diary 2024.10.

diary 2024.11.


2024.10.30 (Wed.)

西森博之『道士郎でござる』。ソムリエから勧められて以来(→2024.2.20)、ネットカフェに入るたびに探したのだが、
どこにもぜんぜん置いていない。全8巻だしそんなに人気のない作品なのか、と思っていたが、ようやく発見して読破。

最初つまんなかったけど、読み進めていくと確かに他の西森マンガよりはずっと面白いのであった。
ただどうしてもヤンキーとヤクザを出さなきゃならんのか、と思う。絶対的な強さと絶対的な悪という構成は変わらない。
その極端な設定を素直にフィクションとして楽しむ広い心持ちが重要なのだろう。開久三高は鶴ヶ峰学園D地区のような、
荒唐無稽な大風呂敷設定と受け止めよう。他作品で受け容れられる大ウソが、西森マンガだと気にかかるのはなぜなのか。
主人公が絶対的に強いので非常識と非日常がどうしても必要なのだが、ギャグと絡んでなかなかリアリティに向かない。
そのリズム感がちょっと独特で、そこが個人的に合わないということなのかもしれない。好みの問題ですかねえ。

このマンガ最大の魅力は、仲間の成長物語を主軸に置いている点にある。変化と成長が描かれているからいいのだ。
ボケとツッコミを通していい味出してくるキャラクターがいるのはこの作者のよろしい持ち味で、今回もそこは安定。
そして今作では健助が猛獣使いとして健闘する。最後はその知力だけで最強の敵を追いやってみせて、これが実に魅力的。
これは近年でいうと『トリリオンゲーム』(→2023.8.18)に近い構造だと思う。バディものにすることでドラマを広げる。
なるほど絶対的に強いスーパーマンはマンガだからまあいいとして、やはりわれわれには他者であり、そっち側ではない。
その差を受け止めたうえで、健助たちがどうその力に追いつこうとするのか。非力な読者たちにとっての焦点はそこだ。
弱者が強者を乗り越えるのは、理屈や理論でダヴィデのように戦うこと。その魅力を研ぎ澄ませていく必要があるのだ。
絶対的な強さに対し、胆力と知力で追いつく。それが健助から開久三高の仲間に広がっていくのはたいへんよろしい。

そうして成長ぶりのクローズアップに特化すればいいのだが、キャラクターの魅力の引き出し方は正直、偶然任せな印象。
健助の魅力を存分に引き出したのはいいが、これが前島(早乙女)や 細波、池内、佐東、仲田まで十分に広がりきらない。
(でも彼らの思考回路をきちんと提示した点、そしてその考え方が変化する様子を追った点は、非常に高く評価したい。)
また芝山を生かしきれなかった点が痛い。芝山がエリタンを最初に陥れるところも彼女のバックを知っているわけだから、
整合性が取れない展開となってしまっているのも問題。そういった要素を最初から整理しておくことができるのであれば、
ジャンプ的な友情努力勝利で新境地を開拓できるように思う。作者が掘り下げられるキャラクターの絶対数が少ないのだ。
どうも作者はバランスよく描くことができず、勝手に動きだすキャラクターをそのまま放任して盛り上げていくタイプ。
そうなるともう、最強のカードである道士郎で解決するしかなくなるわけだ。結局、翼が点を取って勝つんかいって感じ。
とはいえ健助と仲間たちの関係性は実に魅力的だ。この優れた面をさらに磨き上げた作品を期待したいところだったけど、
次作『お茶にごす。』ではそうはいかなかったわけでして(→2009.11.5)。それを知っているだけにまた残念でござる。



2024.10.27 (Sun.)

鮫洲で免許の更新を済ませて上野へ移動、東京都美術館の『田中一村展 奄美の光 魂の絵画』を見るのであった。
正直言うと僕は田中一村にはまるで興味がなく、今年3月に奄美に行ったけど堂々とスルーしている(→2024.3.10)。
もちろんその存在は知っているけど、わざわざ笠利にまで行って鑑賞するだけの価値を感じなかったのである。
そしたら美術作品のTシャツをよく着ている国語の先生が職場で「田中一村は最高ですよー」と話しているのを聞いて、
「えー? マジでー?」と内心びっくり。そこまで力説するならきちんと見ておくのもよかんべと、行ってきたのである。

展示は3部構成。20代までの東京時代、30代と40代の千葉時代、そして50代以降の奄美時代。
栃木の彫刻師の家に生まれて幼少期から文人画を仕込まれ、なんと6歳くらいできちんとした作品を残している。
「6歳でこれって神童じゃん!」という反応が一般的だろうが、 そこから10代半ばまであまり変わらず成長が見られない。
自分で考えて描いている印象がないのである。文人画の世界の枠で模範的なものを生産して周囲を喜ばせている感じ。
実際、一村はストレートで東京美術学校日本画科に入学するが、2ヶ月で退学している。通用しなかったのだろうと思う。

というわけで、文人画嫌いの僕としては(→2024.3.202024.5.14)、田中一村は単なるヘタクソでしかなかった。
文人画の描き過ぎモジャモジャと亜熱帯のモジャモジャが噛み合ったわけだ。その萌芽が幼少期からしっかりみられる。
見ていて致命的なのが構成力の欠如である。まともな日本画であれば肝であるはずのトリミングのセンスがとにかく悪い。
自分の描いている木の形が気持ち悪いとか、そういう感覚はないのだろうか。また鳥の前に葉っぱを平然と重ねて配置する。
全般的に、何を主人公に描きたいのかがわからない。焦点の定まらない文人画の悪い癖が最後まで抜けなくって見苦しい。
さらに軍鶏の絵が典型的だったが、横長のバランスだとすごくいいのが縦長の日本画的なバランスだと急におかしくなる。
写生を見ても、かなり残念である。円山派や明治の日本画家を見てきた自分の感覚だと、小学生の描いたものに近い。
人の顔を正面から写生したものも、平板でお世辞にも上手いとは言えない。基本的に、人間を描くのが下手なのである。
写生の拙さがはっきり出ているのは、鳥を描いたときの頭と体のバランスの悪さだろう。特に横を向いたときにおかしい。
「中央画壇に評価されなかった」という点が悲劇的に語られるが、こんなレヴェルのものを評価したら笑い者である。

客はかなり入っていて、色がきれいと言っている人が多かった。なるほど確かに色彩感覚は優れている。
雛人形関係の絵ではカラフルさを前面に出しており、文人画由来の描き過ぎが紋様としてプラスにはたらいていた。
彼は最終的に南国らしい葉っぱのシルエットに鮮やかな色の対比という作風にたどり着いたが、それは幸いだった。
しかし写生の画力が足りないために完成には至っていない感触だ。本人はその弱点を自覚できていなかったみたいだが。
最後に展示されていた『アダンの海辺』を見て、こりゃまるでシュルレアリスムだなと思う。そして閃いた。
この人はおそらく文人画ではなくダリとかアール・ヌーヴォーを学んでいれば、存命中に評価されたのではないか、と。
学ぶべき対象を完全に間違えていたのである。もったいないけど、本人のセンスが悪かったんだからしょうがない。

 
L: 撮影OKの看板からトリミングした『アダンの海辺』。ダリとかアール・ヌーヴォーをヒントにすりゃよかったのに。
R: 同じく『不喰芋と蘇鐡』。美しい色彩と絶望的な構成力が窺える。人間を描けなきゃゴーギャンにはなれねえよな。

いろいろボロクソに書いてきたけど優れた作品(というより僕の好みに引っかかった作品)はもちろんあって、
モノクロの『鶏頭図』、また風景画として『千山競秀図』はたいへん秀逸だった。でもそれが続かないんだよなあ。
奄美で見た景色を幻想として見せつけるだけの想像力と構成力があればよかったのにね。でもまずは写生からだな。


2024.10.26 (Sat.)

『下妻物語』が公開20周年でリヴァイヴァル上映するというニュースを聞き、居ても立ってもいられないのであった。
たぶん気に入るだろうしとマサルを誘う。で、マサルの提案でルミネtheよしもとにも行くことに。充実した週末である。
なおマサルは忍者体験ができる施設との二択で「体動かすのイヤだから吉本で!」と決断。怠惰である。
僕としては昨日が落語で今日が漫才・コント。贅沢な生活じゃのうと思いつつ新宿駅に集合する。

まずはルミネtheよしもとだが、会場の7階へ行くのに大いに迷う。着いたらそこはいろんな芸人のグッズ売り場だった。
しかし僕は特に推している芸人もいないので「こんなんあるんだなあ」くらいのトーン。マサルはBKBのシャツを購入。
当日券ということで端っこの席でのんびりと見る感じに。前説が始まると「幕が開いたら撮影はダメ」ということで、
つまりは若手のオレたちは撮ってくれということである。なお物語ズの主人公のハラちゃん氏は元ジャニーズJr.と聞き、
マサルはジャニーさんの洗礼を受けたのかどうかが気になって仕方のない様子なのであった。まあ無理もないですな。

 前説で登場した物語ズのおふたり。

チケット代は決してお安いというわけではないが、演劇と比べればやはり手頃。そして内容もヴァリエーションがある。
COWCOW・ミキ・囲碁将棋・NON STYLEらの漫才の一方、GABEZの巧さとくまだまさしの(もちろんいい意味での)落差、
後半は今田耕司と月亭方正が登場するコントが実に吉本であり、多様な客の好みに合わせる幅広さがさすがである。
テレビで見たことのある芸人が目の前で安定した笑いを披露してくれるのは安心感があるなあと思うのであった。
個人的にはミキがよかった。昔はうるさくて嫌いだったが(→2018.12.5)、今は絶妙なバランスの芸になっていると思う。

晩飯を挟んでいざ『下妻物語』。オレがどれぐらい好きかは過去ログを参照(→2005.7.122006.12.162010.5.26)。
(なお下妻市は先月訪れたが、イオンには行かなかった(→2024.9.11)。やっぱり「ジャスコ」でないとね……。)
劇場にはわざわざロリータ着てきた女の子がちょこちょこいて、たいへん正しいなあと感心するのであった。
オレだって可能ならロリータを着てこの映画を見たいくらいだ。男女問わずロリータが正装だと本気で思う。
マサルは予備知識がまったくなく、「ロリータとヤンキーならヤンキーの方がええに決まっとるやん」くらいな感じ。

僕の感想はただ一言、「やはり最高にいい」。細かいことは完全に19年前のログ(→2005.7.12)と同じである。
あらためて、出演している役者のいいところをことごとく引き出しているのがたまらなく愛おしく感じられる。
水野晴郎みたいなズルさもあるが、一人として生来のキャラクターが生かされていない役者がいないのだ。
主演のふたりももちろんよい。でもまあやっぱり土屋アンナだな! 一世一代の演技が記録されて羨ましい。
そしてマサルは「小池栄子の説得力が最高やったね!」とひたすら力説するのであった。それは本当にそう。
あの序盤のテンションで102分もつのか不安でたまらなかったそうだが、十分に楽しめたとのことで何よりである。

その後は喫茶店で感想戦。マジメなところとしては、ファッションとはどの社会集団に属するかの選択で(→2004.1.11)、
当時は非日常でしかなかったロリータと10代ならではの社会からの逸脱を宣言するヤンキーの友情が斬新だったって話。
女子はカーストに属する生物であり、双方の友情を成立させるには少年マンガの展開を応用するのが有効だったわけだ。
またその一方でクライマックスで露わになる桃子の性格の多層性(服の記号とはまた別にある本性)も人間の本質で、
社会学的に見ればファッションによる「なりたい自分」と本性の自分を両方一気に肯定している点もまた見事なのだ。
そして原作が読み手の想像にうまく委ねているキャラクターについて(服のように誰でもなりうる →2006.12.14)、
この映画では深田恭子と土屋アンナというとんでもなく魅力的な解釈がなされたことが素晴らしいのである。
そういえば電車にロリータファッションが乗っていたら昔は「えっ!?」と思ったが、今は「気合い入ってんなあ」で、
この変化が起きたのはやはり『下妻物語』以降であるように思う。われわれ「見る」側に心理的な変化が定着した。
作品という手段を通してわれわれの価値観を広げた、そしてもちろん内容も抜群に面白い。偉大な映画なのである。


2024.10.25 (Fri.)

