23区めぐりで訪れた美術館についてレヴューをしっかり書いていくのだ。今日は、東京都現代美術館(→2021.7.24)。
いわゆる現美。美術の面白さを教えてくれた美術館なので(→2021.5.7)、僕にとって現美とは特別な存在なのである。
改修工事で2016年から休館していたが、2019年にようやく復活。ずいぶん久しぶりなので、ワクワクしつつ中へ。コロナの関係もあって事前に予約して指定時刻に入館する形。江東区めぐりを済ませた16時に突撃したのである。
企画展が2つあり、「GENKYO 横尾忠則」展と「MOTアニュアル2021 海、リビングルーム、頭蓋骨」展。
両方合わせて2900円ですよ。呆れるほど高い。まあ改修完了のご祝儀ということで我慢して支払いますが。まずは横尾忠則から。かなりの人気っぷりである。横尾忠則というと状況劇場の『腰巻お仙』ポスターが有名で、
あとは細野晴臣と仲がよかったせいでYMOのメンバーになりかけたとかなんとか。残念ながら僕の認識はその程度。
さて、いざ大量に彼の作品を見せられると、「YMOに入らなくてよかったぁー!」と心の底から思うよりない。
自分の頭の中を覗き込んでアウトプットできる能力は素直にすごいと思うが、そればっかりの人生もキツいですな。
僕にとっては時代も場所も他人事ですので、深層意識をひたすら提示されても「はぁ、さいですか」でおしまい。
今回は特にGENKYO=現況ということで、最近の作品が多いみたい。でもやはり他人向けに描いた過去の作品が魅力的。
基本的に横尾忠則はクライアントの要求がきちんと理解できる人なので、その要求にプラスアルファする作品はいい。
でも自分のやりたい放題を炸裂されても、こっちとしては受け止めきれずにすれ違って終わり、になってしまうかなあ。
いちばん衝撃的だったのは西脇(学生)時代のポスターで、これはもう完成されてしまっている。「売れる」レヴェル。
まあ本人はデザイナーで収まりたくなくて画家になったんだろうけど、デザイナーの才能の方が明らかに上だよね。
あとは一時期、滝に魅了されていたようで、あらゆる滝の写真を壁一面に並べて鏡で増幅して滝状にしたやつはお見事。MOTアニュアル2021は、3人のクリエイターによるそれぞれの映像。海の人、リビングルームの人、頭蓋骨の人。
悪いんだけど、映像ってのは退屈極まりないから大嫌いである。こっちの時間と身体を拘束するだけの価値があるの?
見せたい人には、あらかじめ見た原体験がある。しかし受け手のわれわれにはない。その不均衡を意識することなく、
自分の見せたいものを自分にしかわからない切り取り方で提示したところで、共感が得られるはずがない。簡単なことだ。
3人とも、そこんところがまったくわかっていないのでどうしょうもない。映像には映像の文法があるのにね。最後に常設展。これが無残としか言いようのないものだった。改修工事前には戦前から日本の美術を振り返り、
近代美術から現代美術への変遷をわかりやすく提示する優れた内容だったのに、すべてが排除されてしまった。
その代わりに出てきたのは、現代のくだらない作家による自己顕示欲ばっかりのエクスキューズ。見るに堪えない。
福島第一原発で指を差すのとマクドナルドの紙袋で木をつくっているやつはよかったけど、あとはほぼ全滅。
写真も結局、それ正面からハイレッド・センターをやればいいじゃねえかって話で。意味がわからねえよ。
以前の展示と変わらず残っているのが最後の宮島達男だけって、そんなもん、現美じゃなくても見られるだろ。というわけで、企画展にしろ常設展にしろ、以前と比べて恐ろしく劣化してしまった。ショップも大劣化していた。
FREITAGも財布とMIAMI VICEしかないとか、そんなんだったら置かないでくれ。すべてにおいてがっくりだよ。
いや、実は僕のセンスの方が大劣化していて今の流行についていけてない可能性は、もちろん理解している。
でも若手の発表会なんて現美でなくてもいくらでもできるんだよ。どっしり構えてくれよ、東京の美術館なんだから。
日本そして世界の現代美術運動の記憶を伝えてほしい。日本を代表する、現代美術の殿堂であってほしいのだ。
そういう公共セクションにしか担えない正統性を完全に捨ててしまった感覚は、絶対におかしい。誇りを感じない。
(過去ログを読み返していたら、9年前にはすでに劣化していた模様。でも明らかにそれより悪化していた。→2012.9.1)マサルあたりは「マツシマくんはよくそこまで言えるね」なんて呆れ顔になりそうだけど、言えるよ、オレは。
オレの中の「古典たりえるもの」を愛するバランス感覚を基準にすれば、今の現美は褒めるところがひとつもない、
過去への敬意を完全に欠いた凶悪なエクスキューズ製造機である。現在進行中の偽物たちのエクスキューズ。
たとえば展示を見た子どもが、何か自分も真似して、そして超えてみたいと思わせるような作品がひとつでもあるか?
来館者を刺激するのではなく、言い訳だけが踊る空間。美術を腐らせる雑菌の巣窟だわ、こんなもん。歯垢だ、歯垢。
23区めぐりで訪れた美術館についてレヴューをしっかり書いていくのだ。まずは、すみだ北斎美術館なのだ。
葛飾北斎は人生のほとんどを墨田区内で過ごしたとされることから、墨田区が気合いを入れてつくった美術館である。
2016年のオープンで、設計は妹島和世。外観・内部については墨田区探訪のログを参照してくれ(→2021.7.23)。3階が企画展。『THE北斎 ―冨嶽三十六景と幻の絵巻―』ということで、メインとなっているのは『富嶽三十六景』。
正直、僕は「北斎は肉筆だろ!」と思っていて、他者が関与する木版画には興味がなかった(→2010.9.24)。
しかしさすが北斎先生、いざ複数の作品を見せつけられると、どの絵もことごとく構図がもう、異様なのである。
富士山を背景に、全国各地の景色や人々の姿を描いていて、物語性が実に濃厚。ただの絵でなく、物語が見えるのだ。
富士山を描くのではなく、富士山の目を通して見た人々を描く。物言わぬ富士山だが、どっしり構えてどこか優しい。
「天知る、地知る、我知る、人知る」というが、富士山は時に主役になりつつもどっしりと人々を見つめており、
またわれわれも富士山と向かい合うようにして彼らの一挙手一投足を見つめるのだ。多様な物語が本当に興味深い。
「お天道様が見ている」、その視点を富士山が果たしているのである。それは日本人の恥の意識にも通じるものだ。
これを最高に考え抜いた構図で描ききっているのだからたまらない。刷りのレヴェルも高く、思わず見入ってしまう。
木版画として線の取捨選択も極限までなされている。また『諸国瀧廻り』も、水の表現がどれも絶品である。
キュビズムも真っ青の視点の編集まで出てきて、もはや笑うしかない。画家としてすべてをやり尽くしたんじゃないか。
今回の展示で最もショックだったのは稲光の描き方で、ガラスの画面にヒビが入ったような線を大胆に入れている。
これを、江戸時代に、やる!? 窓ガラスがない時代に、割れたガラスから、その発想を出すの!? いやはや、恐ろしい。4階はAURORAという名前の常設展。ピーター=モースのコレクションを中心に、年代別に展示していてわかりやすい。
これも驚いたのだが、若いうちの作品はそんなに魅力的でなく、50歳を過ぎてから何をやってもキレッキレになる感じ。
最後が死の3ヶ月前に描かれた『富士越龍図』だったんだけど、もはや言葉がございません。北斎は人間なのか?
