鱗湖に到着。いちおうここを街歩きのゴールに設定していたのだ。朝霧がかかる風景が有名らしいが、
雨だともうどうしょうもない。軽く一周してみるが、特に湖面が美しいこともなく、砂利道をただ歩くだけになってしまった。

 
L: 金鱗湖。由布岳の下にあるので「岳ん下ん池」と呼ばれていたが、1884(明治17)年に毛利空桑が「金鱗湖」と名付けた。
R: 湖畔に鎮座する天祖神社。いちおう参拝しておいた。本殿は覆屋の中で、小規模で御守もないのでちょっとションボリ。

ではいよいよ由布院温泉に突撃なのだ。由布院には共同浴場がいくつかあるが、今回は湯の坪温泉に浸かるのだ。
江戸時代の文献にもその名前が残っているという歴史ある施設で、入口のポストに200円を入れて中に入るスタイル。
運のいいことに客は誰もおらず、存分に堪能させていただいた。雨で凹んでいたけど、これで一気にポジティヴになる。

 
L: 湯の坪温泉。  R: 中に入るとこんな感じ。もう最の高。マジで最の高。時間の許す限り存分に浸かる。

なお「由布院/湯布院」の表記だが、「由布岳」の表記があるとおり、もともとは「由布院」と書いていた。
しかし1955年に由布院町と湯平村が対等合併し、湯平村から1文字採って「湯布院町」という自治体が誕生したのだ。
その後、先述のように2005年に挾間町・庄内町・湯布院町が合併して由布市となる。まあようやく元に戻ったという感じ。
ただ、由布市内には「湯布院町」という地名がしっかり残っており、ややこしさは持ち越しとなっているのが現状である。
結局どっちの表記でも問題ないということで、「ゆふいん」とひらがな表記する例もある。いや「由布院」だろと思うのだが。

 白滝川が大分川に合流する湯布院デルタ。宇奈岐日女神社へ行く途中にある。

最後は宇奈岐日女(うなぎひめ)神社に参拝する。国常立尊をはじめとする6柱を祀ることから「六所宮」とも呼ばれる。
旧県社ということで、由布院を代表する神社である。創建伝説は諸説あるようだが、由布院盆地はもともと湖であり、
開拓にあたってウナギを沢沼の精霊として祀ったことがはじまりだとか(金鱗湖はその広大な湖の名残だという)。

  
L: あらかじめ撮影しておいた、由布院駅から延びる五叉路に面する宇奈岐日女神社の大鳥居。ここから神社までほぼまっすぐ。
C: 神社に向かう参宮通りの途中で眺めた由布岳。雨雲で山頂が見えないのが本当に残念。  R: 境内に到着。大鳥居から1kmほど。

  
L: 参道を行く。ここに来るまでは田んぼだらけだったが、境内は木々と石畳で神域らしい雰囲気にしっかりと包まれている。
C: 神門。「宇奈岐日女神社」の扁額が長い。  R: 神門をくぐる。建物は新しいが、石造の神橋などが風格を感じさせる。

  
L: 拝殿。  C: 奥の本殿を覗き込む。  R: 境内の近くに現れたカニ。もともと湖だったという伝説がなんとなく頷けるような。

御守を頂戴すると参宮通りで駅前に戻る。並んでいる店を軽く歩きまわって雰囲気をつかむと、特急で日田まで出てしまう。
本当は豊後森駅でも下車して歩きまわってみたかったのだが、久しぶりの日田を優先した。久大本線は本数が少なくて。

日田駅にはお昼どきに到着。日田といえばやはり日田焼きそば。なぜか久留米と小倉で食ったが(→2011.8.72015.11.23)、
本拠地である日田では食ったことがない。それはイカンということで、わざわざ想夫恋の総本店でいただいたのであった。
さすがに混んでいて少し待ったが、席に着いたらわりとスピーディに登場でありがたい。そりゃもう旨いに決まっている。

  
L: 日田駅。10年ぶりの再訪問だが、駅舎が水戸岡仕様(→2014.11.8/2015.8.19/2015.10.17)になっていて全力でがっくり。
C: 想夫恋総本店。国道212号に面しており、ロードサイド志向だ。  R: ご当地焼きそばの中でも日田焼きそばはかなり好き。

満足感に浸りながらすぐ目の前の交差点を北上。途中でトンネルを抜けつつ20分ほど歩くと、大原八幡宮である。
680年に靱負郷(ゆきいごう)岩松ヶ峰に現れた八幡神を祀ったのが起源とされている、日田を代表する神社だ。
鳥居がちょうど丁字路に面しており、境内はしっかり高さのある丘となっている。社殿に出るまでの雰囲気がとても厳か。

  
L: 大原八幡宮の鳥居。茂る木々がいかにも歴史ある古社らしい雰囲気を漂わせる。  C: 境内を行く。  R: 厳かな雰囲気。

石段を上りつつ何度か曲がってようやく楼門に出る。楼門は境内最古の建築物で、1687(貞享4)年の築とのこと。
多少褪せてはいるが、色を塗った軒下の斗栱や蟇股などの装飾が見事で、神仏習合らしさと家光好みがなんとなく窺える。

  
L: 大原八幡宮の楼門。歴史ある八幡宮らしさが出ていて興味深い。  C: 角度を変えて眺める。   R: くぐって右手に神楽殿。

楼門をくぐると少し食い違わせて拝殿。よく見ると唐破風がそのまま延びて向拝となっており、なかなか珍しい造りだ。
後ろの本殿と一体化させているが、入母屋造でそれぞれに独立した屋根があり、これまたかなり独特なスタイルである。
拝殿・幣殿・本殿は1794(寛政6)年の築とのこと。正面からだと古さを感じないが、横から見ると圧倒される建築だ。

  
L: 拝殿。御神燈の提灯が神仏習合っぽい。  C: 横から見た拝殿・幣殿・本殿。これは独特だ。  R: 本殿をクローズアップ。

御守を頂戴するとさっきの丁字路からまっすぐ西へ行って日田市役所。こうして実際に歩いてみると市役所の位置は、
駅と大原八幡宮の中間地点ということがわかる。日田は10年ぶりで、市役所の撮影も当然10年ぶり(→2011.8.7)。
前回はそこそこいい天気の下での撮影だったが、今回は「いちおう雨はやんだ」というタイミングで冴えない光加減。
それでも全容を記録すべく撮影してまわる。前回も書いたが、安井建築設計事務所の設計で1992年に竣工している。

  
L: 日田市役所。まずは南西のオープンスペースから一発。  C: 高層棟をクローズアップ。  R: 間にあるエントランス。

  
L: オープンスペースから見た低層棟。お察しのとおり議場はこちら側。  C: 南から見た全体。  R: 東から見た全体。

  
L: 北東、裏側にまわり込む。  C: 高層棟の背面。  R: 西から見た全体。しかしまあ切妻屋根で変なデザインだよなあ。

撮影を終えるとやっぱり北西へトボトボ歩いて豆田町へ。重要伝統的建造物群保存地区ということでの再訪問なのだ。
全国にある重伝建の中でも特に豆田町は、街道らしい「線」と陣屋町らしい「面」の両方を楽しめる場所だと思う。
それだけに車の交通量の多さが非常に気になる。なかなか観光に集中できないほどで、重伝建としては非常に残念。
とはいえ逆を言えば今も生活空間ということだし、街の構造上仕方がないのも確かだ。どうにかならないもんですかね。

  
L: 上町通り。県道なので致し方ないとはいえ、交通量が多くてウンザリ。現役で生きている街ということではあるのだが。
C: 増築ぶりが外から見てもすごい日本丸館。国登録有形文化財。  R: 豆田まちづくり歴史交流館(旧船津歯科)。

  
L: 行幸通りの食い違い。ここも車がどんどん来るんでやんの。  C: 食い違いの隅はポケットパークになっている。
R: 「雁木」なのか「こみせ」なのか、ここでの名称はよくわからないが、とにかく木造ピロティアーケードはこんな感じ。

  
L: 食い違いから南に行き、駅の方へ戻る。  C: まっすぐ行って咸宜園跡。  R: あらためて敷地を眺めてみる。

久大本線の線路をくぐって駅の方へと歩いていくと、新しい日田市民文化会館「パトリア日田」があったので撮っておく。
パトリアとはイタリア語で「ふるさと」だと。なぜイタリア語なのかわからん。香山壽夫建築研究所の設計で2007年に竣工。
なるほどそう言われてみれば、同じ設計者による野々市市役所(→2018.11.18)とファサードの基本形は似ている感じ。

 パトリア日田(日田市民文化会館)。

駅でコインロッカーの荷物を回収すると、すぐ南西にある日田バスターミナルに移動。今日はここからさらにバスなのだ。
15時30分発のバスは意外と多くの客を乗せ(日田に遊びに来ている中学生が多かった印象)、耶馬渓方面へと向かう。
山の中へと入っていくほど30分ほどで守実温泉に到着する。ここでバスを乗り換えるが、少し時間があるので歩きまわる。