本日は毎年恒例の芸術鑑賞。今年は落語。やっぱりヴェテランの聴かせる技術はものすごいものがある。
しかしながら「時刻を尋ねない『時そば』は果たして『時そば』と呼べるのか問題」の宇宙に迷い込むのであった。


2024.10.24 (Thu.)

青春18きっぷの改悪ぶりに茫然としております。もうこりゃ実質、廃止と変わらないではないか。
自宅との往復となる日帰り旅行で青春18きっぷは最も効果を発揮するのだが、3日連続でできるかバカヤロー。
5日連続なんてもっと無理だ。 そうなるともう、どこかへ行くことではなく、列車に乗ることが旅の目的となってしまう。
鉄道とはあくまで移動の手段であり、目的ではないのだ。手段と目的を履き違える愚かさに吐き気がする。


2024.10.23 (Wed.)

本日は中間テストで、「寒」や「暖」の漢字を正しく書けない連中にブチ切れる。とんだ誕生日プレゼントである。

でも昼過ぎに強い虹が出て職場がいい雰囲気になったので機嫌を直したのであった。まあそんなもんである。


2024.10.22 (Tue.)

誕生日を前にして「びゅくびゅく腺多漏」というペンネームを思いついてしまった。エロ関連で使うとしよう。
でも冷静に考えると、マサルと尺さん(奥田くん)から1文字ずつもらっていることになるんだよな。
それならいっそ「潤うびゅくびゅく腺多漏」にしてみようか。頭が悪いを通り越して面白いなコレ。



2024.10.19 (Sat.)

世田谷文学館『世田谷文学館コレクション展 寺山修司展』。
世田谷区下馬が天井桟敷の本拠地だったということで、豊富にある館蔵資料が公開されているので見てきた。
展示はワンフロアに収まるヴォリュームで、天井棧敷関連と寺山直筆の手紙という2部構成となっていた。

 
L: 展示室の入口にて。  R: 奥の撮影可能コーナーは『田園に死す』収録の短歌のバナーなのであった。

まず印象的だったのが自分用の原稿用紙に書かれた直筆の文字である。原稿用紙はミニマルな横長のマス目となっていて、
その中いっぱいに平べったく書かれている。おかげでけっこう読みやすい。しかし同じ直筆の文字でも手紙は違っており、
宛名などは意図してバランスがバラバラになっていて独特の躍動感がある。寺山修司の署名も角度をずらしているなど、
どこか枠から飛び出そうという印象を漂わせている。文字の見せ方、デザインを意識している人だったのかと思う。

天井棧敷関連では『あしたのジョー』(→2011.10.14)力石徹の葬式についての新聞記事がかなり面白かった。
われわれとしてはマンガごと歴史的事件なのだが、当時のリアルタイムの反応がヴィヴィッドに記録されていて興味深い。
また床には高田馬場・新宿一帯を劇場としてゲリラ的に上演された市街劇・『人力飛行機ソロモン』の地図がある。
これは現実の街をテーマパークに変える試みだと思う。All the world’s a stage, And all the men and women merely players:
そしてこの市街劇は、TOKYO MYSTERY CIRCUSの謎解き(→2018.4.222023.10.7)に繋がるのかもしれないと思う。
しかしそんなことに熱中していたとは、実に元気な時代だったんだなあと呆れる。安保闘争や学生運動が挫折した後、
政治を諦めた若者たちは有り余るエネルギーをどう発散するかの問題に直面し、芸術方面に飛び出していったのだろう。
明確なヴェクトルを持たないところに、時代との化学反応としてのアングラが特徴づけられるのかもしれない。

でもそれだけに、目の前に物的証拠を積まれても、同じ時代を知らない者には状況証拠でしかないのである。
三沢を訪れたときに「僕の前にはただ波紋があって、それを起こした原因についての知識だけがすっぽり抜けている」、
そう書いた(→2017.6.24)。いまこうして原因についてのヒントを与えられても、やはり波紋しかつかめない。
結局のところ、きちんと彼の作品に向き合っていないからダメなのだ。短歌やセリフで散発的に彼の言葉に触れても、
その言葉がどのように世界を見つめた結果であるのか、どのような凶器として受け手に刺さって波紋を広げたのか、
そこをサボっていながらわかった気になろうという方がおこがましいのだ。すっかり反省して展示室を後にする。

ショップでいちばん驚いたのは寺山修司のお面を売っていたこと。「家出のするめ」なる商品もあった。
三沢のガソリンスタンドで見た写真がアクリルスタンドになっており、背面には短歌が入っていて、ちょっと欲しかった。


2024.10.18 (Fri.)

ふとメリケンサックの名前の由来が知りたくなって検索してみたら、出てくる広告がメリケンサックだらけになる事態。
職場のパソコンなのに、出てくるページ出てくるページことごとくメリケンサックの広告が載っとる。もちろん画像付きで。
もし他人に見られたら、いったいどう釈明すればいいのやら。ネットの監視社会にゲンナリする毎日を送っております。



2024.10.15 (Tue.)

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎 真生版』。元のヴァージョンに興味はあったけど怖そうなのでスルーしておりました。
で、満を持しての真生版が登場ということで、意を決して観てみたわけであります。音と色がグレードアップしたそうで。

感想としては、たいへんよくできている映画であると思う。面白いというよりも、純粋に、よくできている。
なるほど確かに『鬼太郎』なので、怖がらせることに主眼があるわけではないのだ。本当に怖いのは生きている人間の方。
その自業自得ぶりをどう描くか、ということになる。妖怪というプレーンな存在に対して欲望にまみれた人間を描く、
そういう本筋がしっかり守られている。「真性版」というのはおそらく、人間の業の部分の直接的表現を指すのであろう。
ヒロインを巻き込まれ型美少女キャラクターに見せかけて、業のど真ん中に置かれた悲劇をブレずに描く度胸もよい。
人間の負の部分を突きつけるため全体に暗さが漂うが、ホラーである必然性とのバランスが絶妙で、暗さが妥当なのだ。
(この点で、『幽☆遊☆白書』(→2008.7.252011.10.31)と共通した雰囲気を感じる。暗いが、妥当で、名作。)

水木しげる記念館のログでも書いたが(→2013.8.20)、妖怪とは、人間が理解しがたい現象に直面した際、
想像力を駆使して理屈をつけていくことで生まれる存在である。つまりは人間の想像力を映す鏡と表現できるだろう。
また、人間の世界を超えたところにある存在を規定することで、自分たちの行為を再確認する基準とする面もあるだろう。
(他者の目で自らを客観視する民俗学的な知の蓄積。実例は、善の確認として機能する昨日のなまはげ(→2024.10.14)。)
妖怪には人間性が投影される。だから現代社会でも妖怪は存在しうる。未来だって可能だ(→2005.8.192024.9.14)。
そしてこの映画では舞台を高度経済成長前夜に設定し、質感たっぷりに描く。都市が妖怪観を更新しはじめた時期で、
あえて「古い社会」経由で変わることのない人間の欲望と業を突きつける。妖怪の入る隙間をうまく見つけたものだ。
(初代の『ゴジラ』がこの時期に現れ、従来と違う形で科学と災厄の戦いを描いたことは興味深い。→2014.7.11
また、ところどころ差し挟まれる戦争のトラウマは、人間の愚かさを示すと同時に、水木先生への最大の敬意でもある。
水木しげる生誕100年記念作品の映画にふさわしい盛り込み方だ。『鬼太郎』シリーズの総決算として文句なしである。

それにしても石田彰と古川登志夫は声がまったく老ける気配がなくて怖い。まさかこの2人こそ妖怪ではないの?
なお野沢雅子はもう本物の妖怪だからしょうがない(キャスティングに関しては最高!としか言いようがないのだ)。



2024.10.10 (Thu.)

映画館で『五等分の花嫁*』を見たんですけど、新婚旅行編ということでそれなりに期待はしていたんですけど、
本っ当ぉーにつまらなかった! もうどうしょうもねえよコレ。オトナ二乃以外に見るべきものがない。本当にない。
(いちおう参考までに関連過去ログはこちら →2020.11.202022.5.282023.7.27

前も書いたけど、どうせならギャルゲー的マルチエンディングで、①から順番にイチャコラすべきなんですよ。
まず①とイチャコラしていたけど最後んところで頭ぶつけて記憶が飛んで気がついたら過去に戻っていて第1話終了、
次に②とイチャコラしていたけど最後んところで頭ぶつけて記憶が飛んで気がついたら過去に戻っていて第2話終了、
次に③とイチャコラしていたけど最後んところで頭ぶつけて記憶が飛んで気がついたら過去に戻っていて第3話終了、
次に⑤とイチャコラしていたけど最後んところで頭ぶつけて記憶が飛んで気がついたら過去に戻っていて第4話終了、
次に④とイチャコラしていたけどこれがトゥルーエンディング、だけどパラレルワールドを匂わせてなんとなく大団円。
それでいいじゃないか。毒にも薬にもならない蛇足をやるよりも、他の需要をしっかり掘り起こすべきだろうに。
特に五つ子が大人になっているんだから、新たな魅力をクローズアップしないでどうすんだ。頭が悪すぎるぜ!


2024.10.9 (Wed.)

では昨日見た、細見美術館『美しい春画 ―北斎・歌麿、交歓の競艶―』について。
当方、春画というものを見るのは初めてなのである。そんな、えっちなの、ぼく知らないもん。わかんないもん……。
とかショタっぽい口調になってみたりして。春画は日本の美術史において決して無視することのできない存在であり、
きちんと勉強しなければならないだろう、ということで短時間でも今回鑑賞する時間を設定したというわけ。

いちおう春画について軽くまとめておく。主に浮世絵でのエロスな絵でございます。もちろん幕府は規制をするけど、
地下でしっかり流通したのであった。地下に潜ったことで逆にクオリティはかなり高く、技術の粋を凝らした作品が多い。
日本人のおたく根性が窺える。しかし近代日本では「恥ずべきもの」という扱いが一般的で、ほとんど日の目を見なかった。
西洋からの評価が高まったことで、わりと最近になってから日本国内でも展覧会が増えてきた感じである。

で、今回の展覧会は葛飾北斎に喜多川歌麿、鳥文斎栄之、歌川国貞など、かなり重量級のラインナップとなっている。
本来であればそれぞれの画家の特徴とあわせて作品を味わっていくべきなのだが、どうにもおちんちんとおまんまんで。
どこをじっくり見るべきか、焦点をたいへん合わせづらいのである。しかもやたらとみんなちんこがデカい。
これって誇張なのよねきっとそうだよねお相手もデカいし、なんて思うのだが、まあぜんぜん集中できねえこと。
見て興奮する側の男である以上、どうしても視線がそっちに偏ってしまい、なかなか絵全体を眺めることができないのだ。
それぞれの画家の違い、作風もなかなかつかめない。これは究極的には表情を味わうものなのではないか、と思ったが、
そうなると性器の描写はノイズなのである。私のマジメな性格が裏目に出てしまいましたな。正直、途中で飽きた。
というわけで、僕の初体験はなかなかほろ苦いものとなってしまった。まだまだ修行が足りないでござった。
なお、グッズがかなり充実していてなんとも。普段使いできねえよ。春画をイメージしたお香はなかなかムーディー。

僕はエロマンガの方が好きです。むしろぜひ、エロマンガの展覧会を美術館でやってみてほしいわ。


2024.10.8 (Tue.)