そう言いたくなる。彼の最後の号は「画狂老人卍」で、やはり人間、狂うところまでいかなければ道を極められないのか。
何に対しても狂うことができない、そこそこで撤退してしまう自分には、近寄ることすら到底できない領域である。そんなわけで、大いに満足できる内容だった。さすがに北斎のレヴェルになると常設展の充実は経済的に厳しい。
しかし企画展の内容が本当に素晴らしく、このクオリティを維持できるのであれば定期的に通う価値は十分ありそう。
洋楽をきちんと聴かなくちゃいかん、という意識はあるが、具体的にどこから攻めればいいのか悩んでおります。
とりあえず、『ブルース・ブラザーズ』(→2014.2.4)の冒頭を完全に支配したジェームズ=ブラウンのベスト盤を聴く。ジェームズ=ブラウンといえばファンクである。結局これ、超ハイテクニックなバックトラックによるループやんけ。
トランスやらハウスやらのいちばんの源流を探っていくとファンクが出てくると思う。そのように私は理解した。
現在なら打ち込みでやるところをまったくブレない生演奏でやりきる。基礎が完成されているからこそできる音楽だ。
聴いているだけでリズム感が磨かれるけど、あらためて聴く『Sex Machine』はその中でも最高の作品ではないか。世の中には聴かなくちゃいけない音楽がまだまだたくさんある。教養としての音楽の知識が足りなくて恥ずかしいわ。
夏休み前の最終日はスルッと終わりましたなー。テスト返却と毎度おなじみ授業準備であっという間に終わった。
中学校なら夏休み前ということでいろいろ注意事項を伝えるのだが、それがほぼゼロとなる本当にあっさり。◇
さて、世界規模の大運動会も始まり、4連休もあって、新型コロナの感染者数がかなり増加しているようだ。
恐怖感を煽るなとか重症者数が重要だとか、さまざまな考えがあるのはもちろん自由である。思想・良心の自由。
しかし、現場に立っている医療従事者の目を見て言えることかどうか。そこはつねに意識すべきではないか。
今まさにあちこちで現場に立っている医療従事者たちの言葉、それが真実にいちばん近いと僕は思う。
対新型コロナ医療の拡充はもちろん必要だが、そんな簡単にすぐできるというものでもないだろう。
それならば、今まさに治療にあたっている人たちに迷惑をかけないことを基準に行動すべきだ。僕はそうありたい。
ズッコケ三人組シリーズの那須正幹が亡くなった。いやあ、たいへんお世話になりました。
第1作の刊行が1978年で、僕が小学校高学年になったときにはいい感じにヴォリュームが揃っており、むさぼり読んだ。
『うわさのズッコケ株式会社』のラーメンには興奮したものよ。定期的に読んではヨダレを垂らしておったことよ。
フィクションがかなり大胆で、タイムトラベルやら土ぐも一族やら、想像力を大いに刺激されたものである。
その一方で小学生の日常生活や行事なんかもきっちり扱っていて、どこかにいる同級生の話としても読めた。
そんな日常も非日常も受け入れてしまう、なんでもありなところがズッコケ三人組の魅力だったのかもしれない。
小学生にとっては大人の世界もフィクションと大差ない非日常である。三人組とともに楽しく冒険させてもらった。
いま読み直したらどんな感覚になるんだろう。30年前に戻れるんだろうか。いずれ読み直してみたい。
4連休の最終日もしっかりいい天気である。挑戦中の23区めぐり、4連発してもよかったのだが、本日はお休みとする。
順番からいけば品川区だが、原美術館が取り壊されてしまっているのと旧荏原区役所の場所が確定できないのとで、
品川区へ行くエネルギーがイマイチ出ないのである。お賽銭の五円玉も底をつきかけているし。準備不足な感じ。
天気がいいからと無理に強行したところで、雑な品川区めぐりになってしまいそうな予感がどうしても漂うのだ。
それなら来週のうちにエネルギーを充填して、また天気のよい日を狙うのだ。朝のうちは日記を書いて過ごす。11時近くになって、いったん家に戻ると自転車にまたがる。品川区めぐりは延期だが、せっかくのいい天気である。
こっちに引っ越してからずーっと「いつか行かなきゃ!」「行くんなら夏の暑い日だな!」と思っていた場所を目指す。
わりと近所なのでいつでも行けると思い続けて約20年。ようやく訪れることができましたよ、等々力渓谷。
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L: ゴルフ橋からのスタートである。かつて等々力駅と東急グループのゴルフ場を結んでいたのでこの名前なのだ。
C: くぐったところで見上げる。緑の中の赤がいいね。 R: というわけで、いざ等々力渓谷散歩スタートなのだ。連休最終日の暑い盛りということで、家族連れを中心にけっこう人が多い。軽く散歩するにはいい場所だもんなあ。
等々力渓谷は東京23区で唯一、東京都の名勝に指定されている渓谷とのこと。確かに他の区で渓谷って聞かない。
実際に訪れてみると中心となる谷沢川はやや濁り気味で、脇の道もしっかり整備されていて、なるほど23区って感じだ。
長野県で育ち、全国各地の景勝に揉まれた私としては、ちょっと期待しすぎたかなあというのが正直なところである。
等々力渓谷は武蔵野台地の南端にあり、多摩川の河岸段丘である国分寺崖線の一部となる。元国立市民の僕としては、
あそこ(旭通りの先、国分寺市との市境)からはるばるここまで、という気持ちになってしまうではないか。懐かしい。
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L: ちょっと進んで振り返るとゴルフ橋がわずかに見える。 C: 深さがあるところでは、水はやや白濁している感じ。
R: 環八(都道311号)の下をくぐる。渓谷の両側はなかなかの急斜面で、宅地開発から取り残された場所なのがよくわかる。等々力渓谷を歩いてみると、両側は確かに宅地とするには厳しい急斜面となっており、それでたまたま残った、
そういう場所であることが実感できる。下流へと進んでいくと谷沢川の流路はまっすぐに、底は平らに整備され、
水遊びができるようになっている。底が浅いせいか濁りはあまり目立たず、下流の方がきれいな印象なのが不思議だ。
国分寺崖線といったらハケの湧水が有名で、実際に斜面から水が浸み出している箇所もあった。それらが集まって、
谷沢川の水を浄化しているのかもしれない。ちょうど裸足にクロックスだったので、僕も谷沢川に足を踏み入れる。
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L: 僕も谷沢川の中に入ってみた。 C: 川から眺める上流。 R: 橋の上から見る上流。この木々もまた武蔵野の自然だ。せっかくなので等々力渓谷の終わりまで行ってやろう、と歩いていくと、右岸の日本庭園の隣が住宅。ここまでか。
Googleマップで確認してみたら、ゴルフ橋から600mほど。木々の中を往復1kmほどなら、実にいい感じの散歩である。
さて、こうなったらとことん味ってやるのだ。日本庭園にお邪魔してみる。急斜面をそのまま利用しており、
中はかなりの高低差。竹林が庭園らしくがんばっているものの、それ以外はほぼ自然に還りかけている印象だった。
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L: 等々力渓谷の終端部。 C: そのまま右を向くと日本庭園の入口。 R: 中はこんな感じ。武蔵野の自然が暴れ気味。
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L: 竹林が日本庭園らしさをがんばって演出するが、まあここくらい。 C: 竹林から離れると自然の方が圧倒的優位に。
R: 元が急斜面なのでキツい中、意地で池をつくっている。しかし雑草の勢いが強すぎるのが本当にもったいない。
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L: てっぺんまで上ると書院。急斜面の庭園が大変なのはわかるが、もうちょっと上手く設計できなかったものか。