  
L: 商工会館の前には守実温泉の駅名標。かつては中津から大分交通の耶馬渓線(耶馬渓鉄道)が通っていた。1975年廃止。
C: 中津市役所山国支所は、複合文化施設「コアやまくに」となっている。  R: 近づいて北西から見たところ。

中津市役所山国支所は、合併前の山国町時代である1996年に、町役場を含む複合文化施設「コアやまくに」として竣工。
栗生明+栗生総合計画事務所の設計で、ホールやら会議室やら多目的スペースやら和室やらカフェやらいろいろある。
かなり気合いの入った建物だが、中津市と合併したとなるとかえって外へのアピールが難しい気がしないでもない。

  
L: 敷地内に入るとこんな感じ。  C: 全高53.5mのシンボルタワーには展望室がある。  R: うーんアトリウム。

短い滞在時間で撮れるだけ撮ると、再びバスに乗り込みさらに北東へ。耶馬溪バス停で下車し、のんびりと山国川を渡る。
川のすぐ脇にある耶馬溪サイクリングターミナルが本日の宿なのだ。そう、明日はサイクリングで耶馬渓を走りまくるのだ。
そうして景色を眺めながら中津方面へ出てしまおうというわけだ。このプランが成立するとわかったときは歓喜したぜ。

  
L: 山国川の向かいに耶馬溪サイクリングターミナル。  C: うーんサイクリングロード。  R: こちらが入口である。

受付で手続きを済ませるが、どうやら客は僕ひとりである模様。コロナが尾を引いている状況で申し訳なく思うが、
係の方にはたいへん親切に対応していただいた。おかげで気持ちよく宿泊できた。本当にありがとうございました。

 お部屋はこんな感じ。ええやんけ。

写真だと明るく見えるけど時刻はすでに夕方で、最終日に向けておとなしく過ごす。まあ何かできる場所でもないし。


2021.3.27 (Sat.)

4日間の春休み旅行、2日目である。本日は津久見市と臼杵市がテーマで、まずは朝から津久見市内を動きまわる。
昨日の津久見駅のホームでも印象的だったミカンだが、街中には津久見市公認キャラクター「つくみん」がいっぱい。

  
L: 見るからにガソリンスタンドを改装している、JAの直売所・のぞみ市場 だんだん。つくみんが描かれている。
C: つくみんは津久見みかんから生まれた妖精とのこと。  R: その名も「つくみん公園」にて。

津久見駅からまっすぐ北に行った津久見港には、その名もなんと「つくみん公園」が整備されている。
2004年4月にオープンしたそうだが、広い芝生に「海遊王国」をテーマとした大型の遊具が置かれている。
そして港の向かい側は太平洋セメントの大分工場となっており、無骨なプラントが並んで実に壮観である。
むしろこっちの方が石灰石を産出するリアス海岸の港町という津久見の本質を教えてくれる光景だろう。

  
L: つくみん公園の大型遊具。子どもは大興奮だろうなあ。  C: 高くなっている敷地西端から見た工業地帯。
R: 太平洋セメントの大分工場がよく見える。津久見市は「セメント町」という町名があるくらいにセメントの街なのだ。

  
L: 津久見駅北口のサンロード中央商店街。昭和の雰囲気が漂うが、さすがにだいぶ弱っている印象。
C: 駅前通り。津久見の街は駅の北が商店街、南が住宅地とはっきり分かれている。  R: 津久見駅。

さて津久見といったらヤクルトファンには川崎憲次郎だ。川崎は佐伯市の出身だが津久見高校からドラフト1位で入団。
僕がファンになった1992年は故障で全休だったが、翌年に大活躍して日本一に貢献。野村ヤクルトの勝ち頭だ(→2020.2.18)。
こんな小さい街の高校で甲子園に出場してヤクルトのエースになったのか、と思うとなかなかびっくりである。
なお津久見高校出身のプロ野球選手は他にも高橋直樹、大田卓司、鉄平といった面々がいる。すごいものである。

  
L: 駅前ロータリーの中心には大友宗麟像。津久見は大友宗麟終焉の地なのだ。  C: 津久見の観光ガイドマップ。つくみん大暴れ。
R: 南口へ向かう跨線橋には津久見高校をアピールする横断幕が。津久見高校には「つっくん」というゆるキャラがいるようだ。

跨線橋で日豊本線の南側へと移動するが、弱りながらも商店街があった北側と比べると完全に住宅地となっており、
雰囲気の変わりように驚く。まあリアス海岸だから、奥まっている方が津波を避けて住宅になるのは理解できるが。
おそらく津久見川に沿って埋め立てが進んでいき、石灰石が産出する勢いで経済規模が「市」レヴェルに至ったのだろう。
津久見市役所があるのは宮本町の西寄りで、その「宮」とは赤八幡社のことである。まずはそちらを参拝する。

  
L: 日豊本線沿いの道路に鳥居。  C: 鳥居をくぐると津久見市営グラウンド。赤八幡社は右手で、左は津久見市役所。
R: 表参道はグラウンドと反対の南側。そちらから見た赤八幡社は、さすが旧県社にふさわしい堂々たる風格である。

赤八幡社は「閼伽八幡社」とも書くようだが、1190(建久元)年に石清水八幡宮からの勧請により創建された。
1586(天正14)年には大友軍の兵火で焼けたそうだが、江戸時代には佐伯藩主の毛利氏の庇護を受けていた。
運よく宮司さんから話を伺うことができて、隣接する広大な市営グラウンドは、かつて赤八幡社の神田だったそうだ。
現在の社殿は1856(安政3)年の築で、彫刻が見事な楼門は1916(大正5)年の建立で宮大工最後の時代のものとのこと。
楼門は鳥居側(外側、南面)と拝殿側(内側、北面)の両方とも唐破風の上に千鳥破風が載っている造りとなっているが、
鳥居側にはお多福の顔、拝殿側には天狗の顔が中央に飾られている。なんとなく「鬼は外、福は内」を思わせる工夫である。

  
L: 参道を進んで赤八幡社の楼門。  C: 破風の中央には確かにお多福が。  R: 楼門を抜けて振り返ったところ。

  
L: こちらは天狗。たいへん粋なものである。楼門は津久見市の指定文化財だが、そのうち国の重文になるんじゃないか。
C: 拝殿。幅が広くて瓦屋根、向拝付きなのが寺のお堂っぽい。そもそも「閼伽」というのが仏教用語だが。  R: 本殿。

御守を頂戴してすぐ脇の津久見市役所へ。宮司さんによると、先代の津久見市役所は山の麓にあったそうで、
もともと中学校だったこちらに新築移転したとのこと。津久見市役所の竣工は1958年で、設計は日建設計工務。
そう、僕の大好きな1950年代キレキレ日建設計(→2008.4.232009.1.92013.2.242014.7.232017.8.6)の作品なのだ。
老朽化により建て替えの話が進んでおり、それでこの春休みに慌ててやってきたというわけである。間に合ったぜ!

  
L: キレキレ日建設計による津久見市役所。手前が本館で奥が別館だが、ともに1958年の竣工である。
C: 本館をクローズアップ。同じ日建設計の日南市役所にそっくり(→2017.8.21)。  R: いかにも昭和なエントランス。

  
L: 中を覗き込んだところ。 1950年代の庁舎にしてはかなり広々としており天井もきれい。最近改修されたのではないかと思う。
C: グラウンド越しに眺める津久見市役所。こうやってしっかりと全体を眺められるのはありがたい。端正で美しいなあ。
R: 角度を変えて撮影。なお上部には「祝 津久見高校硬式野球部 2020大分県高等学校野球大会 優勝」の横断幕が張られている。

グラウンド越しに建物の正面をまっすぐ見据えることができるのはありがたいが、それ以外のアングルはなかなか苦しい。
そこはやはり、リアス海岸の街の古い市役所なのだ。どうにか意地で撮影していくが、正直なかなかつらいのであった。

  
L: 本館の西側の側面。  C: 裏にまわり込んだところ。  R: まっすぐ見るとこうなる。うーん、モダン。

  
L: 本館と別館をつなぐ連絡通路がたいへんにモダン。さすがの日建設計だぜ。  C: 右を向いて別館に接続している部分。
R: 本館の裏、別館と並んで1976年竣工の新館。こちらには社会福祉課(社会福祉事務所)と大会議室が入っているようだ。

  
L: 本館、東側の側面。  C: 東側から見た本館と別館の連絡通路。  R: 別館の東側の側面。やはり凝っている。

  
L: 別館を南側から見たところ。  C: 別館の背面、南西から。  R: その奥、新館の背面。これで一周完了とするのだ。

いい天気の下でしっかりと記録を残せてうれしい。満足して津久見を後にすると、次のリアス港である臼杵で下車。
臼杵市役所は10年前に訪れているが(→2011.8.12)、神社には参拝していないので今回はそのリヴェンジとなる。