個人的な修学旅行の2日目にして旅行最終日である。今日も天気はすっきりしないが、動ける範囲で動きまわるのだ。
西院周辺で朝メシをいただくと、まずはバスに40分ほど揺られて栂ノ尾へ。そう、「栂尾」といえば高山寺である。
高山寺といえば、なんといっても『鳥獣戯画』だ。本物は国立博物館に寄託されており(甲と丙が東京、乙と丁が京都)、
こちらにあるのは模本。でも石水院は国宝だし、一度は来てみたかったのだ。石段を上っていき、ほぼ朝イチでお邪魔する。

  
L: 栂ノ尾バス停近くの駐車場。  C: 駐車場からだと裏参道となるが、こちらの方が標準的なアクセス。  R: 石水院の入口。

高山寺の境内は出入り自由だが(紅葉の時期には有料となるそうだ)、石水院は有料での拝観となる。
そもそも高山寺は、文覚上人の弟子で、華厳宗を密教化した明恵(みょうえ)の寺である。石水院はその時代の建物だ。
1889(明治22)年、現在地に移築した際に住宅様式に改変されたが、木材の乾いた感じがいかにも鎌倉時代(→2010.8.20)。

  
L: 石水院の手前にある池。  C: 石水院から見た庭。  R: 庭にちょっとだけ出て石水院を振り返ったところ。

  
L: 石水院。蔀戸が上げてある。  C: 廂(ひさし)の間を覗き込む。かつては春日・住吉明神の拝殿だったそうだ。
R: 中央に置かれているのは善財童子像。華厳経で仏道修行が描かれており、明恵が敬愛して木像を置いたという。

  
L: 蟇股をクローズアップ。  C: 南面は清滝川の先にある向山の景色を眺める空間となっている。

奥には『鳥獣戯画』の模本が置いてあった。本物は上野で175分待ちで見たっけなあ(→2015.5.29)。
受付にはさまざまな鳥獣戯画グッズがあり、あらためてお金になるデザインの凄みを実感しつつ、いろいろ購入。
かわいいんだからしょうがない。日本のカワイイ文化、そしてマンガの深淵について考えるのであった。

  
L: 高山寺の境内はこんな感じ。伽藍はいわゆる「山岳寺院」とは少し違い、一周する通路をもとに穏やかに並ぶ感じ。
C: 境内の真ん中にある茶園。明恵が栄西からもらった種を植えて以来の歴史があり、ここから宇治に茶が広がったそうだ。
R: 開山堂。江戸時代の再建で、明恵が晩年を過ごした禅堂院の跡地に建っている。木造の明恵上人坐像が安置されている。

  
L: 境内の北東にある明恵上人御廟。  C: 仏足石に至る道。公園のような雰囲気となっている。  R: こちらが仏足石。

  
L: かつての本堂の位置に建っている金堂。寛永年間(17世紀前半)に、仁和寺の真光院から古御堂を移築したもの。
C: 金堂の辺りから眺めた景色。  R: 金堂からまっすぐ下りていくのが表参道。これは途中で振り返ったところ。

参拝を終えるとそのまま歩いて神護寺へと向かう。舗装はされているが、なかなかの山の中の道をトボトボ進み、
清滝川を渡ると石段。神護寺は高雄山のしっかり中腹に位置しており、思っていた以上にアクセスが面倒だった。

  
L: 清滝川。深みのある緑を湛えて美しい。  C: 辺りはたいへん湿っぽく、カニやカタツムリなどがいた。
R: 後で神護寺の多宝塔脇で見かけたイトトンボ。全身緑なのでアオイトトンボなのか。まあ何にせよ美しい。

  
L: 清滝川を渡って神護寺へ向かう石段が登場。濡れているので気を遣う。  C: 途中には茶屋があった。
R: 最後の石段から見上げる楼門。1629(寛永6)年の再建で、京都府指定有形文化財。なお入山受付は左手前。

楼門をくぐって神護寺の境内に入ると、それまでの印象とはガラリと変わってかなり広々とした空間となる。
密教の山岳修行の場にふさわしい規模で、東京国立博物館で先月までやっていた神護寺展に行かなかったことを少し後悔。

  
L: 楼門を抜けて境内。それまで山の中をうねうねトボトボ歩いてきたので、いきなり開けてびっくりである。
C: 少し行って右手に和気清麻呂霊廟。護王神社(→2015.7.26)はもともとこちらにあった護法善神社を遷したもの。
R: 明王堂。空海作の不動明王像が収められていたが、平将門の乱を経て成田山新勝寺(→2011.9.192014.8.30)の本尊に。

さて神護寺の歴史だが、少々ややこしい。まず称徳天皇が崩御して道鏡が左遷されてから10年ほど後の781(天応元)年、
和気清麻呂(→2020.3.29)が河内に神願寺を建立した。また清麻呂はほぼ同じ時期に、山城に高雄山寺を建立した。
やがて高雄山寺は最澄が法華経の講演をしたり空海が儀式(灌頂)を行ったりと、密教にとって重要な場所となっていく。
そして824(天長元)年に神願寺と高雄山寺が合併し、神護国祚真言寺(「神護寺」はその略称)と改められた。
しかし二度の火災に遭うなど平安末期には荒廃し、文覚が復興に奔走するも後白河院の怒りを買って伊豆国に流された。
(文覚は那智四十八滝での滝行を描いた歌川国芳の絵も有名。月岡芳年は遠藤盛遠時代を『芳年武者无類』で描いている。)
文覚は配流先で源頼朝と親交を結び(→2022.1.22)、頼朝が力をつけると後白河院も神護寺復興を支援するようになる。
ところが頼朝の没後、文覚は後鳥羽上皇から謀叛の疑いをかけられ、対馬国に流される途中で亡くなってしまう。
神護寺の所領は没収されるが、今度は承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐国(→2018.7.28)に流され、神護寺は再び復興される。

  
L: 神護寺の境内は「T」字型で、南には五大堂(右)と毘沙門堂(左)。  C: さらに南東端には大師堂。
R: 大師堂は国指定重要文化財。桃山時代に細川忠興の寄進によって再建された。空海が住んだ納涼房を復興。

  
L: 毘沙門堂の南面。1623(元和9)年の建立で、かつては金堂だった。  C: 毘沙門堂の北面。正面が2つある感じの建物。
R: そのまま振り返ると五大堂。毘沙門堂の北に建っている。こちらも1623(元和9)年の建立だが、かつては講堂だった。

南側の建物をあらかた撮ると、北側へと向かう。石段を上りきると、かなり迫力のある金堂。1935年に建てられたが、
尾道出身の実業家・山口玄洞の寄進による。山口は寄付金王と呼ばれたそうで、龍王堂や多宝塔なども寄進している。
金堂では本尊である国宝の薬師如来立像をはじめ、日光&月光菩薩に十二神将、四天王の立像をフルセットで拝観。
薬師如来像は平安初期の特徴があるそうだが、日光&月光菩薩と合わせて見ると、平安から鎌倉への移行途中に思える。
表情のせいか、体勢は平安だが躍動感が鎌倉といった印象がした。足元の粗彫り度合いがなかなかたまらない。

  
L: 五大堂の脇に置いてあった鬼瓦。  C: 金堂への石段。  R: 石段を上って金堂と向き合う。実に幅がある。

参拝を終えると足元に気をつけながら来た道を戻る。そして途中にある西明寺へ。こちらは槇尾(まきのお)で、
高雄の神護寺、栂尾の高山寺とともに「三尾の古刹」として知られている。まあ正直、2つと比べてだいぶ地味だが。
天長年間に智泉が神護寺の戒律道場として創建。平安末期には荒廃するが、1290(正応3)年に神護寺から独立した。
その後、戦国時代に兵火に遭って神護寺に合併されるが、1602(慶長7)年に再び独立して今に至る。

  
L: 清滝川に架かる指月橋。  C: 渡って石段を上ると西明寺の表門。本堂と同じく桂昌院の寄進によって建てられた。
R: くぐって右手に、歓喜天を祀る聖天堂。元禄時代の造営で、白幕に大根と御団の紋。大根は桂昌院っぽいなあ(→2015.7.26)。

1700(元禄13)年に徳川綱吉の母である桂昌院(→2012.2.192020.11.18)が寄進したという本堂に上がる。
本尊は釈迦如来像だが、どちらかというと像本体よりも収められている厨子の方に圧倒される。いろんな角度から眺める。
脇陣には西明寺で最も古い仏像の千手観世音菩薩像。しかし僕はさらに端っこの愛染明王像の方に惹かれるのであった。
釈迦如来像も千手観音像も国指定重要文化財なのだが、どうも肝心な方よりも些末な方が気になってしまう自分。
愛染明王像はいい人がにじみ出ている悪役レスラーみたいな印象で、仏教もキャラの世界なんだなあとしみじみ思った。

  
L: 本堂。  C: 聖天堂と本堂をつなぐ渡り廊下。苔庭の風景が自慢だと。  R: 江戸時代前期に移築された客殿。本堂より古い。

以上で午前中の古寺巡礼は完了である。栂ノ尾のバス停から西大路四条 まで戻ると、西院で昼メシをいただく。
午後は天気もしくは時間の許す限りレンタサイクルで動きまわるのだ。西院駅のすぐ近くに阪急レンタサイクルがあり、
手続きしていざ出撃。しかし西院駅はメシは食えるしネットカフェはあるしコインロッカーはあるし、利便性が実に高い。

感覚的には昨日の続きということで、京都の北西部から攻めていく。というわけで、最初の目標は妙心寺である。
京都には大寺院がいっぱいあるが、妙心寺の占めている面積はかなり大きい。そしてそこに重要文化財がひしめいている。
妙心寺は花園法皇が自分の御所を禅寺としたことで1342(暦応5/康永元)年に創建された。足利義満が寺領を没収したり、
応仁の乱で伽藍が焼けたりしたものの、織田信長をはじめ戦国武将の庇護を受けて「日本最大の禅寺」となった。

  
L: 妙心寺の南総門。入口はそんなに大きくないが、この中がかなり広大。  C: すぐ西にある勅使門。
R: 境内に入って放生池越しに見た勅使門。なお南総門も勅使門も1610(慶長15)年築で、国指定重要文化財。

  
L: 進んでいって三門。1599(慶長4)年の再建。  C: 浴室。1656(明暦2)年の再建で、明智光秀を弔うために建立された。
R: 経蔵。1674(延宝2)年の再建。なお、これらの3つの建物もやっぱり国指定重要文化財。個性派の堂宇が並んで圧倒される。

  
L: 手前が仏殿、奥が法堂。法堂は1657(明暦3)年、仏殿は1827(文政10)年の再建と新しめだが両方とも国指定重要文化財。
C: 仏殿から見た三門。  R: 逆に三門から見た仏殿。仏殿と法堂が並ぶ感じに鎌倉の建長寺(→2010.11.19)を思いだす。

妙心寺の法堂といえば、天井に描かれている狩野探幽筆の雲龍図である。昼休憩が終わったタイミングで拝観したが、
とにかくデカい。どこから見ても目が合う「八方睨みの龍」だそうで、見る角度により「昇り龍」や「下り龍」になる。
まあそりゃ気分の問題だろうと思うが、圧倒的に大きいのでそれだけで度肝を抜かれっぱなしになってしまう感じだ。
完成するまでに8年かかったそうだが、そりゃかかりすぎでないかい?と正直思う。竣工に合わせてそうなっただけでは。
法堂には国宝の梵鐘「黄鐘調の鐘」もある。伽藍の大きさといい建物といい、妙心寺の臨済宗パワーを思い知らされた。

  
L: 横(西)から見た法堂。  C: 南東から見た法堂。  R: 唐門。この奥に寝堂や大方丈がある。

 大方丈。儀式だそうで残念ながら中に入れず。大庫裏も工事で見学できなかった。

妙心寺には塔頭が40以上あり、三門の西側にある退蔵院が見学できたので、法堂の昼休憩の間にお邪魔しておいた。
国宝である如拙の『瓢鮎図』を所蔵するが、京都国立博物館に寄託されているので中に展示されているのは模本である。
それでも狩野元信の作という「元信の庭」のほか、「陰陽の庭」「余香苑」という庭園があるので喜んで見てまわる。

  
L: 退蔵院の入口。妙心寺の境内は「花園妙心寺町」となっているが、塔頭を含めた敷地はその範囲よりもまだ広いのだ。
C: 方丈(本堂)を行く。1597(慶長2)年の再建で国指定重要文化財。  R: 「元信の庭」は方丈の西。奥に『瓢鮎図』の模本。

  
L: 『瓢鮎図』の模本。ヒョウタンでナマズを押さえるという禅の公案がモチーフ。賛がやたらめったら多いな!
C: 窓から覗いた「元信の庭」。これは南東から見たところである。  R: 北東から見たところ。


無理やりパノラマに加工してみた。

方丈を出て南側にあるのが「陰陽の庭」と「余香苑」。「陰陽の庭」を抜けると「余香苑」という構成になっている。
「余香苑」は造園家・中根金作の設計で1963年から3年かけて完成した。微妙な高低差を生かしており、見事である。

  
L: 「陰陽の庭」、こちらが「陽の庭」。  C: 真ん中に木。  R: 「陽の庭」の対面に「陰の庭」。端っこが整備中。

   
L: 「余香苑」の東屋。しかし中に入れないのは大いに疑問。  C: 端っこにある大休庵。有料で抹茶がいただける。
R: ひょうたん池。盛大に泡立っているのは鯉の産卵の影響とのこと。高低差と遠近法を上手く組み合わせている庭である。