R: 書院の脇は芝生広場となっている。付近の住宅地とあわせて考えると、等々力渓谷の特殊性が実感できる。久々に台地上に出たが、石段を下りて渓谷へと戻る。等々力渓谷の周囲との高低差は約10mとのことだが、
川の近くへと戻ってくると地上とはまるで別世界の湿り気である。垂直移動でこんなに雰囲気が変わるのかと驚く。
帰りは渓谷の脇にある施設などをきっちり押さえて戻ることにした。売店はなかなかの繁盛ぶりなのであった。
僕はあらかじめサイダーを買っておいたが、こういうところで飲むラムネは旨いよね。
売店の手前には不動の滝。滝行ができるようになっているが、よく見るとその上には不動明王の像が置いてある。
脇には稲荷と不動明王の祠がそれぞれあったので、いちおう参拝。渓谷の湿り気と稲荷の雰囲気がマッチしている。
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L: 不動の滝。ここに打たれに来る人もいるんだろうなあ。 C: 滝の左手にある祠。 R: クローズアップしてみた。ここから谷沢川を離れて石段を上っていくと、等々力不動尊の境内に出る。こちらは等々力駅の北にある満願寺の別院。
本堂は江戸時代末期の築とのことで、なかなかの風格である。御守を頂戴したが、この4連休でだいぶ増えたなあ……。
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L: いったん境内から出て等々力不動尊の山門を撮影。 C: 境内を進む。 R: 本堂。渓谷からだと本堂の脇に出る。環八の南側、左岸には、古墳時代末期から奈良時代にかけての横穴墓がある。3号横穴ははっきりわかるものの、
1号と2号は完全に藪の中。よく発見したものだと呆れるレヴェルだ。7世紀の等々力渓谷も今みたいな感じだったのか。
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L: 等々力渓谷3号横穴。野毛地域の有力農民の墓とみられるそうだ。 R: 1号横穴(左)と2号横穴(右)。わからん!20年近く懸案事項だった等々力渓谷探訪ができてよかったよかった。4連休の最後を締めるにふさわしい一日だった。
「TOKYO SWEEP!! 23区編」3連発の最後は第13弾、江東区がテーマである。昨日と同じく秋葉原の駐輪場にまずは移動し、
東側の旧城東区から動いていく。城東区は1932年に東京市が35区に拡張した際、亀戸町・大島町・砂町が合併して誕生した。
エリアがわかりやすいので、旧町域を意識しながら走っていくつもりである。そして後半は西側の旧深川区を走りまわる。
こちらは1878(明治11)年に成立した15区のひとつ。昨日の旧本所区と似ている点、異なる点をまとめられるとよいが。
こちらが江東区の北端。The 角っこという感じである。
まずは旧城東区の旧亀戸町域から。スタート地点は北十間川から横十間川が分岐する場所である。ここが江東区の角っこ。
すぐ近くに江東天祖神社が鎮座しているので、さっそく参拝。記録が失われているが、社伝では推古天皇の時代の創建で、
厩戸皇子(聖徳太子)作の神像を御神体として祀ったとのこと。1929年竣工の社殿は日本初の鉄筋コンクリート造社殿だと。
天正年間に疫病が流行した際に織田信長が流鏑馬を行わせたそうで、本殿脇には例大祭の子ども流鏑馬スペースがあった。
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L: 江東天祖神社の境内入口。 C: 参道を行く。 R: 拝殿。関東大震災で焼失した後、鉄筋コンクリート造で再建された。
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L: 太郎稲荷神社。樋口一葉『たけくらべ』に登場するそうな。 R: 本殿を覗こうとしたら歩射による流鏑馬の場所があった。北十間川に沿って東に行くと亀戸香取神社。南下して蔵前橋通りにまわり込むと、鳥居から参道沿いに商店が並ぶ。
意匠がなかなかの看板建築なのだが、それにしてはずいぶんときれい。関東大震災後の本物でないのは一目瞭然である。
実はこれ、江東区の観光レトロ商店街モデル事業で「昭和レトロ」をテーマに整備されたもの。2011年にリニューアル完了。
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L: 蔵前橋通りに面する亀戸香取神社の一の鳥居。ここから先は神社の境内だったが、明治ごろから商店街が形成されたとのこと。
C: 参道沿いに、新たに整備された看板建築が並ぶ。こちらの亀戸香取勝運商店街は、江東区で最も古い歴史を持つとされている。
R: 参道を進んで亀戸香取神社の入口に到着。ここからさらに参道が延びており、かなり歴史のある神社であることが窺える。亀戸香取神社は665年に藤原鎌足が東国に下向した際、「亀の島」と呼ばれていたこの地で旅の安泰を祈って創建。
その名のとおり香取神宮(→2018.11.21)からの勧請だ。祭神の経津主神は藤原氏の氏神とされ、鹿島神宮の武甕槌神、
枚岡神社(→2014.11.8)の天児屋根命・比売御神とともに後に春日大社に勧請されたが、その100年ほど前の話。
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L: 長く延びる参道。 C: 亀戸大根之碑。亀戸大根は亀戸周辺で江戸末期から明治にかけて栽培されていた。 R: 拝殿。もともと香取と鹿島は武道方面で篤く信仰されているが、亀戸香取神社では特にスポーツ振興の神ということでアピール。
勝運守は境内の砂利に混じっている白い小石を手水舎で洗って入れるスタイルとなっていて、僕もやってみたのであった。
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L: 境内社。妻入や平入をはじめ、さまざまな建築様式で並んでおり、博物館的な面白さを感じてしまう。
C: 本殿。 R: 砂利の中から白い石を選んでみた(ピントが甘い)。あまり見ない形式だが面白い。蔵前橋通りに戻ると、西へ行って亀戸天神社に参拝する。6年前には大混雑だったが(→2015.1.25)、今日はすっきり。
江戸時代初期、菅原道真の末裔で太宰府天満宮の神官だった菅原信祐は天神信仰を広めるために全国を行脚していたが、
本所亀戸村に天神の祠があったので飛梅の枝で刻んだ天神像を祀った。当時の幕府は明暦の大火の復興事業にあたっており、
将軍・徳川家綱が本所の鎮守として社地を寄進。それで1662(寛文2)年に太宰府天満宮を模して亀戸天神社が造営された。
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L: 蔵前橋通りから。 C: 交差点にある柵の柱がうそ替えの鷽になっていた。 R: 亀戸天神社の境内は蔵前橋通りからすぐだ。
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L: 太鼓橋(男橋)。6年前にも撮ったなあ。 C: 男橋から見た境内。 R: 進んでいくと今度は女橋。
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L: 拝殿。 C: 神楽殿が立派である。 R: 心字池と藤棚。スカイツリーもすっかり借景として定着した模様。参拝を終えると明治通りに出て亀戸駅方面へ。駅周辺に来ると今でも熱海ロマンのディナーショウを思いだす(→2001.7.1)。
アレだ、一気にいろいろやりすぎたね。アイデアを何回分か、小分けにすりゃよかったのに。あの1回に入れ込みすぎた。
今さらそんな反省をしながら東に折れて亀戸中央公園を目指す。南口の国道14号はシンプルなのに、北口だと複雑怪奇。
明治通り。認めたくないものだな、自分自身の、若さ故の過ちというものを。