  
L: 臼杵駅のホームにて。10年前にはなかった気がする。ハートマークを「すき」と読ませるわけだ。右下は「かみう・すき」。
C: 駅前ロータリーの臼杵磨崖仏レプリカ。  R: 市役所へ向かう途中にある卯寅稲荷神社の鳥居。なんだか横長である。

駅からまっすぐ北上して、まずは臼杵市役所へ。10年前とまったく変わらない姿で安心するのであった。
臼杵市役所は梓建築事務所の設計で1974年に竣工。場所も津波に弱い海辺で、新築移転の話が出そうな気がするが。

  
L: 臼杵市役所。左が西館、右が東館。  C: まずは東館から見ていく。  R: 正面から見たところ。

  
L: 南東から。  C: 東側の側面。  R: 北東から。敷地に余裕があって前も後ろも駐車場だらけですな。

  
L: 東館の背面。  C: 西館の背面は公用車の駐車場で見づらいのでスルー。こちらは西館の西側の側面。
R: 南西から見た西館。臼杵市役所の東館は事務系に特化しており、窓口と議会は西館に集められている。

  
L: 西館を南から。  C: 南東から見た西館。これにて一周完了。  R: 後で臼杵城址の本丸跡から見た市役所。

撮影を終えると臼杵城址の臼杵公園をかするように西へと移動。そうして臼杵川の手前にある臼杵八坂神社に参拝する。
もともとは奥州の磐前郡鶴ヶ峰(現:いわき市)に鎮座していたが、後三年の役を避けて海路はるばる臼杵にやってきた。
しかしキリシタン大名となった大友宗麟が神社仏閣を徹底的に破壊したため、一時は飫肥にまで避難したという。
大友氏が改易された後、臼杵城の三の丸だった現在地に戻ってきた。これだけ徹底的に争いを避けてきた神社は珍しい。

  
L: 臼杵八坂神社の参道。手前に臼杵藩主・稲葉家の旧下屋敷などがある。  C: 境内入口。  R: 横参道で右を向くと拝殿。

  
L: 1776(安永5)年築の本殿は大分県指定有形文化財。施されている彫刻がたいへん立派である。
C: 摂社。八幡社と愛宕社をまとめて「The 摂社」としている模様。  R: 灯が独特な本護稲荷社。

 臼杵川の中州にはフンドーキン醤油の本社工場がそびえている。

御守を頂戴すると、臼杵川沿いに南下して福良天満宮へ。もともとは1600年ごろに創建された称名寺という寺で、
周防に移った菅原道真の子孫が祀っていた天神像を臼杵藩主・稲葉典通(一鉄の孫)が称名寺に遷座させた経緯がある。

  
L: 臼杵川沿いの県道33号に面している福良天満宮の入口。  C: 境内は高台にあり、かなりしっかりした石垣で整備されている。
R: 拝殿。明治の神仏分離で神社となったが、現在はあまり寺っぽさを感じさせない。参道がまっすぐでないのは神社らしくないが。

さて福良天満宮では「赤猫」が大々的にフィーチャーされている。もともと「赤猫」とは放火魔を指す言葉だそうで、
火事の後には何も残らないことから、「自分たちの商売を食い荒らす連中」という意味を込めた蔑称だったそうだ。
特に「赤猫」呼ばわりされていたのが明治期の商人・大塚幸兵衛で、実業家・政治家として活躍し、慈善事業も行った。
その幸兵衛をはじめ臼杵商人を祭神として祀ったのが招霊(おがたま)赤猫社で、赤い招き猫が置かれている。
そんなわけで御守も赤猫をはじめ猫デザインのものが多数。お世話になった先生が猫好きなので、その方の分も頂戴する。

  
L: 招霊赤猫社。1999年創建と歴史は新しめ。奥は福猫たまりの井戸で、赤猫を描いた石やらなんやらが多数置いてある。
C: 1895(明治28)年築の福良天満宮本殿。  R: 境内社の愛宕神社(左)と瑜伽神社(右)。愛宕神社は大塚幸兵衛が信仰。

二王座経由で臼杵城址方面へと戻る。やはり10年前にも歩いたが(→2011.8.12)、城下町らしい雰囲気がよく残る。
かつて臼杵八坂神社は避難前にはこの辺りに鎮座しており、仁王門があったことから二王座という地名になったという。

  
L: 坂の入口にある金毘羅水。  C: 二王座歴史の道は石畳の坂道。  R: しっかりと武家地である。

北側の「八町大路」こと中央通り商店街に出て、軽く往復してみる。石畳の道に土蔵造りの店舗が点在するなど、
こちらもまた城下町らしい歴史を感じさせる。そんな中に「サーラ・デ・うすき」という観光案内や情報発信の施設があり、
なかなかの異彩を放っているのであった。大友宗麟が本拠地としたからって、はしゃぎすぎであるような気がするが。
対照的に「鑰屋(かぎや)」ことカニ醤油は、主屋が1877(明治10)年、西店舗が江戸末期築の国登録有形文化財。
稲葉貞道(一鉄の次男で嫡男)とともに臼杵に来た可児傳右衛門が1600(慶長5)年に創業した老舗である。

  
L: 「八町大路」こと中央通り商店街。  C: カニ醤油。壁の色は戦時中にB-29の目標になるのを避けるため、墨で塗った名残り。
R: サーラ・デ・うすき。「サーラ」はポルトガル語で居間のこと。中庭を囲む複数の建物からなる多目的交流施設。

そんなこんなで臼杵城址の臼杵公園に到着。10年前にも歩きまわったが(→2011.8.12)、今回もやっぱり歩いてみる。
桜のシーズンど真ん中ということで、臼杵城址桜まつりが開催中。多くの来園者で賑わっていたのであった。
二の丸跡は臼杵護国神社にグラウンドと、かなり広い。その一角には大友宗麟公の碑があり、レリーフが飾られている。
日本サッカー協会の八咫烏のデザインでおなじみの日名子実三の作品だが、戦時中に供出されて現在のものはレプリカだと。

  
L: 西側の大手門公園から見た臼杵城址。  C: いざ古橋口から登城である。  R: 南西端の井楼櫓跡。

  
L: 大門櫓から二の丸跡方面へと向かう。臼杵城址はしっかりと公園の雰囲気に整備されている。桜がいいですなあ。
C: 大友宗麟公の碑。日名子実三は臼杵の城下町出身。  R: 臼杵護国神社。一鉄を含む歴代臼杵藩主を祀る稲葉神社を合祀。

  
L: 広大なグラウンドと桜。  C: 本丸跡の桜の下を抜ける。  R: 本丸北西端にある天守櫓跡。

本丸の南側には卯寅(うとの)稲荷神社。さっきの鳥居からはだいぶ離れているが、こちらがその本体ということになる。
1562(永禄5)年に大友宗麟が丹生島城を築城した際に創建された。現在の社殿は1985年に建てられたものだそうだ。

  
L: 卯寅稲荷神社。  C: 本丸方面を眺める。城だけどそれ以上に公園らしい雰囲気。  R: 卯寅口。

以上で臼杵の街歩きを完了とする。臼杵駅に戻って日豊本線をさらに北上し、大分市域に入って最初の幸崎駅で下車する。
すると駅前に佐賀関行きのバスがやってきた。というわけで、本日の後半は佐賀関を目指すのだ。国道197号を東へ行く。
バスは佐賀関港のフェリーターミナルよりもさらにその先、佐賀関市民センターで停車した。こちらがバスの終点なのだ。

さて佐賀関といったら関アジか関サバか、とにかく青魚が有名である。是非とも本場で食ってみたいではないか。
近くに食堂は1軒だけで、まあ迷う必要がないのはいいのだが、飛び込んで名物の「りゅうきゅう丼」をいただいた。
「りゅうきゅう」とは新鮮な魚の刺身をゴマ・ショウガ入りの漬け汁に浸したもので、もともとは漁師たちのまかない料理。
名前の由来は、調理法が琉球から伝えられたからだとか。残念なことにこの日は青魚の入荷がなく、魚は鯛なのであった。
鯛よりも青魚の方がいい!というのも変な話であるが、アジかサバがよかったなあと思いつつも大変おいしくいただいた。

 
L: 佐賀関市民センター。役場機能のほか、図書館や子ども向けのスペースなどが入っている。
R: りゅうきゅう丼。鯛なんだから旨いに決まっている。新鮮な青魚でどれくらい旨いか味わいたかった。

とにかく栄養を補給してやる気を充填できた。ここからが勝負なのだ。佐賀関を代表する神社である、早吸日女神社に参拝。
豊後水道はかつて「速吸の瀬戸」といい、潮の流れを鎮めるために海底に住みついた大蛸が神剣を守っていたという。
紀元前667年、即位前の神武天皇が東征の際にこちらを訪れると、海女の姉妹が大蛸から神剣をもらい受けて神武天皇に献上。
その神剣を御神体として神武天皇が創建したのが早吸日女神社である。なおこちらの神職さんはタコを一切食べないそうで、
参拝客もタコの絵を奉納して一定期間タコを食べない「蛸断ち祈願」を行っているとのこと。独特な伝承のある神社は面白い。