妙心寺を後にすると、北に行って等持院。総門が住宅地の中にあるのだが、周囲は寺らしい雰囲気がほとんどなく、
なんとなく一周して様子を窺う。そうしたらいつの間にか立命館大学の勢力圏に入っており、少し不思議な感覚になる。
住宅と寺と大学が凝縮された形で密集しており、なんとなく境界が曖昧。これもまた、京都らしさの一面であると思う。

  
L: 等持院の総門。  C: 進んでいくと入口。恐ろしく無機質で戸惑う。  R: 進んでいくと山門に到着する。

等持院は1341(暦応4)年に足利尊氏によって創建され、天龍寺(→2010.3.27)を開山した夢窓疎石を迎えている。
1358(延文3)年に尊氏が亡くなると墓所となった。衣笠山の南麓にあったが、現在地に移って足利将軍家の菩提寺となる。

  
L: 等持院の庫裏。こちらから入っていざ拝観。  C: 進んでいくと方丈(本堂)の手前に、関牧翁による祖師(達磨)像。
R: 方丈。1616(元和2)年に福島正則が妙心寺の塔頭・海福院に建てたものを、1812(文化9)年にこちらに移築した。

  
L: 方丈南庭。北と東が池泉回遊式庭園であるのに対し、こちらは枯山水。  C: 方丈に接続している霊光殿。
R: 方丈の北側にある庭園(西庭園)。芙蓉池を中心としており、公式サイトによると夢窓国師作とも伝えられるそうだ。

霊光殿には足利歴代将軍の木像(第5代の義量と第14代の義栄を除く)と徳川家康の木像が安置されている。
一人ひとり見ていったのだが、なんというか、どれも実にそれっぽいのである。すごくイメージどおりの顔なのだ。
義満は垂れ目で余裕綽々だし、義教は気難しそうで、義政はインテリっぽく、義稙はツイてなさそうで(→2018.7.15)、
義輝は精悍で、義昭は少し神経質そう。ステレオタイプ全開で申し訳ないけど、たいへん納得してしまったのであった。

  
L: 西庭園のいちばん高いところにある清漣亭。  C: 清漣亭から見た方丈。  R: 右を向くと庫裏と書院。これも見事だ。

等持院は方丈の北と東にある庭園に出ることができて、意外とあちこち回れる。しっかり高さのある西庭園と、
心字池を中心に広くて平坦な東庭園。曇り空だったのが非常に残念で、天気がよければ緑が美しい庭のはずだ。

  
L,C,R: 東庭園を行く。落ち着いていていい雰囲気である。天気がよければかなり緑が美しかったと思う。

等持院を後にすると、観光客でごった返す金閣寺を豪快にスルーして、そのまま北大路通を東へとひた走る。
そうしてやってきたのが大徳寺である。ここもまた広大な伽藍を誇っている寺で、塔頭の数は20以上とのこと。
妙心寺の塔頭の間がきっちり舗装されているのに対し、大徳寺は石畳はあるものの、砂利が目立っている。
そこにまっすぐ土壁が続いているので、敷地内はいかにも近代以前の寺町という雰囲気で、なかなか異質である。
大徳寺は1315(正和4)年に大燈国師こと宗峰妙超が開創。応仁の乱により荒廃したが、一休宗純が復興に努めた。
戦国時代以降は茶人との関わりが深くなり、山門・金毛閣の修復に絡んで千利休が秀吉の怒りを買い切腹に追い込まれた。
こちらも国宝・重要文化財だらけだが、建物は非公開となっており、近づけなくてすっきり眺められないのが残念。

  
L: 大徳寺の総門。北大路通から200mほど入ったところにあるせいか、寺の敷地内は周囲から隔絶された感触になる。
C: 総門をくぐって右手に勅使門。慶長年間築の御所の門が後水尾上皇より下賜され、1640(寛永17)年に現在地に移築。
R: 奥に山門(金毛閣)。1529(享禄2)年に下層が竣工、1589(天正17)年に千利休が上層を完成させて金毛閣と名付けられた。

  
L: 大徳寺の敷地内。砂利道に壁で区切られた塔頭が並び、近世の寺町らしい雰囲気がそのまま残っている。
C: なぜか1665(寛文5)年築の仏殿にだけ近づくことができた。木々と戦いつつ正面から撮影。  R: 中を覗き込めたので撮影。

  
L: 奥の法堂。1636(寛永13)年に小田原藩主の稲葉正勝・正則父子により再建。横からでしか眺められないのであった。
C: 北西から振り返る形で眺める。  R: 残念ながらここから先の本坊には入れない。国宝建築がゴロゴロしているのよね。

大徳寺本坊は非公開だが、一部公開している塔頭があるのでピックアップしてお邪魔する。まずは本坊裏の大仙院から。
方丈(本堂)は国宝であり、書院は国指定重要文化財。そして書院庭園は国の特別名勝に指定されているのだ。
内部は撮影NGだが、方丈北東の書院庭園は石組の中を枯山水で川が流れていく様子をかなり具体的に表現している。
方丈の南側には枯山水にふたつの山。上賀茂神社の細殿前にある立砂(→2010.3.272013.6.17)を思いだす。
(個人のカメラでの撮影はNGだが、いまGoogleマップのストリートビューを確認したら、ウェブ上で庭を見学できた。)

  
L: 大仙院の入口。  C: 拝観はこちらから。  R: 聚光院。一般公開していないが方丈が重文だったり障壁画が国宝だったり。

キリがないので、日立製作所の提供による重要文化財の札が立っている塔頭を、近場から2箇所選んでお邪魔してみる。
ひとつめは、大徳寺山門のわりと近くにある興臨院である。大永年間に七尾城主の畠山義総(→2019.11.3)が創建した。
方丈は1533(天文2)年の築で、国指定重要文化財となっている。秋の特別公開期間ということで見学できたのであった。
度肝を抜かれたのは、庫裡から入って最初の部屋の先に茶室への渡り廊下があること。しかも池の上を通っている。
こんな配置になっている建物は初めてで、その大胆すぎる発想に驚愕するのであった。なんというか、リゾート感がある。

  
L: 興臨院。この表門から国指定重要文化財。  C: くぐってみるが、通路がしっかり美しい。  R: 庫裡。拝観はここから。

  
L,C,R: 方丈へ進んで方丈前庭を眺める。小堀遠州作という枯山水庭園を中根金作が復元したもの。

  
L: 唐門付近から眺める前庭と方丈。  C: 方丈の裏庭はコケが主体で違いが面白い。  R: 茶室から庫裡を振り返る。

  
L: 庫裡から茶室への渡り廊下、左を見たところ。  C: 渡り廊下。奥に茶室。  R: 右。池の上を通る発想がすごい。

ふたつめは、大徳寺勅使門の南側にある龍源院(りょうげんいん)。大徳寺の塔頭で最も古い1502(文亀2)年の創建。
こちらも方丈・唐門・表門がそれぞれ国指定重要文化財となっており、1517(永正14)年頃の築とのこと。
庭園は室町時代から昭和まで、広かったり狭かったりの個性派揃いで、禅宗の庭園を対比という視点で楽しむには最適。

  
L: 龍源院の表門。  C: くぐって斜めに庫裏から入る。  R: 書院南側の庭「滹沱底(こだてい)」。別名「阿・吽の石庭」。

  
L: 庫裏と方丈の間にある「東滴壺(とうてきこ)」。日本最小の石庭と言われているそうだ。1960年に鍋島岳生が作庭。
C: 方丈南庭「一枝坦(いっしだん)」。樹齢700年以上の山茶花「楊貴妃」が枯れたため、1980年に住職だった細合喝堂が作庭。
R: 唐門から方丈とともに庭を眺める。円形の苔島がかなり個性的だが、蓬莱山を際立たせる面白い工夫であると思う。

  
L: 敷地の西端にある開祖堂。  C: 方丈北庭「龍吟庭(りょうぎんてい)」。やはり北側はコケを主体とした庭なのか。
R: 須弥山を表しているという中央の石組をクローズアップ。龍吟庭は大徳寺で最も古い庭園で、相阿弥の作庭とのこと。

天気がだいぶ怪しくなってきたので急いで移動。上賀茂神社の東側にある大田神社を目指して爆走したのだが、
平日だからか御守を頂戴できず。いずれリヴェンジのサイクリングで再訪問しよう。寺社については今日はおしまい。

 上加茂社家町(→2013.6.17)というと、藤木社とクスノキ。

雨雲レーダーで残り時間を計算しつつ、鴨川デルタを下って細見美術館に突撃する。岡崎の文化施設エリアのはずれだが、
駐輪場がないということで結局、琵琶湖疏水を渡る破目に。走って細見美術館に戻るとコインロッカーに荷物が入らない。
急いでいると上手くいかないものである。で、細見美術館では春画を鑑賞。詳しいレヴューは明日の日記に書くのだ。
作品に全集中して見てまわったので建物の細部はチェックしていないが、中は地下まで巨大なアトリウムとなっており、
なんだか面倒くせえ構造だな、という印象。延べ床面積が少なめで、あまり効果的に空間を使えていないのではないか、
という予感がした。あくまで予感なのであしからず。こちらも、いずれきちんとリヴェンジしたいものである。

 細見美術館。1998年の開館で、設計はプランテック総合計画事務所(大江匡)。

できるだけ車の交通量が少ない通りを選んで西院まで戻る。嵐電の線路を越えた辺りで雨が本格的に降りだしたので、
本当にぎりぎりで助かった、というタイミング。返す際、レンタサイクル受付のおじいちゃんに褒められちゃったよ。

というわけで4日間、個人的な修学旅行をできる範囲でとことんやりきったのであった。京都の奥深さは凄まじいです。


2024.10.7 (Mon.)

個人的な修学旅行ということで京都に来ているわけであります。本日は天気がイマイチなのでレンタサイクルは借りず、
公共交通機関を利用して嵐山方面を動きまわる。まずはその前哨戦ということで、梅宮大社に参拝して御守チェックだ。
9年前に熱中症になりながら御守を頂戴したが(→2015.7.26)、あらためて橘の神紋をあしらった御守を頂戴するのだ。

  
L: 梅宮大社にやってきました。相変わらず見事な随神門である。  C: 正面から見た拝殿。  R: その先の中門。

9年前には熱中症で視野狭窄に陥っていたのか気づかなかったが、梅宮大社は授与所付近にネコがチラホラ。
バスが来るまで余裕があるので、遊べないかと画策する。朝早いためかネコは寝ていたが、別のネコが寄ってきた。

 堂々と授与所で寝ているネコ。いわゆる「アンモニャイト」ってやつですな。

やがて雨粒が落ちてきて、授与所近くにあるテントに避難する。と、貫禄たっぷりの黒猫がやってきて僕の膝に乗る。
しっかり重いのだが、ふだん味わえないコミュニケーションなので、なすがままとなってあげる優しい僕なのであった。
するとさらにもう1匹がやってきた。さすがに両膝に乗られると体勢がキツくなるので、両脇に陣取ってもらうことに。

  
L: デカさがわかってもらえると思う。  C: 新たなネコがやってきた。  R: 仲良くしたまえ、ということで3連発で並ぶ。

そんなこんなでバスの時刻になったので、梅宮大社前のバス停で待機。しかし待っても待ってもバスはやってこない。
諦めて桂川方面へ歩きだしたら、ちょうどそのタイミングでバスが来やがった。京都のバスはこんらんしている!