北口ルートだったので、住宅とカーヴする東武亀戸線で混乱したまま亀戸水神駅の脇を抜けて、亀戸中央公園に到着。
こちらはもともと日立製作所亀戸工場だった場所で、1980年に都立公園として開園。周囲の住宅とスケール感が別世界だ。
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L: 亀戸中央公園。位置的にはぜんぜん中央じゃねえけどな。 C: 日立の工場跡だけに、なんとなくこの木が何の木か気になる木。
R: サザンカコーナー周辺。サザンカは江東区の花とのこと。正直言って、10ha以上もある面積をやや持て余している感がある。亀戸中央公園を抜けて亀戸9丁目に入るが、9丁目だけ明らかにそれまでの亀戸と雰囲気が異なっている。埋立地くさいのだ。
結局、旧中川に面するこの辺りは広大な荒れ地にガンガン工場がつくられていった経緯があり、しかも空襲で焼け残った。
それで工場が撤退した後に亀戸らしからぬスケール感で高層の集合住宅が建ったのだ。こんなの亀戸じゃねえよと思いつつ、
ほぼ南端の亀戸浅間神社へ。社殿は1934年と戦前の築で、境内の端には富士講をはじめ歴史を感じさせる石碑が置いてある。
そもそもこの地は日本武尊の妻・弟橘媛の笄が流れ着いた場所だそうで、周囲との時間のギャップに眩暈がするのであった。
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L: 亀戸浅間神社。横参道スタイルで境内に入る(後述)。 C: 鳥居をくぐって眺める社殿。しかし亀戸とは思えない背景だ。
R: 社殿を右手にそのまままっすぐ進むと「亀戸の富士塚」。弟橘媛の笄塚の上に建てられ、かつてはこちらに社殿があった。鳥居からだと横参道だが、そのまま進んでいった先には石鳥居があり、その奥にはいくつも石碑が置かれた一角がある。
この辺りが「亀戸の富士塚」だが、今は隣接する亀戸浅間公園の一部という感じになっており、石碑があるだけ。
もともとは弟橘媛の笄塚で、1527(大永7)年に木花咲耶比売を勧請して笄塚の上に富士塚を建て、浅間社を創建した。
そして1997年に現在の位置に社殿を移した結果、横参道となったわけだ。再開発が激しくて、歴史を追うのが大変。
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L: 石鳥居の手前で右を向くと拝殿。 C: 本殿。 R: 富士講(不二惣元講)の石碑があった。溶岩と猿の石像が囲んでいる。旧亀戸町についてまとめると、西側の本所から連続する住宅地っぷりに2つの神社の門前町の要素が加わった空間だが、
東部(9丁目)の埋立地のような感覚はかなり特殊。江戸と東京の差がそのまま西と東で出ているような極端さがある。
亀戸9丁目を行く。このエリアが「亀戸」を名乗る違和感は最後まで抜けなかった。
竪川を渡って南側が旧大島町域に入る。やはり東端の旧中川沿い(9丁目)は工業地帯だった影響がしっかり残っており、
公園や運動場として整備されている面積が非常に大きい。都営新宿線が地上に出てきた東大島駅を目印に新大橋通りを西へ。
東大島駅。ホームは旧中川をまたいでいる。
まずやってきたのは東大島神社。小名木川周辺の永平神社・ 子安神社・小名木神社・北本所牛島神社 ・南本所牛島神社が、
東京大空襲により焼失。1949年にその5社を合併して設立されたのが東大島神社なのである。現在の社殿は1978年の竣工。
御守を頂戴したが、陰刻による「東大島」という文字が左下隅に入るだけのなかなかオシャレな紙袋だったのが印象的。
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L: 境内の位置関係はやや特殊。こちらは南側の入口で、クランク状の参道の先に拝殿。しかし表参道らしい感触ではない。
C: 拝殿はあまり余裕のないところに一段高くつくられていて少し圧迫感がある。 R: 角度を変えて眺めるとこんな感じ。
西側の境内入口。こちらの方がゆったりしているが横参道になる。
だいぶ暑いので水分補給だ。自転車であちこち走りまわっているが、たいへんありがたいのがポカリスエットの500ml缶。
これをたまに100円で売っている自販機があって、それを見つけると水分補給タイムとなることが多いのだ(→2019.4.7)。
世の中いろんな飲み物があるけど、この100円の500ml缶ポカリスエットがいちばん旨い。なお100円でないとダメである。
コンクリートジャングルの天使、500ml缶ポカリスエット。100円でないとダメなのである。
西へ行って小名木川のすぐ北側に鎮座しているのが大島稲荷神社。慶安年間に伏見稲荷大社からの勧請で創建とのこと。
現在はかなりコンパクトな境内となっているが、往時には広大な境内地を誇っていたそうだ。道路の整備で削られたみたい。
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L: 小名木川に面している大島稲荷神社の境内。 C: 鳥居をくぐってすぐ左手に松尾芭蕉の像。 R: 拝殿。
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L: 境内社の佐竹神社。歴代宮司を祀るそうで、なかなか珍しい。 R: いったん外に出て本殿。さらに西へ行って西大島駅。交差点の南東側に江東区総合区民センターがある。江東区大島出張所などが入っているが、
ここが旧城東区役所があった場所とのこと。亀戸町と砂町の中間、明治通りと新大橋通りが交差する一等地であり、
納得の立地である。「大島」という地名は、開拓前、もともとこちらに比較的大きな島があったことによる。
隣の深川の方でそれとは別に「大島」という地名があったので「おおじま」と濁って区別することになったそうだ。
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L: 江東区総合区民センター。江東区大島出張所のほか、江東区立城東図書館も入る。職場体験で生徒がお世話になったなあ。
C: 北から見たところ。なお建物の竣工は1979年。 R: 交差点越しに北西から眺める。なお手前側はホールとなっている。貨物の越中島支線の下を抜けて北上すると、大島愛宕神社である。本所中之郷の住民が移住したのに伴って遷座した。
小林一茶が片隅の道具小屋に住み着いて3年ほど過ごしたそうだ。現在は住宅地の中にひっそりとたたずんでいる。
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L: 大島愛宕神社。境内は広くないけど駐車場として活用されている。 C: 拝殿。 R: 本殿。そのまま西へ行くと横十間川にぶつかるので、沿って南下していく。「横」なのは江戸城から見ると横に流れているから。
われわれは北を上に地図に慣れきっているので少し違和感があるが、往時の感覚がよくわかる貴重な名前だと思う。
横十間川。横向きに流れて幅が10間(=約18m)あったのでそういう名前。
小名木川と交差するところに架かっているのが、X字型のクローバー橋。地域のランドマークとなることを意図して、
1994年につくられた。そもそも川が十字に交差する地点じたいが珍しいわけで、江東区の運河っぷりを象徴している。
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L: 南側から見た小名木川クローバー橋。 C: カヌーを漕ぐ人、ハゼを釣る人、いろいろ。 R: では実際に橋を渡ってみる。
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L: クローバー橋の真ん中から北を眺める。こちらは横十間川。 C: 東を眺める。こちらは小名木川。
R: 南を眺める。横十間川はここから埋め立てられて、大横川に合流するまで横十間川親水公園として整備されている。