  
L: 早吸日女神社。「関の権現様」として篤く信仰されており、昔から地域の核になっているのがわかる規模である。
C: 総門。1697(元禄10)年に熊本藩主・細川綱利が建立。「神門」ではなく「総門」なのが神仏習合的で、歴史を感じさせる。
R: 総門を抜けて境内を行く。早吸日女神社の境内は山裾という立地だが、奥行きをしっかり持たせているのがさすがである。

  
L: 参道の先には境内社の伊邪那伎社。  C: 伊邪那伎社をクローズアップ。  R: 早吸日女神社の社殿はその右手奥になる。

参道を進んだ先は境内社の伊邪那伎社で、拝殿と本殿はそこから右手に入ったさらに奥にある。
拝殿は擬宝珠の銘から1850(嘉永3)年の建立と考えられるが、非常に幅が広く正面からだとカメラの視野に収まらない。
特筆すべきは瓦の装飾で、この地方に伝わる技法「青海波唐破風」によってつくられており、ものすごく凝っている。
千鳥破風の大棟瓦には獅子やら虎やらが載っており、その手前にある唐破風の向拝は中央にきわめて精密につくられた龍、
向かって右に亀に乗った浦島太郎、左の三重塔は竜宮城。またこの唐破風の前面に施されている渦の表現が実に美しい。

  
L: 拝殿。彫刻も見事だが、それ以上に瓦のクオリティが凄まじい。これはもっとアピールした方がいいんじゃないでしょうか。
C: 本殿。1763(宝暦13)年に熊本藩主・細川重賢により再建。千木の先端の切り方を垂直と水平で交互にしているのが独特。
R: 拝殿の反対側にある神楽殿。現在のものは1808(文化5)年築の衛士所を改装したもの。よく見ると断面が八角形の柱である。

御守を頂戴すると、いよいよ関崎の先端を目指す。早吸日女神社からだと約5kmの距離があるが、徒歩で行くしかないのだ。
JX金属の製錬所の脇を通り、山の中に入っていく。あとはひたすら、くねる山道を行く。覚悟はできているので淡々と歩く。

 
L: 県道635号の坂道を歩きながらJX金属佐賀関製錬所の煙突を眺める。  R: 道はこんな感じである。まあ毎度のことです。

けっこう早いペースで歩いたようで、関埼灯台への入口にある関崎稲荷大明神の鳥居まで45分ほどなのであった。
残念なのは空がだんだん曇ってきたことで、佐田岬がすっきり見渡せると絶景なのだが、なかなか難しい感じに。

  
L: 県道635号から関埼灯台へと入る目印となっている関崎稲荷の鳥居。  C: 関埼灯台への道。  R: 敷地入口。門柱に擬宝珠。

それでもとにかく歩を進め、関埼灯台の前に出た。1901(明治34)年に初点灯した、大分県最古の灯台である。
躯体すべてが鉄でつくられている現役灯台は全国で4基あるそうだが、そのひとつ。鉄板リベット留めが歴史を感じさせる。

  
L: 関埼灯台。  C: 石段を上がると全身鉄板リベット留めの見事な姿。  R: 角度を変えて眺める。

  
L: 背面というか海側にまわり込む。  C: そこから眺めた関崎の先っちょと佐田岬(左奥にうっすら)。右手前は高島。
R: 南側を眺めたところ。うっすらとリアスな海岸線が見える。大分県は南北で海岸線がだいぶ違う。岩手県みたいね。

  
L: 「波除地蔵」こと関崎地蔵。ここで激しい風波に遭った役小角が地蔵菩薩に助けられたそうで、養老年間から置かれている。
C: 灯台から少し北に入ったところに関崎稲荷大明神。かつて神馬を救った安産の守護神とのこと。   R: だいぶ激しく傷んでいる。

関埼灯台の西側、一段高いところに関崎海星館がある。その名のとおり海と星を見ることができる複合施設で、
平日は18時、金・土・日・祝日&8月はなんと22時までやっている。天体望遠鏡があり、夜空をじっくり観察できるのだ。
さすがに夜まで滞在したら帰れないし、そもそも曇り空だしで、敷地の奥にある庭から佐田岬を眺めて過ごすのであった。
なお、関崎海星館の売店には宇宙グッズが多数あり、860円で隕石御守を売っていた。中身は本物の隕石。買わいでか!

  
L: 関崎海星館。展示ホールでは宇宙について学べるが、基本的にはお子様向けな印象。夜に天体望遠鏡を味わうのが正しそう。
C: 裏手の庭から眺める佐田岬と高島。佐田岬は行ってみたいけど先っちょまでクソ長いのがなあ……。  R: 関埼灯台を見下ろす。

曇り空ではあったものの、満足感に浸りつつ関崎海星館を後にする。えっちらおっちら来た道を戻って佐賀関の中心部へ。
佐賀関市民センターからバスに揺られて幸崎駅まで戻るのであった。そうして大分駅に到着。なかなかの大冒険であった。
大分駅ではどうしても関アジか関サバを食べたかったが結局ダメで、次善の策ということで、とり天定食をいただいた。

 旨いんだけど悔しい。いつか関アジか関サバを食べたいものだ。

本日の宿は別府なのだ。大分は県庁所在地のくせに意外と安宿が貧相で、別府の方が充実しているのだ。さすが温泉地。
いつも竹瓦温泉なんだけど、今回は趣向を変えて駅前高等温泉にお邪魔する。やはり一度はきちんと浸かっておかないと。
ヨーロッパ風の建物でインパクトがあるが、1924(大正13)年に地元住民の寄付で建てられており、マジもんの大正ロマン。

 
L: 駅前高等温泉。「高等」って響きがいいなあと思う。  R: 中もしっかり大正ロマンなのであった。

温泉に浸かって疲れをしっかりと癒やすことができた。そんでもって明日は由布院温泉だもんね。興奮しつつ寝る。


2021.3.26 (Fri.)

今年の春休みの旅行は土日を挟んだ4日間なのだ。正直まだちょっとコロナの後ろめたさがあるけど、
移籍が完了したら何がどうなるかわからないので、行けるうちに行っておく。今回は宮崎から大分の市役所をつぶしていく。

  
L: 羽田空港。  C: 横浜。手前にベイブリッジ。  R: 本牧と根岸湾。奥の方に4月からの勤務先がある……はず。

  
L: 上空からはっきりわかる鎌倉。  C: 右に山中湖、左に富士山。  R: 宝永火口と山頂。

  
L: 知多半島。  C: 十津川村上空って言っておけばだいたいOK。広いから。  R: 田辺市上空。

恒例の航空写真を撮ったり意識を失って爆睡したりしつつ、なんだかんだで宮崎空港に到着。
今回は宮崎市はスルーして、特急にちりんで日向市まで行ってしまう。テゲバジャーロ宮崎がJ3入りしたが、
日程が合わなかったので観戦はまた次の機会に、新しい小林市役所や西都市役所とセットで訪れるとしよう。

というわけで日向市役所である。5年前、新庁舎建設工事が始まる直前のタイミングで訪れているが(→2016.2.27)、
それが2018年に竣工した。ログでも書いたが内藤廣の設計で、安曇野市役所(→2016.4.9)と似た雰囲気である。

  
L: 日向市役所。正面がわかりづらい建物だが、手前にロータリーがあるということで、おそらくこの西側が正面。
C: 西側。敷地に余裕がないのでこちらから全体をカメラの視野に収めることはできない。  R: 南西から見たところ。

  
L: 南から見た側面。  C: 南東から。  R: もう少し東に寄って眺める。こちらが背面ということか。

  
L: 東側のエントランス。  C: 北東から見たところ。  R: 北から見た側面。

  
L: 平日なので中に入ってみる。敷地に余裕はないが、中は余裕たっぷりな感触。  C: 市民の滞留スペースは多めに確保してある。
R: 日向市市民栄誉賞を受賞しているジョニー黒木とヤクルト青木のユニフォームが展示されていた。この2人とは日向市すごいな!