松尾大社をスルーして松室北河原町バス停で下車すると、住宅地を西へと入っていく。山裾に鎮座するのが月読神社。
訪れてみて初めて知ったのだが、松尾大社の境外摂社である。壱岐の月讀神社(→2018.11.4)と関係があるようだ。
御守は松尾大社とは関係ないようで、独自のデザイン。無人販売所形式で置いてあったのでありがたく頂戴する。

  
L: 月読神社。もともとは独立していたが、しだいに松尾大社に従属した模様。  C: 祈祷殿(拝殿)。  R: 離れて本殿。

月読神社から山裾に沿って住宅地を南西へとまわり込んでいくと、5分ほどで「鈴虫寺」こと華厳寺に到着である。
50分ごとに法話が行われており、それに合わせての参拝である。平日だってのに石段にはしっかり行列ができていた。

  
L: 「鈴虫寺」こと華厳寺の入口。  C: 石段を上ると境内。これは帰り際に、次の時間の参拝者が入った後を撮ったもの。
R: 日本で唯一わらじを履いているという幸福地蔵菩薩。山門の脇にあるので、これがまた大混雑の原因となっている。

拝観料を納めて広間に上がると、お茶とお菓子を前にいざ法話。床の間の前にはずらっとガラス張りの虫かごが並び、
中では無数の鈴虫がずっと鳴いている。撮影NGなのは残念だが、コオロギ科なのでアップで見ると少しコックローチ感。
それがひしめいているところを撮ってもあまり嬉しくないので、ヨシとしておくのだ。単体だとかわいいんだがなあ。
さて華厳寺の鈴虫推しが始まったのは戦後のこと。当時の住職が短い夏の間に懸命に鳴く鈴虫の音色を聞いて悟りを開き、
通年で鳴くように試行錯誤して「鈴虫寺」となったのだ。1723(享保8)年の遅い創建で、特に名物のない寺だったが、
鈴虫説話で一躍人気となった。あわせて黄色の幸福御守を生みだし、うまいこと寺の運営を軌道に乗せたわけである。
法話の内容はまあまあだったけど、前半は完全にセールストークだったなあ。庭園もあるが参拝客が多くて落ち着かない。

  
L: こちらが本堂。目の前を鈴虫目当ての参拝客が並んでいる……。  C: 庭園から見た京都市街。  R: 庭園はこんな感じ。

「鈴虫寺」がどういう場所なのかつかめたので満足なのだ。そこからさらに奥へと行くと、「苔寺」こと西芳寺である。
昨日のうちにネットで拝観予約をしておいたが、拝観料が4000円とは凄まじいですなあ! あとシステム利用料が110円。
インバウンドな参拝客は平気かもしれないが、貧乏人の僕にはつらい額である。しかも参拝が可能なのは午前中だけで、
昼過ぎにはさっさと閉門してしまう。観光地ではなく宗教施設なので開放しているだけありがたいが、ニンともカンとも。

外国人観光客に混じって門をくぐると、まずは本堂(西来堂)へ。写経をしてから庭園見学、というお約束があるのだ。
薄く印刷してある文字の上を筆ペンでなぞればよいのだが、先っちょがフェルトになっている僕のかなり苦手なタイプ。
ただでさえ楷書を意識しすぎて毛筆がヘタクソなのに、グニグニしたフェルトでは壊滅的な文字しか書けないのだ。
西芳寺は庭園見学前に心を鎮める目的で写経をやっているそうだが、僕の心は荒れに荒れた状態となってしまった。

  
L: 参拝入口の衆妙門。  C: 境内西側の庭園。  R: 中門へと向かう道。なかなかに厳か。

観音堂の前から池泉回遊式庭園(下段の庭)へと入る。平日ではあるが、参拝客は外国人を中心にそこそこいる。
とりあえず2周して、できるだけ人が入らない写真を撮ってみた。先ほどいったん晴れたが天気はやっぱり下り坂で、
青空の下であればコケたちはどれだけ色鮮やかに輝いて見えるのだろう、と正直気になる。でも西芳寺の場合はむしろ、
湿った空気に息を潜めるコケたちを味わうのが似つかわしい気もする(→2017.10.30)。今回はそれでヨシとしよう。

  
L: 「下段の庭」ということで石段を下りていく。  C: 下りて左手の池。黄金池(心字池)の北西端。  R: カルガモがいた。

  
L: 庭園内はこんな感じである。  C: コケの勢いがすごい。まあ侘び寂びですわな。  R: 石組が残る一角。

  
L: コケから若木が生えていた。  C: 夫婦杉。  R: 国指定重要文化財の湘南亭。池に映る月を愛でるため、月見台が北向き。

  
L: 庭園の南端あたり。  C: 島から橋からコケに包まれていてすごい勢い。  R: 天気のせいもあるがわりとくすんだ色合い。

  
L: 東側を行く。  C: コケがすごいことになっている。  R: 北東辺りから眺めた光景。

  
L: 東側には竹林があり異なる表情を見せている。  C: 庭園の北側。  R: 観音堂付近から振り返る。

夢窓疎石の作庭であり、穏やかな色合いのコケのおかげで、確かにしっかり臨済宗らしい侘び寂びを味わうことはできる。
(ただしコケだらけになったのは江戸時代末期。夢窓疎石による日本最古の枯山水庭園(上段の庭)は残念ながら非公開。)
一度は訪れてみる価値があると思うし、外国人たちにとって禅の象徴的な空間として認知されているのも、まあわかる。
しかし同様に優れた庭園はほかにもあるよな、とも思う。4000円も取るのに上段の庭を見せないでコレ、というのは、
ちょっとお高くとまりすぎているのではないか。ほかの優れた庭園との価格差を納得させるだけのものは見出だせない。

西芳寺を後にすると、のんびりと上桂駅方面へ。線路を越えてさらに東へ抜けていき、お昼をいただくことにする。
「肉そば」が人気の丸源ラーメンである。ジャンクさが京都の伝統なのか(→2019.7.28)と思ったら愛知県発祥でやんの。
スープはかなり甘めで、溶き玉子のようなマイルドさを感じるのであった。特徴がはっきりしていてファンは多そうね。

 丸源の熟成醤油ラーメン 肉そば。

上桂駅から終点の嵐山駅へ。どうでもいいが、バスも阪急電車も松尾大社を「まつおたいしゃ」って言うのが気持ち悪い。
「まつのお」だよなあ!とツッコミを入れずにはいられない(→2015.7.26)。モヤモヤしながら改札を抜けると、
そのまま右手にあるバス停へ。空はもはや、今にも雨が降り出さんとしているのを全力でこらえている、といった気配。
頼りにしている雨雲レーダー(→2024.7.6)は「1時間後にはがっつり降りまっせー」との予測。でも、降るまでは動くぜ。
バスに乗り込んで目指すは嵯峨野方面なのだ。今日のうちに行けるだけ行っておいて、次回以降の課題を減らしたいのだ。

 
L: 阪急嵐山駅に到着。降るぞー降るぞーと言わんばかりの空模様。  R: 渡月橋から見た嵐山のボート乗り場。

バスは嵐電の嵐山駅を経由して、そこで大量の外国人観光客が乗り込んできた。うるせえし(香水が)くせえしで、
本当に勘弁してほしい。オーヴァーツーリズムにウンザリしながら揺られる。しかも運転手が案内表示をミスしたせいで、
1つ前の鳥居本で下車するつもりが終点の愛宕寺前まで連れて行かれてしまった。そしてバスを降りると土砂降りである。

  
L: 愛宕寺前の土砂降り。まあ歩いてもまったく問題のない距離なのでよかったが。とはいえすっきりしない。
C: 坂道を下っていくと、9年前にも訪れた嵯峨鳥居本に入る(→2015.7.26)。  R: 嵯峨鳥居本町並み保存館。

  
L,C,R: あらためて嵯峨鳥居本の街並みを眺める。前も書いたとおり、愛宕神社(→2015.7.25)の門前町である。

さて今回こちらにやってきたのは、祇王寺に参拝するためだ。20年前(!)には夕方遅くて入れず(→2004.8.8)、
14年前には朝早くて入れなかった(→2010.3.27)。今回ようやくリヴェンジを果たすことができたのであった。
平清盛の寵愛を受けていた白拍子の祇王だが、もっと若い白拍子の仏御前が現れたことで清盛に捨てられてしまい、
母の刀自・妹の祇女とともに出家。3人で往生院跡の庵に入って暮らしていたが、そこに「いずれ私も捨てられる」と、
仏御前が加わった、というのが祇王寺の由緒である。実に『平家物語』らしい諸行無常なエピソードだと思う。

  
L: 祇王寺の入口。32年ぶりだぜ。ドキドキしながら石段を上がる。  C: かわいい箱庭。  R: ではいざ突撃なのだ。

祇王寺は中学校の修学旅行で訪れているのだが、その雰囲気に当時の僕は完全にノックアウトされてしまい、
「オレ、将来出家して嵯峨野で暮らす!」と発言して、びゅく仙ファンの女子たちを大いに戸惑わせたものよ。
まあ浮世離れして過ごしているという点では予言に近い人生ですが。32年ぶりの祇王寺は記憶以上の美しさで、
夢中でシャッターを切りながら庭園を歩く。この緑の輝きを、どう形容すればいいのだろう。ただ感動しかない。

  
L: 門をくぐるとコケと木々の鮮やかな緑色に目を奪われる。同じコケなのにさっきの西芳寺とはまったく輝きが違う。
C: こちらが正式な門みたい。  R: 32年前とまったく同じように感動しながら庭園を歩く。あー出家したくなってきた。

  
L: 上の写真とは反対側のアングルで庭を眺める。  C: 端っこには竹林。  R: 代表的なコケについて紹介している苔棚。

  
L: 草庵(本堂)。  C: 草庵の内部。左手に並んでいる仏像は撮影NGなので、写らないように撮ってみた。
R: いちばん奥の大きく円い吉野窓。祇王寺では昨日の桂離宮と同じく、あえて土壁の一部を塗り残した下地窓でつくっている。

  
L: 草庵から見た庭。  C: 草庵の入口を眺める。なお祇王寺は明治に入って大覚寺によって再興され、現在も大覚寺の境外塔頭。
R: 境内の端っこには、祇王・祇女・刀自の墓である宝篋印塔(左)と、平清盛の供養塔である五輪塔(右)が並んでいる。

御守を頂戴したが、標準的な袋守はなかったので、ストラップ型の花彩守にした。赤・青・黄・緑の4色があったが、
迷わず緑色を頂戴する。しかしどうして祇王寺の緑はここまで美しいのだろうか。ぐずついた空とは別の世界の色だった。

祇王寺を後にすると、1.5kmほどの道のりをのんびり歩いて大覚寺へ。南朝としておなじみの大覚寺統の寺である。
天気はいよいよ限界で、国指定重要文化財の宸殿をペタペタ歩いているとついに雨が降りだした。それでもせっかくなので、
いちばん東端の五大堂(本堂)まで行っていちおう大沢池を眺める。が、さすがに雨ではどうにもならないのであった。

  
L: 大覚寺の入口。  C: 緑の中を進んでいくと表門。  R: くぐって式台玄関。江戸時代に京都御所から移築されたそうだ。

 五大堂(本堂)から眺める大沢池。この天気ではどうにもならない。

御守を頂戴して大覚寺を後にする。大覚寺始発のバスに乗り込むと、素直に阪急嵐山方面へそのまま戻るのであった。
今回は拠点を西院に置いているので、残りの時間はおとなしく周辺で過ごすとするのだ。いや、けっこう疲れた。

 バスの車内から見る嵐電の嵐山駅周辺。雨のせいもあって大混乱である。

しかしまあ、今日は今までの人生でいちばんたくさん外人見たね。ニューヨークより多かったんじゃないか、なんつって。


2024.10.6 (Sun.)

京都駅の八条口に到着すると、まずはやっぱり朝メシである。毎回お世話になっているなか卯でたっぷり食べると、
地下を通って北側のポルタに移動する。8時になるまでのんびり日記を書いて過ごすと、上のバスターミナルに出る。

本日の予定の一発目は、念願の桂離宮見学である。かつては往復はがきによる参観の申し込みしか手段がなく、
行ってみたい行ってみたいと思いつつずっとスルーしていた。希望日の3ヶ月前から1ヶ月前までとか、ややこしくて。
しかし気がついたらネット予約が可能となっており、今回ついに念願が叶ったというわけなのだ。インターネット万歳!