最後に西を眺める。小名木川はこのまま流れ、最後は清洲橋の手前で隅田川に合流する。
旧大島町についてまとめると、正直なところ特にこれといって面白い要素はなく、ひたすら大規模団地なのであった。
江戸時代の運河由来のグリッド、空襲によるリセット、都営新宿線とのシナジー効果、そういった歴史が空間に出ている。クローバー橋から南東側に進み、旧砂町の区域に入る。先ほど西に抜けた貨物の越中島支線を東に戻ろうとするが、
これがなかなか面倒くさく横たわっているので小名木川沿いに北から攻める。線路脇のアリオ北砂の存在感が大きいが、
ここはもともと貨物駅だった小名木川駅の跡地。かつて生徒の職場体験で、この辺りまで自転車で来たのが懐かしい。
ぐぐっと南下してきた清洲橋通りが明治通りと交差する、境川交差点の近くに志演尊空(しのぶそんくう)神社が鎮座する。
菅原道真の子孫・菅原長寛が稲荷神を勧請して、1624(寛永元)年に深川稲荷として創建された。元禄年間に徳川綱吉が、
鷹狩りの途中に参拝して「民の志を演(の)ぶる事殊勝なり」として志演神社と改名した。1947年に尊空稲荷神社を合祀。
1712(正徳2)年に疫病退散の護摩を焚いてから「ゴマの稲荷」とも呼ばれるそうだ。残念ながら無人で御守は確認できず。
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L: 志演尊空神社。 C: 境内は非常に落ち着いた雰囲気。 R: 裏にまわって本殿を眺める。空襲からの再建でコンクリ社殿。さて砂町といえば、やはり砂町銀座である。明治通りをちょっと北上すると、そこが西側の入口となっている。
戦前は30軒程度の小さな規模だったそうだが、東京大空襲からの復興により1963年頃には現在の規模になったという。
公式サイトによると、昭和50年代に入って大規模な公団住宅やマンション建設が進んで周辺人口が一気に増加したそうで、
「東京三大銀座」と呼ばれるまでに成長した(あと2つは戸越銀座・十条銀座とのこと。本家の銀座はまあ別格ですわな)。
この辺りは平坦で道路の幅が広いから、自転車やバスを利用して旧大島町域も十分商圏に入っているってことだろう。
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L: 砂町銀座の西側入口。幅がたいへんに狭いが、その分だけ商店街としては密度の高い空間となっているわけだ。
C,R: 個人商店がびっしり並ぶ、昭和の雰囲気。鉄道駅から離れていることが、かえって商業を活発化させている例だ。
丸八通りに面している東側の入口。全長は約670mである。
最後に富賀岡八幡宮に参拝する。こちらは平安時代からの歴史があり、深川の富岡八幡宮(→2015.1.25)の元宮とされ、
「元八幡」とも呼ばれている。あちらと比べるとずいぶんおとなしく、御守も正月でないと頂戴できないみたい。
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L: 富賀岡八幡宮。周辺は大規模施設が目立つが、元八幡通りは微妙なカーヴもあり昔ながらの住宅地である。
C: 参道を進んで拝殿。なかなかの雰囲気が残る境内となっている。 R: 本殿を覗き込んだところ。旧砂町についてまとめると、昔ながらの住宅地と大規模団地との交差なのであった。砂町銀座をはじめ街路が若干斜めで、
そこがグリッドの大島と違うところ。その分だけ、昔ながらの住宅の要素が強く印象づけられる空間となっている。
なお名前の由来は開拓した砂村新左衛門で、そのまま「砂村」だったのが1921(大正10)年の町制施行で「砂町」となった。
以上で旧城東区は完了ということにするのだ。本格的な埋立地の方は東京ゲートブリッジと併せてまたの機会に。
とりあえず南砂町付近。サッカー部の引率でさんざん来たなあ。
都道10号を西に進んで旧深川区の東陽町へ。東陽町は永代通り(都道10号)を行き来している分には単純明快なのだが、
南へ入った瞬間に信じられないほど複雑になり、高低差もあり、思いどおりに動けないことに愕然としたことがある。
エリアとしては東陽2丁目、かつては深川養魚による魚の養殖場だった。おそらく永代通りとの高低差はこれが原因だろう。
その後だんだん埋め立てられて工場が建っていき、やがて工場跡地が再開発されて学校やらビルやらに変化していった。
ただ、この再開発が虫食い状態で無秩序に行われた結果、各施設が狭い範囲で孤立する複雑な街路となってしまった。
言ってみればウォーターフロントのスプロールってわけである。これはかなり特殊でそうとう興味深い事例ではないか。
何気ない顔して大通りをやっている東陽町駅前。でも「東陽」の歴史は複雑なのだ。
東陽町といえば江東区役所なのだ。東西線の北側もかつては魚の養殖場で、その後は埋め立てられて宅地が拡張する一方、
「材料置場」となっていた部分も多かった。戦後は一気に宅地化していくが、東側で宅地化がやや遅れた「材料置場」が、
現在の江東区役所ということになるみたい。なお旧江東区役所は深川江戸資料館の位置にあり、1973年に東陽町に移転した。
江東区役所の設計は建築モード研究所。すぐ裏(東側)には江東区文化センターが建てられており、こちらの竣工は1982年。
14年前の「東京23区一筆書き」のときにもいろいろ撮っていたので、いちおうリンクを貼っておくのだ(→2007.6.20)。
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L: 四ツ目通りに面する西側は大胆なオープンスペースが整備されている。70年代とはいえ、もともと余裕のある土地だったのだ。
C: オープンスペースから覗き込んだ江東区役所。 R: 正面から見た江東区役所。ペデストリアンデッキ的に2階レヴェルが基準。
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L: 北側のこちらが議会棟。2階レヴェルに上がって見たところ。 C: 右を向いてエントランス。 R: 高層の事務棟。
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L: 四ツ目通りを挟んで全体を眺める。 C: 議会棟をクローズアップ。 R: 少し北西寄りから見たところ。
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L: さらに北に寄って議会棟の側面。 C: 北のビルの間から見たところ。周囲には特別支援学校をはじめ各種の施設が林立。
R: 南にまわって、区役所の裏にある江東区文化センターの入口。3年くらい前には研修やら講演会やらでちょこちょこ来たなあ。区役所の撮影を終えると再び永代通りに戻り、西の木場駅方面へ。途中の東陽1丁目はかつての洲崎弁天町で、
いわゆる「洲崎パラダイス」として知られた赤線地帯。川島雄三監督の『洲崎パラダイス 赤信号』はきちんと観てみたい。
大門通りを中心にした矩形の街区が現在もしっかり残っていて、Googleマップでも往時の隔離っぷりがなんとなくわかる。
東陽1丁目の西を流れる大横川南支川、対岸に鎮座しているのは木場洲崎神社である。1700(元禄13)年の創建で、
桂昌院の守本尊である弁才天像を祀って洲﨑弁天社として親しまれたが、明治の神仏分離で祭神を市杵島比賣命とした。
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L: 木場洲崎神社。境内には西から入るが、その先に洲崎弁天町があるわけで。洲崎遊廓は明治になって根津遊廓を移転して成立。
C: 拝殿。 R: 本殿。現在の社殿は1968年に竣工している。なお「洲崎」という地名はこの神社が由来となっている。
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L,R: 木場洲崎神社のゆるキャラと思われる「玉の輿たまちゃん」。桂昌院にちなむキャラクターだが、それ以外の詳細が不明。そのまま西へ突き進んで、越中島まで行ってしまう。越中島といえば東京海洋大学のキャンパスがあるけど、