  
L: こうなると土日に開いているのかどうか気になる。  C: 窓口。  R: 再び外に出てみる。西側はこんな感じである。

  
L: 東側。セットバックしたオープンスペース。  C: テーブルやベンチがある。  R: 2階にもベンチがあった。

市役所から南へ50mほど行くと幸福神社。もともとは富高陣屋の鎮守稲荷社だそうで、明治に町内の神社を合祀した。
小さめの神社で、御朱印が書き置きになっていた。御守は期待できなさそうなので、素直に二礼二拍手一礼して撤退。

  
L: 幸福神社。市街地にはほかにそれなりの規模の神社はなさそう。  C: 拝殿。  R: 本殿。

日向市から北上して次は延岡市である。こちらも目的は新しい市役所である。やはり5年前に訪れているのだが、
このときは高層棟だけが竣工して低層棟の建設が始まった、という中途半端なタイミングだった(→2016.2.28)。
今回は満を持しての再訪問というわけである。期待に胸を膨らませつつ、市役所方面へのバスに乗り込むのであった。

 延岡駅も新しくなっていた。市役所まで約1.5kmと少し距離がある。

先代の延岡市役所(→2009.1.9)は、日建設計の設計で1955年に竣工している。しつこいくらい何度も書いているが、
当時の日建設計は特にキレッキレで、良質なモダニズムの雰囲気が香る庁舎建築を次から次へと生み出している。
(過去ログでは、広島県庁舎 →2008.4.232013.2.24、笠岡市役所 →2014.7.23、筑後市役所 →2017.8.6
それだけに新しい延岡市役所は、「現代の市庁舎建築」として典型例ではあるんだけど、特別に美しいわけではなくて、
なんともちょっと残念(設計は山下設計+延岡設計連合JV)。これと似た感じの市役所、全国各地にできている感じで。

  
L: 完成形の延岡市役所。まずは南東から見たところ。  C: だいたい正面、南から。  R: 手前の駐車場から見た正面。

  
L: 少し西にずれて眺める正面。  C: 南西から見たところ。高層棟と低層棟の2段構成なのがわかる。   R: 西から高層棟の側面。

  
L: 北西から。  C: 北東から。5年前(→2016.2.28)とまったく変わらない。   R: 南東から。周囲に余裕がないのよ。

中に入ってみるが、企業城下町(旭化成)らしい堂々とした造りである。高層棟と低層棟の接合部であることを生かして、
入ってすぐの吹抜はかなりのインパクトである。また外から見えていた高層棟南西側の水色ガラスは展望ロビーとなっていて、
延岡市街の南部を眺めることができる。愛宕山の存在感が非常に大きく、工業地帯があまり目立たないのは意外だった。

  
L: では平日なので中に入るのだ。  C: その前にエントランスをじっくり見ておく。   R: 中に入るとまず吹抜。

  
L: 市民がくつろげるスペースはきちんとある。  C: 低層棟の南西端は市民スペース。  R: 7階の展望ロビーからの眺め。

 野口記念館の跡地。新しい建物が来年できるそうだ。モダニズムに優しくない世の中だねえ。

延岡の市街地は5年前に歩きまわったので(→2016.2.28)、テンポよく次の目的地へと向かう。さらに北上して大分県だ。
さすがに各駅停車というわけにはいかないので(→2009.1.9)、特急にちりんのお世話になる。時間ももったいないし。

というわけでやってきたのは大分県佐伯市である。前回訪問から12年(→2009.1.9)、ここも市役所が新しくなったのだ。
2013年の竣工で、設計は山下設計。さっきの延岡市役所も山下設計で、東日本大震災以降の新築ラッシュでかなり強い印象。
恐ろしく正面がわかりづらい建物で、最初は駐車場を手前にして北西が正面かと思ったのだが、そうではなく南西が正解。
どう見ても側面でしかないデザインなのだが。それでいて南東側も北西同様に正面っぽいので本当にややこしい。

  
L: 南西から見た佐伯市役所。側面にしか見えないのだが、フロアマップによるとこちらが正面であるようだ。
C: 南から見たところ。  R: 南東から見たところ。むしろこっちの方が正面っぽいデザインなのだが。

  
L: 東から見たところ。手前にあるのが別館である。  C: 東から見たところ。  R: 北東から見たところ。これは確かに背面だ。

  
L: 北から見たところ。  C: 北西から駐車場越しに眺める。これも正面っぽい。  R: 最後に西から見て一周が完了。

中に入ろうとするが入口は正面の南西にはなく、西(北西)と東(南東)に2つある。もう本当にややこしい。ヤヌスかよ!
結局、われわれには「きちんとした入口があるのが正面」という意識が常識として刷り込まれているので混乱するのだ。
エントランスってのは客を迎え入れる空間なので、ここを疎かにするのは本質的に失礼なことなのである。その点、雑だ。
中に入ると大胆なアトリウム。周囲にオープンスペースなど凝った要素がまったくない分、ここでバランスをとっている。
しかしど真ん中のエレヴェーターのせいで、どこか狭苦しさを感じてしまう。いろいろとヘタクソな建築ではなかろうか。

  
L: 中は大胆なアトリウム。  C: 2階から見下ろしてみる。   R: テーブルのある滞留スペースもつくられている。

市役所の見学を終えると北に戻りつつ五所明神社に参拝。加茂・春日・稲荷・住吉・梅宮の5社を勧請したそうで、
それで「五所/明神社」というわけである。806(大同元)年創建で、毛利高政を祖とする佐伯藩の総鎮守とされる。

  
L: 五所明神社。手前を臼坪川と日豊本線が通っており、神社の入口は踏切を渡ってすぐである。
C: 臼坪川は親水空間として整備されている。河童の像が池を覗き込んでいる。  R: 境内入口。

  
L: 拝殿。1899 (明治32)年の再建とのこと。「丸に矢筈」の神紋は毛利氏の家紋。「毛利」の名字は毛利輝元から与えられた。
C: 角度を変えて眺める。立派である。瓦屋根が独特だ。  R: 拝殿の裏にまわってみたら、拝殿と本殿が離れているスタイル。

 本殿。こちらは1892(明治25)年の再建。

御守を頂戴すると駅方面へと歩いていくが、スルーしてさらに北へ。佐伯というと「佐伯の殿様、浦でもつ」と言われ、
海産物の豊かさ、そして寿司でも有名な街なのだ。せっかくだから寿司を食いたい。しかし独りで寿司屋に入る度胸はない。
そこで佐伯港近くにある鮮魚系土産店エリアに行ってみた。ここならいい感じの魚介類を食えるのではないかと思ったのだ。
いざ行ってみると平日の夕方近くにしてはなかなかの賑わいで、パックにされた寿司がどれも実においしそうである。
対費用効果を考えつつ慎重に吟味して選ぶのであった。寿司屋で食うのがベストなんだろうけど、これでも十分ベターだ。

 こんな感じで平日の夕方近くにしては賑わっていた。

佐伯を後にすると、本日の宿のある津久見に到着。津久見で下車するのは初めてである。市内の探索は明日の午前で、
今日はとりあえず早く宿に入って寿司をいただくとするのだ。素早くチェックインすると、いざ実食である。

  
L: 津久見駅のホームにて。津久見には日本最古の柑橘類であるミカンの古木・尾崎小ミカン先祖木がある。樹齢850年以上だと。
C: 佐伯で買ったパック寿司。上はアジ特集、下は本マグロ中トロ入りである。  R: 日本酒とギョロッケ(左下)もいただくのだ。

ふだんたまにお安くなったパック寿司を買って帰ることはあるが、佐伯はもうパック寿司ですらレヴェルが違いすぎて。
その場でトイレット博士的に足をバタバタさせるアクションをしてしまうほどに旨かった。居ても立ってもいられない旨さ。
一口食べるたびに蕩ける、それを延々と繰り返す。佐伯市民は毎日これを食っているのかと思うと心の底から妬ましい。
そしてギョロッケもまた、かなり旨かった。その名のとおり、魚のすり身に野菜を混ぜてコロッケ的に揚げたものだが、
この野菜が歯ごたえと風味の両方で絶妙なバランスをとる役割を果たしている。地元グルメに大興奮な夜なのであった。


2021.3.25 (Thu.)

修了式なのであった。ちなみにその前の学年集会では各教員に自由に話す時間が与えられたので、
給食を残すな、育てる人とつくる人と金出す人に感謝して食え、と熱く語るのであった(→2012.12.28)。
中学校の教員として最後の話だったけど、悪くない内容になったかなと。自分では満足しております。

午後の職員会議で来年度の人事が発表になったが、これで一気にお別れモードになってしまったなあ。
この一線を超える感じが面白くもあり悲しくもあり。1年しか在籍しなくて本当にすいません。みなさんあたたかい。


2021.3.24 (Wed.)

午前中に休みをもらって、朝イチで『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見てきたよ。
ネタバレどーのこーのというより、1回見ただけではまとまりきらない部分も多いので、きちんとレヴューを書けない。
とりあえず、マサルとのSMSのやりとりで出た僕の発言を、ネタバレにならない範囲で書き出してお茶を濁します。

「リツコさんきれいだったね」
「やっとるやっとる」
「やっとるやっとる」
「面白いのはすべての解釈が確率論で肯定できること。そこがエヴァの凄さよ」
「でも綾波かわいかった」
「まあオレとしては新劇はもちろん素晴らしいけど、旧劇の若さも否定せんでほしい」
「やはり基本はTVであってほしい。あれがあっての新劇だからね」
「なんでや、ゲンドウかわいいやん! ユイも言ってたぞ」
「オレはあらためて大人になれない自分を突き付けられて少なからずションボリよ」
「オレはもう一度行くつもり。それくらいには好き」


2021.3.23 (Tue.)