京都駅を出たバスは「桂離宮前」バス停に停車するが、はっきり言って「桂離宮裏」とした方がいい位置にある。
桂離宮の入口は完全に180度の反対側なので、桂川沿いの道を歩いて移動することになる。しかしこれが本当に厄介で、
クソ細くて事実上歩道がない上に交通量の多い道を300mほど、怯えながら歩くことになるんでおす。いけずやわぁ。

 こちらが桂離宮の表門。受付はさらにまわり込んでいった先。

そんな具合に京都の洗礼を受けつつ受付に到着。9時からの最初の枠での見学だが、すでに数人がベンチに座っていた。
日曜だけど朝イチだと当日分の空きがぜんぶあって、なんだよーと少し思う。まあ今日は天気が最高なのでいいや。

列になって待機して、9時きっちりに入場。それぞれの枠は見学者用のネックストラップの色で管理しているようだ。
グループ行動で職員による案内を聞くことになるので、まずは参観者休所に入って態勢を整える。土産物を買うもよし、
案内ヴィデオを見るもよし、説明の展示を眺めるもよし、という感じ。準備ができたら外に出て、御幸門方面へ。

  
L: 住吉の松。この松で池の眺めを遮り、後で古書院から池を眺めたときにいきなり全景が見える、という演出にしている。
C: 表門から御幸門へと続く道。遠近法の効果を考えて、表門側の幅を細く、御幸門側の幅を太くして、広がりを感じさせる。
R: 御幸門。後水尾上皇を迎えるためにつくられた門を18世紀に再建。脇には輿を置くための四角い石がある。

そもそも桂離宮とは、17世紀初頭に八条宮智仁親王がつくった別荘である。後陽成天皇の弟に当たる人物で、
豊臣秀吉の関白職を継ぐべく猶子となるが、秀吉に長男の鶴松が生まれたことでご破算となり、八条宮家を創設した。
細川藤孝(幽斎)から古今伝授を受けたほどの教養人であり、桂離宮は建築・庭園ともに傑作として知られている。
特に建築はブルーノ=タウトが褒め讃えたことで有名で、後のモダニズム建築の理想型という扱いを受けることになる。
(桂離宮の構成要素は、数寄屋建築という形で、和風建築をモダニズムで処理する際の根拠となった。→2024.8.12)
残念ながら建物内の見学はできないが、庭園は日本を代表する回遊式庭園ということで、しっかり勉強させてもらうのだ。

  
L: 蘇鉄山。島津家から寄進されたというソテツたち。  C: 「行の延段」。切石と自然石を並べた様子を行書に例えたもの。
R: 州浜から書院の方向を眺める。州浜の先には灯台に見立てた石灯籠。その先は天橋立に見立てた光景となっている。

池を挟んで書院と向かい合う位置にある松琴亭に到着。かなり複雑な建物で、見る角度によって印象が変わる。
衝撃を受けたのが、加賀奉書が使われているという襖と床の間の市松模様。江戸時代前期の築だが、モダンそのものだ。
これがまったく違和感なく溶け込んでいるところに、数寄屋建築におけるモダニズム精神のヒントがあるわけだと納得。

  
L: 松琴亭。  C: 長さ6m、幅70cmの石橋「白川橋」でアプローチする。  R: まずは茶室を覗き込む。

  
L: 北面へとまわり込む。こちらは二の間。  C: そのまま進んだところ。竈土構(くどがまえ)がある。  R: 膳組所。

  
L: 一の間を覗き込む。襖と床の間の市松模様に衝撃を受ける。  C: 西から見た一の間。奥に二の間。  R: 一の間端の石炉。

  
L: 松琴亭から見た天橋立・州浜方面。  C: 池から船で上がれるようになっている。  R: 賞花亭付近から見た松琴亭。

飛び石で木々の中を抜け、丘の上に登ったところに賞花亭。桂離宮庭園では最も高い位置にあるとのこと。
今出川の八条宮本邸にあった「龍田屋」を移築したが、室戸台風で倒壊したので翌年の1935年に復元したそうだ。

  
L: 賞花亭の中。  C: 賞花亭の手前からの景色。木々が多くて、正直なところ眺めはややイマイチ。
R: いったん下りていって書院に近づく。書院の全体をすっきり見られるのはここだけなのであった。

書院を眺めつつ飛び石を下りていくと、橋を渡らずに南へ行って園林堂(おんりんどう)へ。桂離宮では唯一の瓦葺だが、
屋根と向拝が大きくてややアンバランスな印象である。園内では珍しい仏教建築で、現在は中は空っぽとのこと。

  
L: 園林堂の正面へとまわり込む、四角い切石の飛び石。これまたモダンな要素である。ブレ気味で申し訳ない。
C: 園林堂。余裕がないし人が多いしでこんなアングルに。扁額は後水尾上皇の宸筆。  R: 笑意軒から見た園林堂。

園内でいちばん南にある笑意軒へ。江戸時代前期の築とのことで、こちらもデザイン上の工夫がいっぱい。
最も特徴的なのは6つの円い下地窓。それぞれに格子のパターンが変えてあり「四季の窓」と呼ばれるが、由来は不明だと。
壁に襖に窓に、こだわりが満載。様式はもちろん異なるが、旧朝香宮邸(→2016.10.312024.5.2)並みの密度ではないか。

  
L: 池越しに笑意軒。  C: 東側の軒下の縁側空間。左の蹲踞(つくばい)は水面に映る月を眺めるので「浮月」と呼ぶそうだ。
R: 右を向いて口の間。6つの円い下地窓がオシャレ。下地窓は賞花亭にもあったが、あえて土壁の一部を塗り残してつくった窓。

  
L: 奥の中の間。腰壁のデザインがすごい。なお窓から見える外の田んぼは、桂離宮が管理して景色に変化がないようにしている。
C: 笑意軒の内部を覗き込む。鴨居と天井の間を空けて開放感を演出。  R: 次の間。こちらの下地窓(上)もまた独特である。

  
L: 笑意軒の前面には自然石による「草の延段」。こちらは草書に例えている。  C: 口の間の杉戸。引き手が矢の形である。
R: 襖の引き手は船を漕ぐ櫂(かい)の形をしている。 笑意軒にも舟着場があるので、このような形にしたそうだ。

笑意軒の見学を終えると書院方面へと向かうが、月波楼が葺き替え工事中のため書院に近づけなかった。これは痛い!
梅の馬場から西側へとまわり込んであっさり見学終了となったのであった。悔しくてしょうがないけどどうしょうもない。

  
L: 肝心の書院が見えねェ……。  C: 新御殿の南面だけ見ることができた。  R: 内玄関。以上で見学は終了である。

参観者休所に戻ってくるが、消化不良なので展示されていた写真をいくつかクローズアップしておくのだ。
断片的ではあるが、どの写真を見てもただの和風建築という枠を超えたこだわりがうっすらと感じられる。

  
L: 古書院の外観。1615(元和2)年ごろの築で、八条宮智仁親王によって建てられた最初の書院。
C: 新御殿の一の間。  R: 書院の内部写真。左上が古書院、左下が楽器の間、右の上下が新御殿。

  
L: 落ち着いた状況で園林堂を撮影するとこんな感じになる。  C: 園林堂の中の須弥壇。仏像を置く場所。
R: あられこぼしの模型。住吉の松から御幸門までの御幸道と紅葉の馬場はこのような舗装がなされている。

外に出ると、さっきの桂川沿いの道を車に怯えながら戻る。園内で説明があった桂垣を眺めてみるが、パッと見た感じ、
ただのモサモサした生け垣だ。実はこれ、割竹を並べた建仁寺垣に裏からハチクという竹をそのまま編み込んでいるのだ。
桂川の洪水対策ということでわざわざそうしているとのこと。生きている竹を無理やり曲げるというその発想がすごい。

 
L: トイレで見かけた張り紙。うーん、やんごとなき世界。  R: 約250mにわたって続いている桂垣。

桂離宮前のバス停から亀岡駅方面行きのバスに乗る。すでに京都サンガのユニを着た乗客がちょこちょこいて、
気合いが入っているなあと感心するのであった。しかし僕は直接スタジアムに向かわず、もちろん寄り道をする。
古世口というバス停で下車すると、時刻はほぼ11時ということで近くのパスタ屋で昼飯をいただくのであった。
そうして栄養補給を済ませると、年谷川沿いに山の方へと歩いていく。20分ほどで鍬山神社に到着する。

  
L: 鍬山神社の大鳥居。手前がロータリー状になっておりちょっと独特。  C,R: 参道。モミジが売りであるようだ。

かつて亀岡盆地は湖だったそうで、出雲の神々が降臨して保津峡を開削し、水を山城国へ流したという。
(そういえば、亀岡市に鎮座している丹波国一宮は「出雲」大神宮だったわ。→2011.10.22014.11.8
そのときに使った鍬が山のように高く積みあがったことから、「鍬山」と呼ばれるようになったとのこと。
主祭神は出雲大神宮と同じ大己貴命(大国主命)。ただし鍬山神社は八幡宮も併設しており誉田別尊も祀っている。

  
L: 参道を進んで右を向くと境内入口。横参道となっている。  C: 拝殿。鍬山宮と八幡宮の共用となっている。
R: まずは 向かって右側(北)の八幡宮。1165(永万元)年に面降山に降臨して以来、祀られるようになったという。

  
L: 横から見た八幡宮。隣の鍬山宮と同じ1814(文化11)年に、まったく同じ様式で建てられている。両者は不仲らしいけど。
C: こちらは向かって左側(南)の鍬山宮。  R: 角度を変えて眺める鍬山宮。なお鍬山神社の創建は709(和銅2)年。

御守を頂戴すると、のんびり坂を下って市街地方面へ。ちょうど亀岡市役所と亀山城址の中間に出るが、
天気がいいし時間的な余裕もあるので、あらためて亀岡市役所を撮影することにした。亀山城址は面倒なのでスルー。
13年前の日記でも書いたが(→2011.10.3)、亀岡市役所は1990年に佐藤総合計画の設計により竣工している。

  
L: 亀岡市役所。平成オフィス建築でデカい。  C: 正面、北から見たところ。  R: 少し東に寄って北東から。

  
L: 東にまわり込んで眺める。  C: 南東から気合いでカメラの視野に収める。  R: 南から民家ごと見たところ。

  
L: 南西、国道9号から見たところ。  C: 敷地内に入る。手前は併設されている市民ホール。  R: 西から見た市民ホール。

  
L: 後で市役所1階から見た市民ホールとの間の中庭。  C: 敷地内にある承文字八幡宮。陰陽師・安倍安行ゆかりの社だと。
R: 西から見た亀岡市役所の側面。薄いねえ。右側の木々に包まれているところが承文字八幡宮。いわくありげですなあ。

  
L: 北西から。  C: 敷地内、車道の入口から見たところ。  R: 手前の歩道脇には池があり、カメの像があった。

  
L: 高層棟の手前から見た、北東側の低層棟。  C: 低層棟のエントランスを正面から。  R: 高層棟のエントランス。

休日だが1階に入ることができたのでお邪魔する。明かりがついていないので暗いが、ずいぶん広々としている。
北側にはアユモドキの水槽があった。アユモドキは日本の固有種で、国の天然記念物に指定されている絶滅危惧種(IA類)。
亀岡に新たな球技専用スタジアムが建設されることになったが(→2014.11.8)、アユモドキへの影響が懸念された結果、
建設予定地を変更することになった経緯がある。この件でアユモドキの知名度がかなり上がったように思う。
アユモドキはじっとしているやつはおとなしいが、泳ぐとかなり素早い。気合いでどうにか撮影するのであった。

  
L: 亀岡市役所の1階にて。  C: 奥の方(南東側)。広々としている。  R: さかなクン直筆のパネルがあった。

  
L: さかなクンによるアユモドキの解説イラスト。  C: アユモドキ。ドジョウ科で「亀岡市の魚」。  R: もう一丁。

ではいよいよ、サッカー観戦に向かうのだ。亀岡市役所から亀岡駅までは1kmほどと微妙に距離があって、
鍬山神社に参拝してきた僕としては絶対に歩きたくない。やってきたバスに乗り込んだら、なんと本日無料だった。

 亀山駅前からスタジアムまではお祭り騒ぎなのであった。

では恒例の、初訪問スタジアム一周だ。京都府立京都スタジアム(サンガスタジアム by KYOCERA)はウルトラ駅近で、
一周できる道がちゃんとあるのがありがたい。ただ、道がスタジアムに近すぎて全体を撮りづらいという贅沢な悩みも。

  
L: まずは北西から。  C: 北から見たところ。  R: 北東側。こちらの1階に京都サンガのグッズショップが入っている。

  
L: 同じく北東側。桂川(大堰川・保津川)方面からアプローチするとこのアングル。しかし桂川の呼び方の変化はややこしい。
C: 東面には「KYOTO」のモニュメント。  R: 東の駐車場脇から眺めたところ。全体をすっきり撮影できる箇所は少ない。