コロナの影響で中には入れない。とりあえず外から明治丸と旧東京高等商船学校本館の1号館を眺めるのであった。
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L: 明治丸。灯台巡視船として建造され、御召船を経た後に東京高等商船学校の練習船となる。船舶では初の国指定重要文化財。
R: 東京海洋大学1号館(旧東京高等商船学校本館)。関東大震災で校舎が被害を受け、1932年に再建された。国登録有形文化財。門前仲町方面に戻って、富岡八幡宮へ。こちらも6年前に参拝しているが、骨董市で大騒ぎだった(→2015.1.25)。
コロナの影響か殺人事件の影響か、今回は人が少なめ。前に勤務していた学校で、こちらの宮司だった一家について、
たいへんにろくでもないので「絶対に参拝する気になれない」という話を聞いたっけ。今はどうなっているのやら。
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L: 富岡八幡宮。神も仏もあったもんじゃありませんな。 C: 凝った社殿は1956年の再建。 R: 本殿を覗き込む。境内から西へ行くと深川公園の東側部分。深川公園は東京初の公園をまわる企画の第1回で訪れたが(→2002.8.25)、
かなりテキトーなログなので、細かいことをあらためて書いておく。まず、深川公園はもともと永代寺の境内だった。
永代寺は富岡八幡宮の別当寺で、門前仲町の地名の由来となるほど栄えたが、明治の神仏分離で廃寺となり、公園となる。
しかし永代寺で成田不動の出開帳が行われていた縁で、1878(明治11)年に成田山新勝寺を東京別院深川不動堂として勧請。
そんな経緯で深川不動堂が深川公園を東西に分断する形になったのだ。なお、永代寺は1896(明治29)年に復活している。
深川公園の東側部分。こちらはふつうに児童公園の雰囲気。
あらためて南側の参道から深川不動堂に参拝してみる。参道からそのまま奥まった空間へと入り込んでいく形の境内は、
いかにも寺らしい自由で賑やかな雰囲気。驚いたのは本堂で、正面にある堂々とした木造建築は旧本堂であって、
壁面いっぱいに梵字が貼り付いている四角い建物が本堂。いくら寺でもそれは自由すぎないか、と唖然とするのであった。
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L: 深川不動堂の参道入口。 C: 進んでいくと奥まったところに境内。 R: こちらは旧本堂。1863(文久3)年築のお堂を移築。
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L: まさかこの耳なし芳一が本堂とは。 C: 深川公園の西側部分。こっちはひたすら広い砂利。 R: 遊具や木々は端っこにある。東に戻って木場公園へ。その名のとおり、元はお江戸の貯木場である。つまりはかつてこの辺りまで海だったわけだ。
しかし周囲の埋め立てが進んだことで海からどんどん離れていき、1969年に新木場がつくられて貯木場機能が完全に移転。
それで跡地を防災面から公園として整備したのである。公園としてオープンしたのは1992年のこと。意外と最近な印象。
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L: 木場公園にやってきた。まずは南側から。 C: 南半分の西側は植物園として整備されている。 R: 木場公園ミドリアム。
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L: 仙台堀川に架かる木場公園大橋。 C: 木場公園大橋の主塔。 R: 木場公園の北半分は、かなり気合いの入った植栽ぶり。
後で見た仙台堀川。木場公園はこの川によって南北に分かれている。
個人的には、木場公園というと「東京都現代美術館の隣の公園」というイメージ。それだけちょこちょこ来ている。
いい機会なので今回あらためて建物をクローズアップしてみるのだ。で、江東区をまわり終えて夕方になったら、
実際に中に入って企画展と常設展を見てみる。まずは敷地を一周してさまざまなアングルで建物を眺めるのである。
前にも書いたかもしれないがいちおうまとめると、都庁を新宿に移転する際にバーターで下町につくられた施設のひとつ。
設計者は、MOA美術館(竹中工務店時代 →2010.11.13)や中川一政美術館(→2017.3.11)などを手がけた柳澤孝彦。
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L: 南西から見たエントランス。 C: 木場公園の北端に沿うように通路が延びる。 R: 南東端。こっちからは入れない。
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L: 外に出て南東から眺めたところ。 C: 北東側。 R: 北側の側面。こっちはあんまり面白い感じではない。
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L: 北西から。 C: 三ツ目通りに面する西側。ここはアート感をかなり出している。 R: 北西から見たエントランス。一周完了。
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L: エントランスから西側の一段高いオープンスペースに出てみた。水場と直射日光に晒されるベンチは正直、意味がわからん。
C: そのまま右を向いたところ。 R: 後で中に入ってエントランスから見た通路。現美の動線はシンプルでわりと好きである。
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L: 中央がサンクンガーデン。左の高い部分がさっきのオープンスペースで、右のガラスの中が企画展の特大展示スペース。
C: エスカレーターから見た地下の企画展示室入口。 R: ミュージアムショップ脇の壁。企画展に合わせて横尾忠則仕様。
ミュージアムショップのFREITAG。品揃えがだいぶ貧相だが、扱っているだけマシか。
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L: 中庭。 C: 角度を変えて中庭をもう一丁。 R: 通路の東端はこんな感じ。常設展の入口はこの左側である。東京都現代美術館を一周しての撮影を済ませると、さっきの大横川と小名木川を渡って猿江神社に参拝する。
この辺りは2年前までの職場の「シマ」なので馴染みがあるが、参拝するのは初めてである。罰当たりですいません。
あまりそういう印象はなかったのだが、社号標には「稲荷神社」と彫られているとおり、稲荷系の神社である。
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L: 猿江神社。社号標は「稲荷神社」なので少し戸惑った。後述のとおり江戸時代以前からの陸地で、神社の歴史は平安以前に遡る。
C: 拝殿。 R: 本殿。猿江神社の社殿は関東大震災で焼失した後、宮内庁設計技官の設計で1931年に再建。東京大空襲を耐えた。
境内の馬頭観音社。1985年に復活したそうで、こちらの御守もある。
さて猿江という地名について。1058年頃に「源義家臣猿藤太」と書かれた鎧を着た武士の遺体がこちらに流れ着いたそうで、
それで「猿江」となったとのこと。つまりこの辺りは江東区では貴重な、明暦の大火前から陸地だった場所というわけだ。
そしてその北が住吉。近くに住吉神社があるわけでもないのでずっと不思議に思っていたが、かつては「猿江裏町」で、
「裏」の印象が悪いことから町域が再編された際に瑞祥地名で住吉と改めた。地下鉄駅名は猿江駅がよかったんでないの?