午前中は学年で球技大会。ドッジボールにサッカーと、のびのび楽しんだようでなにより。

午後は授業だが、僕の英語科教員としての最後の授業なのであった。とはいえ特に気負うことはなく、
いつもどおりに「なぜ勉強するのよ」という話で締める(→2020.3.162020.3.17)。恒例行事で無事終了なのだ。

気持ちはすっかり社会科に向いているので淡々としたものである。でもせっかく作成して好評だった資料があるので、
機をみてフリーにダウンロードできるようにしておきましょうか。10年粘ってできた財産、死蔵するのももったいない。


2021.3.22 (Mon.)

美術室の独特の雰囲気って、あれはいったい何なんだろう。うっすらと背筋を冷やしてくる、あの雰囲気。

大掛かりな器具はなかなか買い替えることができないからか、どうしても古いものがそのまま残りがちである。
また、絵の具をはじめとして、落ちなくなった汚れがあちこちに染み付いている。埃っぽさは粘土によるものか。
机にやたらと傷が多いのは、彫刻刀の痕跡だろう。筆を洗う流し台の辺りも、どこか歪んでいて落ち着かなくて、暗い。
動かしがたい「美術室らしさ」が空間全体に固着しており、そこを満たす空気も沈着してしまっている。

ただ、そういった要素をひとつひとつ挙げていったとしても、それで説明しきれない何かがこびりついている気もする。
むしろ、一度ついた汚れを落ちなくさせるような「何か」が存在するから、美術室が独特の雰囲気に染まるのか。
ふと「情念」という言葉が思い浮かんだ。衝動が突き動かす美術、その根底には、言葉にならない情念が存在する。
この独特の雰囲気は、美術室が情念に支配されている空間だからなのか。薄暗い放課後の美術室で、そんなことを考える。


2021.3.21 (Sun.)

起きてからひたすらベッドで画像の整理。しかし昼メシを食って以降の作業、気がついたら疲れて寝ていた。

滞在時間24時間未満で、バスで東京に戻る。まあやっぱり、実家は寝てばっかりになって無益ですな。


2021.3.20 (Sat.)

午前中は部活のお別れ試合なのであった。昨年開催できなかったのでOBも参加、保護者も参加で盛り上がる。
しかし正直、現役の1年生がほとんど試合に出られないのに大人がはしゃぐのもどうなの、という気持ちもある。
まあとにかく、卒業生たちは笑顔でグラウンドを後にしたので、そこはよかった。

午後になって新宿からバスに揺られて実家に帰省。緊急事態宣言の解除は月曜からだが、許してけれ、と思う。
新年度になる前にいろいろ知らせておきたいこともあるわけで。新たな勤務先でもらった資料だけでなく、
CPAP持参で帰るあたりにその気持ちが表れているわけです。車窓から見る景色が妙に新鮮だったなあ。

実家に着いたら即、風呂へ。ずっとマスクでトイレも隔離。まあ、しょうがない。


2021.3.19 (Fri.)

卒業式でした。自分のためではなく、他人のための時間を全力で支えるのは本当に疲れる。
まあ今年はコンビを組んだ先生がものすごくがんばってくださったので、だいぶ負担は軽かったけど。
さて、ここから学校は加速度を増して消化試合モードになっていく。油断して踏みはずさないように、最後まで集中だ。


2021.3.18 (Thu.)

明日は卒業式ということで、今の中3には最後の給食である。来週にはオレもそうなるんだなあと思いつついただく。
自分には、他人のつくったふつうのメシが食えなくなることとしての影響が大きい。スープのおかわりがもうできない。

午後は卒業式の準備。コロナの影響で例年と違う事情はあるのだが、それにしても細かい動きで混乱が目立つ。
それは僕がこれまで小規模校ばかりでコンパクトな環境が当たり前で、それを基準に考えているからだと思う。
組織が大きくなると不満分子も増えるし単純に動きも悪くなるもんだなあと、ぼんやり眺めているしだい。
なんだか他人事で申し訳ないが、組織加入1年目なんてそんなものである。来年改善する機会がないってだけで。

そんなわけで、当方のカウントダウンも着実に始まっておりますよ。感傷的になっている部分がほとんどないのは、
やはり中学校という組織や中学校の教員という人種に対して本質的な興味がないからだろうな。いまだに違和感だけだ。


2021.3.17 (Wed.)

無料動画でようやく『響け!ユーフォニアム2』を見たよ。1期の感想はこちら(→2016.4.22)。

1期の第8回で「これは良い百合じゃ……。これは良い百合じゃ……。」となったが、それはみんなに効いたようで、
まあとにかく、隙あらば百合。マジで隙あらば百合。ビジネス百合が凄まじいです。新キャラなんて百合100%だし。
いや、かわいい女の子がわちゃわちゃはいいんですよ。こっちは勝手に「尊い、尊い」なんて言ってりゃいいんで。
ただ明らかに、純粋なストーリーの一環・必然性というよりも、興味を惹くための手段としての百合になっている。
キャラクターが軽いからそうなるのだ。いや、逆か。ビジネス百合だからキャラクターが軽い。軽くて嘘くせえ。
なんでもかんでも百合にしているおかげで、麗奈が滝先生と久美子を同時に狙うサイコパス感が半端ない仕上がりだ。

1期でも「人物描写が浅い」と書いたけど、結局これ、すべての人間関係が久美子を通過するところに不自然さがある。
舞台が吹奏楽部ということで、キャラクターの特徴と担当楽器の特徴が重なるというのは、実に興味深い着眼点だ。
(その姿勢をはっきり示している「黄前ちゃんはほんと、ユーフォっぽいね」というセリフも実際に出てくる。)
飼い主がペットに似てくるようなものだ。互いに引き合う何かがある、というのが楽器の面白いところである。
となれば、楽器がアンサンブルするがごとく人間関係が描かれるべきだ。つまり、群像劇となるべきなのだ。
しかしこの作品はすべてが久美子中心であり、しかも久美子は受動的な人間だ。ドラマが向こうから勝手に来てくれる。
後半には田中あすかとの関係で主体的に動くが、その転換も唐突である。いちおう姉との関係を踏まえているが、
示されるのは過去の回想であって現在の心情の変化を丁寧に追っておらず、ずっと三人称的な描き方なのである。
主人公すら三人称で動かす話なんて、群像劇から最も遠いものでないか。作者の人形遊びに付き合わされている感じ。
結局、描かれているのは久美子の周辺だけで、吹奏楽部全体の本当に面白い各パートの動きはぜんぜん描けていない。
キャラクターの抱える悩みも安直なら、久美子に叫ばせることで無理やり解決して感動させようという意図も安直だ。

と、だいぶ批判的に見ていたが、正直その最大の理由は、僕が田中あすかというキャラクターが大嫌いなことにある。
もう本当に気持ち悪くて苦手。何から何まで気持ちが悪い。メガネで頭がよくて思わせぶりで……ということで、
作者にとって都合のよい超人を造形している感じがたまらなく厭だ(すいません、僕はメガネっ娘が生理的に無理です)。
その田中あすかの弱みを直接描けばよかったのに、それをしないで久美子視点の三人称。最後まで超人の他者だった。
この作品で作者は何を描きたいのかがわからない。久美子の成長? 演奏者としての久美子の成長って、描かれていた?
大人へ向けての久美子の精神的な成長って、していた? どっちも中途半端だよね。まさか、麗奈との百合の成長かな?
最後に伏線回収の形で作品タイトルを巧くまとめたのは事実だが、これこそ本来のスタート地点だったのではないか。
そこから久美子がどう人間として、演奏者として成長するのか。田中あすかがどう影響したのか。そこを描くべきだろう。
結局のところ、吹奏楽部OG・OBに向けた自己弁護以外の何物でもなかった。僕らはただ時間の経過を見ていただけね。
吹奏楽経験者向けノスタルジーを共有できない者には時間の無駄でしかない。見てくれはきれいだけど中身のないアニメ。

一点、京都駅でのコンサートではスクェアの『宝島』が演奏されるのだが、こういうアレンジになるのね、と驚いた。
バリサクでソロって発想はすごいなあと素直に感心。ここは全力で評価しておきたい。演奏だけしてりゃよかったのにね。


2021.3.16 (Tue.)

電子書籍のマンガが割引キャンペーンということで、けっこうな散財をしてしまった。たかが電子データに。
でも古典をすぐに読める環境にしておくのは、悪いことではないんじゃないかと思う。それゆえの散財というわけだ。
要するに、以前ならばちまちま買っていた文庫版を徐々に電子化していこうか、と考えるようになったわけである。
かといってその文庫版も処分しないんだけどね(→2020.12.30)。作品へのアクセシビリティを上げたいということ。
買ったCDをすぐにMP3化するけど手放さないのと同じ感覚なのである。金がよけいにかかるのは困ることだが。
当面の目標は、『ドラえもん』を全巻電子ベースで揃えること。物理的に読み慣れたものを電子で気軽に振り返りたいね。


2021.3.15 (Mon.)