  
L: 南東側。  C: 山陰本線を背にして南から眺める。  R: 西面。こちら側がメインスタンドとなる。

スタジアムの中に入るが、きっちり縦長の八角形となっており、端正できれいだが対称すぎて違いが少々わかりづらい。
芝の養生を考えてか南のアウェイ側サイドスタンドの屋根がガラスにトラス構造体となっており、なかなかの迫力だ。
なお京都府立京都スタジアムはアユモドキの影響で建設予定地が変更されたこともあり、設計者の選定がややこしい。
Wikipediaによれば2014年に公募型プロポーザルで基本設計に日建設計を選定。その後、2016年に建設予定地が変更され、
公募型プロポーザルによって一部修正基本設計及び実施設計業務の設計者に東畑建築事務所を選定している。
その結果、スタジアムは楕円形から現状の八角形に変わり、スタンドは2層式が採用されたとのこと。

  
L: 北西側から中に入るとこの光景。  C: アウェイ側サイドスタンド(南)。  R: ホーム側サイドスタンド(北)。

  
L: ウォーミングアップで京都サンガの選手たちが登場。ホームのサポーターの前で円陣を組むのであった。
C: 今回はアウェイ寄りのメインスタンド、わりと前めの席で観戦。  R: 南西側の端っこからピッチを眺めてみた。

京都は現在15位。5月には最下位にもなったが、夏にラファエル エリアスを獲得したのが効いて急激に順位を上げてきた。
対する神戸は2位に浮上してディフェンディングチャンピオンらしい貫禄を見せている。新スタジアムが目的の観戦だが、
思いのほか熱いシチュエーションでの対戦となった。なお京都を率いているのは、地元出身の曺貴裁監督(4年目)。
かつて湘南スタイル(→2014.4.262014.11.15)を確立した曺監督が現在のJ1をどう戦っているのか、非常に楽しみだ。

  
L: ボールを持つラファエル エリアス。7月がJリーグデビューで、そこから9試合で9得点。京都にとっては救世主そのもの。
C: しかし先制したのは神戸。17分にFW大迫がシュートを決める。  R: やはりカウンターでのラファエル エリアスは脅威。

試合は序盤から神戸が優勢に出る。最前線に大迫がどっしりと構え、武藤や井手口を中心に選手たちが躍動。
京都は押し込まれるが、頼みのラファエル エリアスとマルコ トゥーリオのブラジル人FWコンビがカウンターで応酬する。
先制したのは勢いのあった神戸で、左からのクロスに大迫が滑り込んで決めた。武藤が押し込んだけど大迫の時点で得点。
その後も神戸は圧倒的に攻勢をかけ続け、京都は完全にブラジル人頼みのカウンター。湘南スタイルとはまるで正反対だ。
そして前半アディショナルタイム、初瀬のFKを佐々木がヘッドで合わせて神戸が追加点をあげる。さすがは2位のチーム。

 神戸の追加点。わかりづらい写真だな!

しかし後半開始直後の47分、京都はパスカットからすぐに前線に送り、ラファエル エリアスがシュートを決める。
早いタイミングでのミドルだったのでうまく写真が撮れなかった。これで10試合で10得点。ものすごい決定力だ。
勢いに乗った京都はさらに59分、相手のクリアミスを今度はマルコ トゥーリオがダイレクトで叩き込んだ。
これまた写真が撮れない見事なゴール。京都はブラジル人FWの活躍で試合を一気にふりだしに戻したのであった。
そうして京都が押し気味の展開で進んでいくが、神戸は前線にジェアン パトリッキを投入するとこれが大当たり。
83分、体に当たったボールを押し込んで神戸が勝ち越した。J1は個の力の要素が強い分、ブラジル人FWが有効なのかね。

  
L: 後半開始直後、いきなりラファエル エリアス(右端)がミドルシュートを決めた。とんでもない得点力を目の当たりにした。
C: さらに今度はマルコ トゥーリオがゴール。ブラジル人FW2人の圧倒的な力で京都が追いついたけど、うーんそれでいいのか。
R: 終盤になって神戸が再び押し込み、ジェアン パトリッキがゴール。ボールに焦点がいっちゃって、ブレていて申し訳ない。

さてブラジル人FWの理屈を超えた得点力も凄かったが、やはり印象的だったのは大迫の強さである。なんで倒れないのか。
大迫のポストプレーは神戸にとって最も重要な要素だ。どんなに寄せられても平然としており、確実に味方にボールが出る。
もちろん得点もしっかり奪える(昨シーズンは22得点で得点王)。しかもこの試合、フル出場で脅威を与え続けていたし。
形容詞(「半端ない」)を自分固有のものにできる男(→2018.6.19)の凄みをこの目で見ることができて、感動である。

  
L: というわけで大迫特集なのだ。  C: ボールを蹴り込む大迫。  R: 競り合う大迫。どんなに寄せられてもびくともしない。

終わってみれば、試合は神戸が順当に京都をいなした感じ。神戸は強くて先を読む守備で優位に立ち、納得の勝利である。
しかし京都は完全にブラジル人FW頼みで、躍動感に満ちあふれるスタイルを確立した監督のサッカーとはとても思えない。
もちろん理想と現実の間には大きな溝が横たわっているわけだが、それにしてもここまで対照的な内容とは驚きである。
それだけ今のJ1は厳しい環境ということなのだろう。長野も松本もJ3で沼っている場合じゃないぜ。上を見れ、上を。


2024.10.5 (Sat.)

次の月曜日から2年生は3泊4日の修学旅行である。今年も担当からはずれ、補欠(→2023.10.2)でもなく、自由の身。
つまり、月曜から授業のない日が3日も続くというわけだ(地理総合は2年生の科目であるため)。絶好の旅行チャンス!
平日に合法的に旅行ができるということで、今回僕が選択したのは「レンタサイクルで京都の寺社めぐり」である。
しかし今週末には長野で信州ダービーが開催される。そういえば亀岡に京都サンガの新スタジアムができた。
これで旅程が一気に固まった。土曜日は信州ダービー、日曜日に京都サンガ、月火でレンタサイクルなのだ!

天気が良ければまず屋代に行き、森将軍塚古墳から篠ノ井の景色(→2022.5.15)をリヴェンジするつもりだった。
しかし「どうにか降らないでくれる」という感じの曇天が予想されたので、新幹線ではなく朝イチのバスで長野駅へ。
上信越自動車道を通るのは久しぶりな気がする。大学院の研究室の合宿で妙義山にたまげた記憶が蘇る(→2002.2.28)。
せっかくなのであらためてスマホで撮影してみたが、その独特な稜線にはどうしても目が釘付けになってしまう。
山岳信仰の対象になるのも当然だろう(→2017.9.9)。高速道路から手軽に奇観を味わえるのはありがたい。

 バスの車窓から眺める妙義山。見るたび不思議な気分になる。

長野駅には10時半ごろに着いて、そのまま次のバスに乗り込むつもりだったのだが、長野ICから出ると道路が激混み。
おかげで予定のバスに乗り損ねた。それでも時間的な余裕はあるので別のバスに乗る。が、観光客が際限なく乗り込んで、
おまけに善光寺に向かう道も混んでいて、日本人外国人問わず料金の支払いに手間取って、これも大幅に遅れる始末。
終点近くのバス停で降りたときには乗客は僕一人だったのだが、観光と生活のバランスについて考えさせられた。
そしてここから1.5kmほど歩く。当初の予定どおりの便ならその必要がなかったのだが、まあしょうがない。

そうまでしてやってきたのは、ラーメン大学(→2010.3.16)の若槻店である。長野市内には郊外にしか店舗がないのだ。
飯田にいるときに羽場坂で食っときゃよかったのだが、この歳でわざわざ親に連れてって!って頼むのもねえ……。
過去ログを調べてみたら、11年前が直近のラーメン大学であるようだ(→2013.3.27)。今回はせっかくの長野県なので、
「長野県民のソウルフードであるラーメン大学の味噌ラーメン」をあらためてきちんと食べることにしたわけだ。
マツシマ家としてはふつうの「味噌ラーメン」が標準だったが、世間的には「こて味噌ラーメン」が人気である模様。
昔はそんなもんなかったので、今回はわざわざ「こて味噌ラーメン」を食ってやろうというわけなのだ。

  
L: ラーメン大学 若槻店。  C: マスコットキャラクター「大ちゃん」の人形。  R: こて味噌ラーメン大盛。

人生初の「こて味噌ラーメン」をいざ実食。まず最初にスープをすするが、味噌よりも風味のある油の香りがした。
これがちょっと違和感。そして全体的に脂分が強い。キツくはないが、スープにはしっかりと背脂が浮いている。
確かに味噌の旨みを味わえなくはないが、個人的にはつねに脂分が入ってくるのが残念なところである。好みの問題だが。
11年前には麺が替わったことが非常に印象的だったが、時間が経ってなじんでくると違和感は減ったように思う。
というわけで、個人的には「こて味噌ラーメン」は、脂がおいしいだけの情報食ってる人向けではないかと感じる。
現在のふつうの「味噌ラーメン」がどれだけ昔の雰囲気を残しているのか気になるところ。いずれ羽場坂で食おうっと。
なおラー大からの帰りのバスは、すぐ近くのバス停から乗ることができたので変に歩かされることはなかったものの、
やっぱり渋滞がひどかった。長野市は幹線道路の混雑ぶりがちょっと異常だと思う。あの市長は仕事してるのかね?

長野駅に戻ってくると、さっさと反対側の東口から出ているシャトルバスに乗り込んでしまう。
せっかく長野に来ていて善光寺をスルーするのは申し訳ない気分になるが、大混雑に巻き込まれるのは御免なのだ。
そうしてキックオフの3時間ほど前にスタジアムに到着する。恒例となっている公園内の行列にくっついていくが、
今回はわりとスムーズに進んでいった感じ。でもそれは運営が改善したというよりは、人が減ったことに起因する感触。

  
L: 入場手続きを済ませていったんスタジアムの外に出る。今年は雨ではないのでみんな余裕を持って過ごしている。
C: 今回はメインスタンドの自由席を確保。行列が本当に面倒くさいので、指定席のエリアをぜひ拡大してほしいのだが。
R: ディスプレイの表示。「信州ダービー」の文字がない。グッズもなかったし、盛り上げる意欲をまるで感じない。

今回はメインスタンドの自由席を確保できた。当然、行列に並ばなくて済む指定席がよかったに決まっているが、
サポーター会員の先行販売でほぼ売り切れてしまう。信州ダービーで値段を上げるのなら、指定席を増やすべきだろう。
現状のだらしない成績だけでなく、そういうところも含めて長野パルセイロの運営ぶりには疑問を感じざるをえない。
信州ダービーを盛り上げるグッズもないし、それ以外でも買いたくなるようなグッズもないし、やる気あんのかね?

  
L: 選手入場時の長野サポ。  C: 松本サポ。今年はこれまで1敗1分けなので(→2024.6.29)、けっこう気合いが入っている。
R: メインスタンドのアウェイ寄りの席だったので、恒例となっている山雅の試合前円陣が目の前で展開されたのであった。

スタジアムMCの若干自虐気味のトークがあったくらいで、それほどダービーの特別感はないまま試合が始まる。
両チームの選手と松本サポは確かに熱量を感じさせたが、それ以上にJ3という舞台での対戦への「慣れ」が強い感触。
松本の守備は非常にコンパクトで、とにかく裏に放り込みたくなくてつなぎたい長野としては、なかなか突破が難しい。
どうしても途中で引っかかる。長野は相変わらずの一つ覚えだなあと呆れるばかり。戦術に幅がまるでない。
松本が長野対策のコンセプトを明確に持って戦っているのに対し、長野はその場しのぎでのプレーである。
また、松本が先にルーズボールに触るのを見てから、長野は対応を決める感じ。競らないから自然と後手にまわる。
やはり選手の質は松本の方が少し上だなあと思いつつ観戦する(なお順位は松本が7位、長野は16位という体たらく)。

  
L,C,R: ピッチに近い席にしたので臨場感は抜群だった。ただ、逆サイドや反対側のゴールはやや見づらい。しょうがないけど。

ところが先制したのは長野だった。18分に左サイドから攻め込んで杉井がシュート。これがディフェンスに当たるが、
撥ね返ったボールにゴール前の近藤が反応して合わせた。早い時間の先制点にスタジアムは大いに沸いたのも束の間、
その1分後に今度は松本が左サイドからのクロスを放ち、相手FWを抑えていた長野の選手に当たってオウンゴール。