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L: 猿江公園の一角にあるティアラこうとう。正式名は江東区江東公会堂。PTAの歓送迎会は毎回ここだったなあ。
C: 猿江恩賜公園。かつて貯木場だったが昭和天皇(皇太子)の成婚記念で南側が下賜された。北側は1972年まで貯木場。
R: 住吉銀座通り。うーん懐かしい。住宅と個人商店などがバランスよく配合されている、穏やかな商店街である。西に戻って小名木川の手前、東京都立墨田工業高等学校に寄る。ここでの授業見学は目から鱗だった(→2020.9.4)。
交差点に面する一角にはノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智先生(→2015.12.10/2015.12.26)の記念碑があった。
高校の先生から学び直してノーベル賞をもらうほどの研究者へ。しょぼくれた高校教諭としては眩しすぎる偉人である。
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L: 東京都立墨田工業高等学校。就職実績がすごくよくって驚いた。 R: 大村先生の記念碑。いや本当に偉人ですよ。さらに西へ行って森下文化センターへ。こちらの1階には「田河水泡・のらくろ館」が入っているのだ。
さすがに当方、のらくろ世代ではないが、戦前にキャラクターで一大ブームを巻き起こした凄みを味わうとするのだ。
ちなみに僕が田河水泡を認識したのは、『サザエさんうちあけ話』で長谷川町子の師匠と知ったことによる。
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L: 森下文化センター。少し奥まった位置がいわくありげ。 C: エントランスにはのらくろ(とブル大佐)がいた。
R: 「のらくろトリオ(永田竹丸・山根青鬼・山根赤鬼)」による深川マップ。いかにも昭和の絵柄でほっこりするぜ。田河水泡は青年期まで江東区で暮らしたそうで、略歴から交流のあった人物の紹介、書斎の再現など、幅広い内容。
もちろん『のらくろ』についての紹介コーナーもある。作品の閲覧もできるので時間があればじっくり見たかったが、
まだまだ他にも寄りたい場所があるので本日は軽めに鑑賞。戦前・戦中のキャラクター文化として重要な存在だと再確認。
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L: 田河水泡・のらくろ館の入口。 C: のらくろの人形が座っている。 R: 近くの商店街ものらくろ仕様だった。森下駅の近くにある深川神明宮に参拝する。かつてこの辺りは湿地帯で、摂津出身の深川八郎右衛門が開拓していった。
その際、屋敷に伊勢神宮から勧請して祠を建てたのが由緒。1596(慶長元)年、徳川家康が巡視した際に地名を尋ねたが、
八郎右衛門は「まだ住む人も少なく地名もない」と答えたので、姓の「深川」をそのまま地名とするように命じたとのこと。
深川めしの存在からわかるように最初は漁村だったが、明暦の大火以降に開発が進んでいく。その歴史を見つめてきたのだ。
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L: 深川神明宮。 C: 参道の両脇には神輿蔵。宅地化でコンパクトになったにしても珍しい大胆さだ。 R: 拝殿。この辺りが江東区の北西端ということで、南へ戻る。小名木川を渡ると清澄白河駅である。あまり馴染みのない駅だが、
2000年に大江戸線の開通によって開業し、その3年後に半蔵門線の延伸で乗換駅となった、全体的に歴史が新しい駅なのだ。
しかし駅のすぐ近くには1933年竣工の清洲寮。同潤会っぽい匂いを漂わせる、今も入居希望者が絶えないアパートである。
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L: 清洲寮。まずは東側の側面から。 C: 清洲橋通りを挟んで北東から眺める。 R: 幅が広いのでカメラの視野に収まらない。
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L: いちばん西側をクローズアップ。地下鉄が通ったことで利便性が爆上がりでしょう。そりゃ住めるもんなら住みたいわ。
C,R: 清洲橋もクローズアップ。アーチの永代橋と対になる、吊橋をモデルにしたデザイン。1928年竣工で国指定重要文化財。清洲橋からまっすぐ戻ると清澄公園である。その東隣はいわゆる清澄庭園。かつては両方合わせて三菱岩崎家の庭園だった。
関東大震災で被害の少なかった東側だけが庭園として存続し東京都の公園となった。西側は1957年から20年かけて整備され、
あらためて清澄公園としてオープンした。しかしこちらはただ広くて野放しな印象で、庭園らしさはあまり感じられない。
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L: 西側の清澄公園。 C: 北東端には池と時計台。 R: ただ広いだけで特に工夫のない空間に思えるが。東側の清澄庭園に入る。こちらは入園料が150円する都立公園(庭園)。もともとこの場所は公家・久世家の下屋敷で、
1878(明治11)年に三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎(→2021.7.22)が土地を買って巨石を集めた庭園を整備した。
弟の弥之助の代に庭園は完成し、台東区の旧岩崎邸庭園と同様に、日本館と洋館が建てられた(竣工はこちらが先)。
3代目の岩崎久弥は1921(大正10)年に庭園を一般公開するが、2年後の関東大震災で壊滅状態となってしまう。
そして被害が比較的少なかった東側が東京市に寄付され、1932年に「清澄庭園」として開園したという経緯がある。
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L: 清澄庭園の入口は北西の1箇所だけ。 C: 巨大な石橋に圧倒される。 R: 大泉水の向こうに涼亭。1909(明治42)年の築。
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L: 石橋と磯渡り。池の上を歩かせるオシャレな工夫。 C: 涼亭。しっかり数寄屋造り。 R: 水の流れを石で表現している。
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L: 築山で富士山を表現。中腹に植えられているツツジ類は、富士山の麓にたなびく雲を表しているそうだ。
C: 中の島を眺める。 R: 磯渡りと涼亭。回遊式庭園は各地にあるけど、清澄庭園の磯渡りはかなり強烈だと思う。
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L: 大正記念館。大正天皇の葬場殿(待合室)を新宿御苑から移築したが、戦災で焼けたので貞明皇后の葬場殿の材料で再建。
C: 面白い形の石があったので撮ってみた。岩崎家は自社の汽船で全国各地から石を集めた。 R: サギがたたずんでいた。
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L: 大泉水(池)にはいろんなカメがいた。こいつはスッポン。やっぱりカメとしては独特な顔つきであると思う。
C: 黒いのでオスのクサガメか。かわいい顔をしている。 R: 外来種もいたのであった(ミシシッピアカミミガメ)。清澄庭園からすぐ東にあるのが、深川江戸資料館。かつて深川区役所があった場所で、元は隣の霊巌寺の境内なのだろう。
1947年に城東区と合併して江東区が誕生した後はこちらが江東区役所となった。なお、深川区は東京15区の南東端である。
江東区役所が1973年に東陽町に移転すると、跡地に深川江戸資料館が建てられたというわけ。1986年のオープンである。