姉歯メンバー間でのSMSグループは「びゅくびゅくネットワーク」という名前なのだが(命名:ニシマッキー)、
マサルからの「シン・エヴァンゲリオン観ましたか?」というメッセージがきっかけになり、あれこれ話が進む。
そこからなぜか前田健の話になり、矢崎滋と都はるみの話になり、僕の新たな赴任先の話になるのであった。
地理をやるには一年ガマン、来年度は日本史をメインで教えるけど不安ばっかり、ということでいろいろダベるが、
そこで僕は「生徒が面白いかよりもオレが面白がれるかが問題でして」と発言した。振り返って、実に自分らしいなと。

僕はよい先生であろうとはまったく思っていないが、まず誰よりもよい学習者でありたいとは思っている。
いや、申し訳ないけど、英語については完全に情熱を失ってしまっているので、現状これは正確には当てはまらない。
しかし英語という括りをはずせば、より広い知識という点において、貪欲に吸収する姿勢は維持しているつもりだ。
まあ究極的には、どんな生徒にも負けたくないんですよ、僕は。どの生徒よりも優れた学習者でありたい、そう思う。
そこのプライドだけは今もビンビンなのである。これまでを冷静に振り返ると、それだけが僕の取り柄だったのだ。
そうして学ぶことに貪欲な姿勢を身をもって生徒に示せれば、オトナとしてそれでいいのではないかと思っているしだい。

先日、区の教員の互助会だかなんだかで図書カード5000円分をもらったので、神保町に直行した。
それで日本史の参考書を買おうと思ったけど、なかなか納得のいく本がなかった。地理なら欲しいものがあるのだが、
日本史だとない。どれもキーワードをびっしりと並べてあるような本ばかりで、似たり寄ったりなのである。
こちとら地理人間なので、図解だとか論理的な説明だとかで納得できるような本が欲しい。でもそういうものがなくて、
これが日本史の現実か、と思う。となれば、自分でやるしかあるまい。論理的な日本史を自分で考えて学ぶしかない。
そんなことを踏まえたうえでの、「生徒が面白いかよりもオレが面白がれるかが問題でして」という発言なわけである。
たいへんつらいが、自分のやりたい日本史の方向性は見えた。できるかどうかはわからん。でもやりたい方向は見えた。

とりあえず、評判のよさげな日本史の実況中継的な本をまとめ買いしてみた。まずはここから面白がってみようと思う。


2021.3.14 (Sun.)

『カメラを止めるな!』を今さら見たよ。この作品についてはネタバレはダメですね。
ネタバレにならない範囲で書こうとすると、書けることが激減してしまう。でもそれでいいと開き直れる面白さ。

この作品が最もリスペクトしているのは、トリュフォーの『アメリカの夜』ですな(→2006.4.5)。
「どうなるの?」を二重に引っ張っている構造なのが巧い。ミステリ的答え合わせを上手に機能させていると思う。
最後のスタッフロールまでお見事。めちゃくちゃ面白いというよりは、しっかり面白い作品。本当によくできている。
一時期カメ止め俳優さんたちがもてはやされたけど、そういう一次と二次のブレをくすぐってくるクオリティだ。
低予算でも面白いものをつくれる、ということを示した点では歴代トップクラスの作品なのは間違いないだろう。
むしろ全体に漂っている「低予算だから」という雰囲気が、リアリティをもたらして面白さの源泉になっているけどね。

……これ以上書けない。あれこれ言うより、とにかく見て楽しめって作品なのだ。完成度が高いってことだね。


2021.3.13 (Sat.)

本日は合唱コンクール。練習期間は10日ほどしかなかったのだが、どの学年どのクラスもよくがんばった。
しかし3年は合唱が上手いと評判だったが、本当に上手かった。これを1年に直接聴かせて鼻をへし折りたかったなあ。
今回は学年ごとに体育館に交代で入り、他学年の合唱についてはリモート中継で見学という形だったのだ。
(保護者には編集した動画を後からYouTubeで配信。IT化を強いられる時代に一気になりましたなあ。)
合唱隊形もディスタンスということで前後に距離をとり、マスクもつけ、めちゃくちゃ歌いづらかったはずである。
校外学習も入って空前絶後の逆境だったが、無事にやり遂げられて何より。末永く伝説として面白がっていただきたい。

ちなみに各学年の上位は僕が予想したとおりだった。好みがズレていないことにホッと一安心。無難な男である。


2021.3.12 (Fri.)

昨日の校外学習で東京タワー大神宮を見て、ああそうだった、あったあった、となる。スマホのカメラで撮影した。

  
L: メインデッキ2階にこんな感じで鎮座する。  C: 失礼して正面から撮影。  R: フットタウン3階の売店に御守あり。

東京タワーを経営する日本電波塔が、創立20周年を記念して1977年に創建。芝だから勧請元は芝大神宮かなと思ったら、
しっかり伊勢神宮からの勧請なのであった。おととしの展望台の改修にあたって新たに社殿をつくり直したそうだ。
ちなみに東京23区で最も高いところにある神社……って、当たり前やないかい。なお、御朱印をもらうには、
メインデッキの展望チケットが必要となる。御守はチケットがなくても頂戴できるので、後日頂戴に行くつもり。
(緊急事態宣言の関係で平日は午後にならないと売店が開かず、昨日は御守を頂戴することができなかったのだ。)


2021.3.11 (Thu.)

本日はわが1学年の校外学習で東京都内めぐり。午前中は東京タワー、午後は雷門を担当。いい天気でよかった。

東日本大震災から10年である。

あのとき教えていた中学生たちが(→2011.3.11)、20代半ばになっている。それだけの時間が経過したということだ。
久慈と宮古に行き(→2014.5.4)、釜石と大船渡に行き(→2016.9.18)、陸前高田と気仙沼に行き(→2016.9.19)、
石巻に行き(→2018.8.18)、女川に行った(→2018.8.19)。そして新型コロナ。以来、三陸には行けていない。

ゆっくりと復興は進んでいき、コロナによる停滞を挟みつつも、街の姿は変わっていることだろう。
前を向いた人々が、たくましく生きている。10年という時間をかけて積み重ねられた思いが、そこにあるはずだ。
僕はただ現地に行って、見て、感じて、メシを食って、それをささやかな記録に残すことしかできない。
どこまでたくさんのものを目にすることができるのか。積み重ねられた時間を、思いを、そろそろ確かめに行かなくては。


2021.3.10 (Wed.)

千葉県知事選挙の政見放送がR-1グランプリを超えるネタの披露会になっていて、批判が巻き起こっている。
まあ、わかる。ここ最近、品のない動きもいろいろあったし(→2020.6.28)、批判したくなる気持ちは実に正しい。

しかしここは冷静に、批判の矛先や方法をきちんと選ばないといけない。ここは民主主義の国なのだ。
まず候補者。批判はきちんと投票という形で表明すればいいだけのこと。彼らの主張が気に入らないからといって、
それを制限するのは民主主義ではない。他者を害さない限り、思想や表現の自由は認められなければならないのである。
次に現状の選挙のシステム。供託金を上げるべきという見解は筋違い。問題の本質は金額の大小にあるのではない。
むしろそれは政治を一般市民から遠ざける結果となるだろう。既得権益を守る動きだけが強まる結果になるはずだ。
そもそもこのような事態は今に始まったことではなく、昔っから困った主張をする個人や政党は存在していたものだ。
それを今になって問題視して供託金を上げようとか、むしろ金権政治をやりたい政党の回し者なんじゃないの?
当然、政見放送の内容に検閲を入れようなんて考えは、民主主義から最も遠い行為だ。立候補者の良識を信じるしかない。
面白おかしく報じるマスコミがけしからんという人は、しょうがない、ニュースの受け手がけしからんからそうなる。
前にも書いたが、マスコミは一方通行で情報を垂れ流す存在である。ボールは受け手のわれわれの側にある(→2020.4.8)。
われわれが良質な情報だけを相手にすればよく、情報を遮断しろと主張するのは、実は最も客観性を欠いた思考である。
安易なマスコミ批判は自由への挑戦でしかない。誰かを悪者にするのは簡単だけど、そのこと自体が悪者のやり口なのだ。
自分と違う見解を報じるからって文句を言いなさんなということ。あなたの正義を他人に押し付けなさんなということ。
そんなわけで、あなたがた本当に社会・公民を勉強したのかね、と言いたくなる意見が渦巻いていて悲しくなってしまう。

つまるところ、民主主義の担い手としての知識・意識・教養が足りないのである。政治の問題を「他者の問題」と捉え、
「自分たちの問題」として捉えないから、安易かつ民主主義的でない解決策に走る。そしてそれに気づくことができない。
困った候補者が出たところで動じることなく、自分の一票を毅然と行使すればよいだけなのだ。本当にただそれだけだ。
政治の「政」は「まつりごと」、もともと「祀る」「祭る」から来ている言葉である。お祭りなのは、しょうがない。
アメリカ大統領選挙なんてまさに民主主義の祭典ではないか。大切に保持してきた一票を投じる、何年かに一度の祭り。
それで羽目をはずす人が出ても、落ち着いて対処するのが大人ってもんだろう。選挙権は大人だけのものなんでしょ?