  
L: ゴール……ではなく、その前の杉井のシュートを常田がブロックした瞬間。この直後、真ん中にいる近藤が決めて長野が先制。
C: あっという間にオウンゴールで松本が追いついた。実にもったいない。まあすぐにチャンスをつくった松本を褒めるべきか。
R: 松本のFW安藤(左)がゴールに背を向けて胸トラップからのボレー。しかしGK松原がファインセーヴ。どっちもすごすぎ。

両チームともあっさりと点を奪ってしまったせいか、その後のプレーは単体では見応えのあるシーンもあったものの、
ゴールという結果に繋がらなかったことで価値を下げてしまった印象。振り返ってみるとファインプレーはあったのだが。
特に終盤は松本の守備がオープンになったこともあって、長野はなかなか躍動感のある攻撃を見せていた。
浮田のポストを叩いたシュートも黒石のシュートも惜しかった。松本の浅川のヘディングシュートも惜しかった。
GKがよく守ったのも確かである。しかしシュートが決まらないと「思いどおりにならないこと」が印象に残る。
それで記憶が編集されて、チャンスをつくるまでにやらかしたミスが目立ってしまい、ファインプレーが霞んでしまうのだ。
振り返るとこの試合は決して凡戦ではなかったが、それは選手たちの身体能力による最後の攻防が素晴らしかったわけで、
決定機をつくるまでの戦術に関しては特筆すべきものはなかった。その部分での魅力は明らかに欠けていたと思う。
また、あくまで「身体能力」であって、上位カテゴリーで通用するレヴェルの「予測」はほとんど見られなかった。
つまりは条件反射で動いているだけ。考えてサッカーをすることがまったくできていない(松本の方が若干マシではある)。
最後に勤務した中学校のサッカー部で、目の前に来たボールに反応するだけだった惨状を思いだした(→2020.8.20)。

  
L: 後半、松本の村越がクロスを上げたシーン。いいボールが入っているのだが、長野が意地を見せて防ぐ。
C: マッチアップの図。  R: 浅川のヘディングシュートを松原がキャッチ。これもさすがプロという攻防だった。

  
L: 加藤弘堅(→2022.9.7)のFK。今は長野でがんばっているのだ。  C: 長野は最後までゴールに迫るが得点できず。
R: 試合終了。プロサッカー選手らしい身体能力は堪能できたが、プロサッカーチームらしい戦術は味わえなかった。

松本は一定レヴェルのパフォーマンスができる選手たちがそれを最後までやりきった印象。しかし勝つには至らなかった。
プレーオフ進出を狙う位置につけているチームにしては冷めていた。理屈ではない何か、迫力、それを感じられなかった。
一方、長野は自分でドリブルを仕掛けず他人任せのパスに終始。そのパスも「味方が拾ってくれたらいいな」という、
精度のないアバウトさが目につく。だからいつもどこかで引っかかって終わるのである。まるで改善が見られない。
長野は育成型の監督じゃないと強くならないだろう。上のカテゴリーでも通用する教育をイチから施さないとダメだ。
なお観客は11,965人。信州ダービーとしては屈辱的な少なさと認識すべきだ。長野はすべてにおいて努力が足りない。

長野駅のナカジマ会館で蕎麦をすすってスタバで日記。閉店時刻になって高速バスのバス停へと移動する。
そう、夜行バスで京都へと向かうのである。しかしなぜか乗客は中国人男性がやたらと目立っていたのであった。
マジでこの国おかしいわ。


2024.10.4 (Fri.)

『義妹生活』のアニメについて、感想を書いておきましょうか。

義理の妹。なんと羨ましい響きだろうか。個人的には90年代エロゲーで育ったこともあって、実に羨ましい。
僕は『同級生2』では穏健な可憐派なのだが、そうは言っても唯だって好きだ。さすがにヒロインの筆頭格ということで、
攻略がかなり面倒くさかったのでそんなにクリア回数は多くなかったが、シチュエーション的にはそらたまらんですたい。
なんだかキーを打っているうちに久々に唯を攻略したくなってきた。中間テストづくりが終わったらやろうっと。
……だいぶ話が逸れたが、設定としては昔のエロゲーみたいで好物なのである。まあ男ってバカな生き物ですので。

結論から言うと、アニメとしての演出でだいぶがんばった作品だと思う。ストーリーははっきり言ってかなり稚拙。
究極的には「親の再婚でいきなり義理の妹(兄)ができてお互い好きになっちゃう」、それだけ。まあそれはまだいい。
問題は高額バイトで(体を)売るの売らんのという安直すぎるやりとりで、イージーな興味を惹くのが絶望的にヘタクソ。
見た目ギャル系だからってそこに持っていくと、ヒロインが果てしなく頭が悪く見えてしまう弊害の方が圧倒的に大きい。
ここをどうにか乗り越えても、他者が安易な噛ませ犬になってしまっているのがまたしょうもないところである。
セリフは心情を吐露するモノローグばかりで空回り気味。それを特に男の側が上手く解釈してあげる、その繰り返し。
たぶんこれをきちんと対話でやろうとすると、キャラクターをコントロールできなくなりボロが出てしまうのだろう。
つまりは原作者が力量不足だから、モノローグの徐行運転で無難に話を進めていくことしかできないのである。
そこをヒロインは現国が苦手という設定でごまかしているのは興味深い。ウルトラCだが、論理的には確かに成り立つ。
全体的に話の進みは遅いのだが、そこには兄妹としての葛藤があるので妥当である。また、対話だと加速度がつくが、
モノローグとそれを解釈する時間を設定することでブレーキをかけている。ストーリーのスピードをあえて上げず、
もどかしい気持ちの表現に全振りするのは新鮮だった。稚拙さの残る原作を上手く脚色して仕上げたというわけだ。

現実感を持たせると話はかなり直接的になるし、結論を急いでしまう。そこで独特の雰囲気により話を中和している。
まず情景描写を丁寧にすることで「間」を持たせている。またその質感を淡くすることで、かえって閉塞感が出てくる。
まるで一度死んだ後みたいな、うっすらとした霧の向こうに現実があるような雰囲気。これはむしろ不穏さの演出となり、
兄妹という息詰まる危うさを強調することにもなっている。なんでこんな心中しそうな雰囲気なの、と思うくらいだ。
登場人物は主観のセリフばかりで、それを三人称で一方的に提示するので、われわれは客観的なバランスを判断できない。
でもそれが徹底されちゃっているので、ただ受け容れるしかないのである。だからふたりに感情移入することはできず、
ただ見守ることしかできない。でもそれはそれで、閉塞感の中で葛藤する兄妹を強調する効果を発揮してはいるのだ。
話が特別に面白いわけではないところを、あえて10代ならではの雰囲気や空気感を味わうアニメという形にするのは、
実はラブコメとしては的確な戦略なのかもしれない。それでしっかりと独自性を確立している点は評価すべきだろう。
正直なところ、青春時代がすっかり遠くなってしまったおっさんには、どこか妙にクセになる質感なのであった。
ストーリーは互いの気持ちを認め合うまでなのでキリがいいが、もう少し後日談が欲しいところではある。
とはいえそれはただふたりの絆が試される展開が続くだけとなるだろうから、蛇足であるのもまた確かか。

ヒロインは髪が長い方がかわいかったなあ。ポニテでバイトは最高よ。髪を短くしたらなんだか籾岡で残念。


2024.10.3 (Thu.)

わがヤクルトスワローズは昨日の青木に続いて山崎も引退である。

青木のレジェンドぶりについては書くまでもないが、いちばんのポイントはメジャーから帰ってきてからの姿勢。
ヤクルトは伝統的に「打撃のチーム」とみられているが(中西理論が浸透していると言われる →2023.5.18)、
その伝統をしっかり後輩選手につなぐ役割を果たしてくれたことが何よりありがたい。村上の涙につられてしまった。
あらためてヤクルトファンでよかったと思わせてくれた選手である。今後の活躍を大いに期待しております。

山崎は優勝のときのパフォーマンスが思いだされる(→2022.9.25、相手の長岡も最多安打だもんなすげえよ)。
昨日の青木の引退試合では選手全員が背番号「23」をつけたのだが、山崎の場合は練習着にガムテープで「31」。
その落差がまたヤクルトのアットホームさを示していて微笑ましいのだが、村上はそこにメッセージを書いていたと。
実はこれ、めちゃくちゃかっこよくないか? わざわざ手書きのメッセージを残そうという、その精神が美しいのだ。
ぜひとも良き伝統として続けていってほしいものである。マルチヒットで有終の美を飾った山崎もかっこよかったぜ。


2024.10.2 (Wed.)

今シーズンも旅行などの写真を加工しながらアニメを見ていたのだが、中身のあるものは本当に少ない。
日本のアニメは世界で人気のコンテンツという扱いを受けているものの、実際のところ打率はかなり低めである。
そんな見るべき価値のないものについて滔々と酷評していっても何も面白くないので、レヴューは書かないでおく。
だいたいが「気持ち悪い」の一言に尽きてしまうのでな。ロシデレもマケインもただただ気持ち悪いだけだった。
それでも1個くらいは「気持ち悪い」以外の感想を残しておくか、ということで、『しかのこのこのここしたんたん』。

原作マンガは未読だが、出てくるギャグがひとつ残らず完全にスベっていて驚いた。のび太でさえ打率1分だぜ?
オープニングが(広告代理店の力で)話題になったそうだが、なるほど確かに最初の最初だけはかわいい。
でも本当にそれだけ。延々とスベり続けて最後にせんとくんを巻き込むという醜態を晒して終わったのであった。
いちおう理論的なことを書いておくと、ボケとツッコミが固定されて同じペースでつまらんボケをかまし続けるので、
何ひとつ盛り上がることがないのである。緊張もなければ緩和もない。よくこれだけスベれるなあ、と呆れ果てた。


2024.10.1 (Tue.)

眞藤雅興『ルリドラゴン』。休載からの復活でえれぇ反応があったので、既刊2巻だけだが読んでみた。

まず第一に、alien(人間性を持つ他者)を受け容れる思考実験である、ということ。
それについて最も極端な例を選んでいる。しかし実際にはわれわれも微細なレヴェルで日々ギャップに直面しており、
そのたびに微調整して他者を受容している。そういう水面下のもがきによって、日常生活が連綿と続いている。
このマンガはドラゴンというきわめて特殊な事例を持ち出すことでギャップを強調しているものの、
実のところ描かれているのは一般的な人間関係の問題である。ドラマに仕立てるバランス感覚が実に巧みだ。

ジャンプに連載されて「人間とドラゴンのハーフ」という設定であれば、定番のバトルマンガになりそうだ。
しかし主人公は女子で、日常の人間関係を物語の主軸とするのは明らかに本来、少女マンガの得意とするところだ。
そんなマンガをあの週刊少年ジャンプが連載したところに、老舗の凄みを感じる。でも冷静に考えてみると、
表面的には女子高生のマンガだが実際のところ性別は関係なく、人間が抱える本質的な悩みを描いている。
つまり、扱っているのは普遍的なテーマなのだ。最も極端で特殊な事例から帰納される、人間性のあり方。
それはそれでやはり、老舗の凄みを感じるところだ。読んでいる間、ジャンプすげえな、と何度も呟いていた。

ところが2巻に入って前田赤里とぶつかると、いや違うこれバトルマンガだ、と認識を改めさせられた。
格闘ではなく、人間関係を認め合うためのバトル。それは成長のための摩擦(→2009.2.19)そのものである。
(摩擦と成長について、理想的な例(→2015.11.5)と悪い例(→2005.8.182023.12.132024.6.27)を挙げておく。)
それで初めてこの作品をジャンプで連載した意味がわかった。つまりは日常における友情・努力・勝利なのだわコレ。
『DRAGON BALL』の世界的な大ヒットの代償は大きく、力を求める少年マンガの退化は著しかった(→2024.3.8)。
一方で少女マンガあるいは女性漫画家は少年マンガの外堀を埋めていき、マンガ全体の知的水準を引き上げていった。
しかしここに来て、少女マンガに負けない問題意識で少年マンガの水準を大きく引き上げるマンガが登場したのだ。
どんな道徳の教科書よりも破壊力のある少年マンガ。ドラゴンハーフの女の子に仮託された性別に関係のない一般性は、
少年マンガの文法の可能性をさらに広げている(これも「女の子だって暴れたい!」が開いた世界なのか? →2023.2.4)。

それにしても担任の先生がテキトーに見せて切れ者でオレにそっくり(当社比)。はい言論の自由ぅー


diary 2024.9.

diary 2024

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