2021.3.9 (Tue.)

今週は勝負の一週間であります。自粛やら緊急事態宣言やらで、なんと各学年の校外学習が同じ週に入るという事態に。
しかも週末には合唱コンクールである。こんな修羅場、二度とあってたまるか。いや、究極のイレギュラーである。
個人的には移籍についての面接から週がスタートしたので、よけいに「勝負の一週間」の色合いが濃いってわけでして。
まあ人間、忙しいときの方がかえって集中力が増して充実した内容を残せるものである。そう信じてがんばろう。


2021.3.8 (Mon.)

3年生の授業が終わって多少の余裕ができたので、午前中に来月からの職場(→2021.2.172021.2.18)で面接してきた。
雨の中、今まで降りたことのない京急の駅から徒歩20分。家からしっかりと遠い。雨が降っていることもあるし、
英語についての不安もあるし、ひたすら坂だし、よけいに道のりを遠く感じる。でもやれる範囲でやるしかないのである。

いざ面接が始まると、やはり国際バカロレアのプログラムも担当とのこと。昨年11月に見学したやつだ(→2020.11.30)。
ただし授業は日本語でやるということでやや安堵。とはいえ話を聞くに、バカロレアは欧米中心主義だなあと思う。
『タモリ倶楽部』の地理教師の回で覚悟していたが、地理を誰もとらないので(単位制)、やっぱり開講せず。
それで日本史Bメインでやってくれとのこと。オレ理系だったから、高校で日本史習ってないんですけどぉー!
まあ国内旅行の写真が大量にあるので、それを元ネタとしてやっていくか……。旅行で前よりは日本史に詳しくなったし。
部活はパントマイム部顧問になるっぽい。が〜まるちょば、ピンになっちゃったんだけど! パントマイム部って、
野田クリスタルの影響かな? 全身黒タイツの「シャドウ」のネタを見て、野田クリスタルをけっこう見直した。
まあとにかく、新年度になってみないとわからないことだらけ。ポジティヴにしぶとく生き抜いていくしかない。
面接が終わって今の職場に戻るのに時間がかかって大変だった。やっぱり神奈川県は遠いわ。引っ越しどうしよう……。

なお、学校は女子が75%くらいとのことで、非常に怖い。女子高生怖い。ここらで一杯、濃いお茶が怖い。


2021.3.7 (Sun.)

母方の伯父(長兄)が亡くなったとのこと。母と歳が離れていることもあり幼少期の僕はあまり懐いてはいなかったが、
お互い照れくさい感じがあったのははっきりわかる。大学時代に山岳部に所属しておりとてつもない大怪我をしたが回復、
地元に戻って土建会社を経営して成功、息子を街でいちばん稼ぐ歯医者にするなどエネルギッシュな人だったなあと思う。
でもかつて手塚治虫の影響を受けた少女漫画を描いて単行本を何冊も出していた事実は衝撃的だった。ツン子! ツン子!
父方からアーティスティックな血はたっぷり受け継いだが、母方の血もなかなかだったなあとあらためて思うしだい。

透析で入院中に新型コロナに感染したというのは初耳。回復したけど亡くなってしまったと。まあ89歳なので大往生だ。
ご冥福をお祈りいたします。うーん、やっぱり淋しいなあ。しかしあらためて新型コロナが他人事じゃなくなったなあ。


2021.3.6 (Sat.)

午前中の部活が終わって、五反田へ出る。最近、ここで昼メシと電源を確保しての日記執筆が可能なことがわかり、
それでひたすらがんばる。『危機の二十年』のレヴューが本当に重い。とにかく厚いのでチェックしていくのが大変。
今日はなんとか書き出し作業を終えたが、これを要領よくまとめていくのがまた大変。明日もまたひたすらがんばるよ。


2021.3.5 (Fri.)

緊急事態宣言の延長でも、現場はもう慣れたもので、書類をささっとつくって対応。
それよりも来週には校外学習と合唱コンクールが一気に来るので、それらの準備だけで十分に忙しいのだ。
一方、英語の授業は英作文と発表モード。しかし個別の質問に素早く答えなくちゃいけないので、これが疲れる。
何がなんだかよくわからないままに一日が過ぎていく。このままドサクサ感満載で突き抜けていくんだろうなあ。


2021.3.4 (Thu.)

英語の先生ということで、卒業間際の生徒に英語の格言を送ることがたまにあるわけです。
そういえば昨年は学年末テストに簡単なものを和訳問題として出したっけ(→2020.2.26)。

次の英語の名言を、自分なりの言葉でかまわないので日本語に訳しなさい。[理解:2点×5]
(1) To live is to think. (Marcus Tullius Cicero)
(2) A problem is your chance to do your best. (Duke Ellington)
(3) You’ll never find a rainbow if you’re looking down. (Charles Chaplin)
(4) If you haven’t cried, your eyes can’t be beautiful. (Sophia Loren)
(5) Love the life you live. Live the life you love. (Bob Marley)

今年の3年生とはあまり馴染めなかった印象だが、エマーソン(Ralf Waldo Emerson)の言葉を送ったのであった。
曰く、“The only way to have a friend is to be one.”――「友達欲しけりゃまずお前がその友達になれよ」と。
成績ばっかり気にしてんじゃねえぞ、学校は勉強するところである以前に友達つくるところだぞ、
いい学校に入学したところで性格悪けりゃ頼れる友達はできねえぞ、という懸念があるときに出す言葉である。
いや別に彼らは性格が悪いわけではなかったけど、成績ばかり気にして枠にはまって小さくまとまっていたので。

僕が最もよく引用するのはチャーチル(Sir Winston Churchill)の言葉で、
“To improve is to change; to be perfect is to change often.”である。どこかのサッカーサイトで見つけた。
「向上とは変化することである。完璧とは変化し続けることである」という訳がついていて、それがなかなかよい。
僕自身は変わり映えのしない毎日を送っていて、大胆な変化を拒否して今に至っているので、自戒を込めての言葉だ。
もっとも、ほかの人から見ればこのたびの転職活動はchange oftenそのものなんだろうけどね。性根は変わらんのよ。

究極はやっぱり、モンティ・パイソンのThe Meaning of Lifeだろう。
“Try and be nice to people, avoid eating fat, read a good book every now and then, get some walking in,
and try and live together in peace and harmony with people of all creeds and nations.”
「(人生の意味とは……)健康に気をつけ、良書をよく読み、全ての人と仲良くすること」
というたいへんざっくりした訳がDVDにはついていたが、さすがはパイソンズ、究極を見事に言い切ってくれる。

高校レヴェルだといい感じの格言がいくらでもあるのだが、中学レヴェルだと少々難しい。まあそれも勉強なんだよね。


2021.3.3 (Wed.)

放送委員会のリクエストでAKBグループというか坂道系の曲を流すことがあるけど、みんな同じじゃねえかと呆れている。
10年くらい前からずっと思っていたが、こいつら全然ハモらないよね。ぜんぶユニゾンだけの歌とか、劣化も甚だしい。
結局これ、メンバーを固定化できない、もっと言うと使い捨てだから、パートを分けていられない、ってことでもある。
歌謡曲からJ-Popへの道のりは、音楽的には少なからず劣化の歴史ではないかと最近あらためて思っているのだが、
研ぎ澄まされたプロフェッショナルの仕事であるはずのアイドルソング(→2013.9.11)も、いよいよここまで来たかと。
ハモることすらできないとは、音楽性のかけらもない。そりゃあ昭和歌謡のリヴァイヴァルも当然だよなと思う。


2021.3.2 (Tue.)

学年の打ち合わせで今後のスケジュールを確認したのだが、一日として隙がない感じ。いや、これは本当に恐ろしい。
それとは別にレギュラー授業があり、また僕個人でやらなくちゃいけないこともあって、同時進行の対象が多すぎる。
無事に春休みまでたどり着けるのだろうか。そして4月からは落ち着いた心を維持できるのだろうか。不安しかない。


2021.3.1 (Mon.)

最後の1ヶ月が始まった。しかし今月はイヴェントが目白押しで、今日はその影響もあって休みがほとんどなかった。
こんな感じでドタバタしたまま春休みまで行ってしまうのだろうか。行ってしまうんだろうなあ。着実にがんばろう。


diary 2021.2.

diary 2021

index