周辺は住宅が入り交じった落ち着いた商店街で、いわゆる「深川」の平均的なイメージはこの辺りなのかなと思う。
上述のように地下鉄の開通が遅かったわりには穏やかな賑わいを感じるが、北の都営新宿線と南の東西線の間にあって、
バランスをとるべく行政機能が集まった結果であるようだ。本所にちょっとだけ商店の匂いが足された印象である。
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L: 深川江戸資料館。まずは南西から。 C: 南の正面から見たところ。江東区役所白河出張所を併設。 R: 南東から。では深川江戸資料館の中に入ってみる。80年代のオープンということもあってか、街並みの再現にかなり力が入っている。
天保年間(内憂外患に改革でドタバタ)の深川佐賀町の街並みだそうで、音響や照明で一日の移り変わりを表現する凝り方。
Wikipediaによると、毎年夏に2,3日だけお化け屋敷になるイヴェントをやっているらしい。この手の施設にしては実に賢い。
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L: 入ってすぐに、深川に関係する各位の紹介。 C: 地下1階から地上2階までを吹抜にして大胆に街並みを再現している。
R: 八百屋。品数が少ないなあと思うが、それはつまり現代のスーパーがものすごくたくさんの野菜を扱っているということだ。
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L: 玄米を精米して売っていた舂米(つきごめ)屋。 C: 川べりの船着場。こういった船で吉原に繰り出したのかねえ。
R: 向かいの船宿。船宿は船で遊びに行く客を送り迎えする商売で、堅実な「升田屋」と派手な「相模屋」という設定とのこと。
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L: 水茶屋(左)と床店(右)。水茶屋は現代でいう喫茶店で、天麩羅の床店がいかにもファストフード感を漂わせている。
C: 木場の木挽職人宅。大工道具と化粧道具など。 R: 長屋の路地も再現されている。真ん中の水路を板で塞いでいる。
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L: 長屋の共同井戸。ほかに共同便所、ゴミ溜め、お稲荷さんがあり、長屋住民の共有スペースとのこと。
C,R: 長屋の中はこんな感じである。家族構成や職業、年齢まで細かく設定して庶民の暮らしぶりを再現している。見学を終えると東へ行って東京都現代美術館へ。上で述べたように、企画展と常設展を拝見。レヴューはまた後日。
いちおうこれで江東区めぐりは完了とするのだ。今日も長い一日なのであった。最後に永代橋で江東区から脱出する。
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L: 永代橋から見た佃の高層マンション群(→2020.8.14)。夜に見るとなかなか見事な印象となるのだ(→2005.11.3)。
R: 優雅なアーチの永代橋。先代は日本初の鉄橋で、現在の橋は震災復興事業で1926(大正15)年に竣工。国指定重要文化財。3日連続のサイクリング三昧もこれにておしまい。実にハードな3日間だった。でもやりたい放題できて楽しかった。
天候にあまりにも恵まれすぎたせいで、日焼けが大変なことになってしまったのはご愛敬。ヤケドの一種なのでつらいぜ。
ここまで色が変わるとはびっくり。
江東区をクリアしたので、次は品川区。明日の4連休最終日に一気に攻めてもいいが、一息つきたい気もするし。どうするか。
昨日は「海の日」で今日は「スポーツの日」だと。もういろいろめちゃくちゃ。たかがオリンピックごときで恥ずかしい。
すっかりプライドのない国になっちまったなあと呆れるが、世間がそんな政党に政権を持たせているんだからしょうがない。閑話休題、本日は「TOKYO SWEEP!! 23区編」の第12弾ということで、墨田区がテーマである。前半は南側の旧本所区を走り、
後半は北部の旧向島区を走る。正午にスイッチするのが目標なのだ。なお、実は自転車を秋葉原の駐輪場に預けてあって、
昨日は電車で家に帰ったのである。東京はそういうズルいことができるので便利なのだ。そして今日もそれをやるつもり。
両国橋から総武線の隅田川橋梁を眺める。隅田川を渡って本日の作戦、いざ開始。
秋葉原から国道14号に入り、隅田川を渡ってまずは両国回向院へ。1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)によって、
10万人以上の命が失われた。将軍・徳川家綱は亡骸を葬るため「万人塚」を設けたが、その際に堂宇が建てられ創建された。
「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」という方針を貫いている。
なお正式な名前は諸宗山無縁寺回向院。市川市と八千代市に別院があり、かつては南千住にも別院があったが現在は独立。
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L: 回向院の特徴的な山門。2018年に竣工。 C: 参道を進んで本堂。 R: 右手に念仏堂。2016年度グッドデザイン賞受賞だと。
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L: 境内にはさまざまな供養塔が存在する。 C: 石造海難供養碑。回向院は焼死者だけでなく水死者や刑死者も供養している。
R: 鼠小僧次郎吉の墓。河竹黙阿弥が義賊として描いたため墓石を削って御守にする者が後を絶たず、手前に削る用の石が置かれた。そのまま東に行くと、吉良上野介邸の跡地である本所松坂町公園。つまりは1703(元禄16)年の赤穂浪士討ち入りの現場だ。
本来の吉良邸はもっと広大で、東西が約134m、南北が約63mの2550坪もあったという。地元町会の有志が1934年に、
「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入して東京都に寄付したことで、公園として整備された経緯がある。
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L: 本所松坂町公園。かつての屋敷の外観を意識したデザインとなっている。 C: 入ってすぐ左手には松坂稲荷神社。
R: 公園内の様子。ちなみに吉良義央は刃傷事件の半年後にこちらに移ってきたので、実際に住んだ期間は17ヶ月ほど。
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L: 吉良家家臣の追悼供養碑。 C: 北西端に吉良の首洗いの井戸。 R: 吉良上野介義央公座像。日本を代表するヒール。さすがに座像に手を合わせるくらいはしてから公園を後にする。清澄通りで総武線の北側に出ると、江戸東京博物館。
開館時刻は9時半なのでまだ開いていないが、いちおう外観くらいは押さえておこう、ということで撮影してまわる。
しかしオリンピック関連施設が仮設置されているそうで、駐車場が封鎖されていた。本当に迷惑なものである。
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L: 清澄通りから総武線の高架をくぐって見た江戸東京博物館。方角としては東から見たところになる。
C: そのまま北へ進んでいって北東から見上げる。 R: 北から見たところ。なかなかワケがわからん。江戸東京博物館には何度か来たが(→2002.1.20/2013.6.9/2016.5.29)、バブルの勢いでつくった博物館という感触。
丸の内から新宿へ都庁を移転する際に、下町の議員を抱きこむためにつくられたバーターの施設である(→2010.9.11)。
設計は菊竹清訓で1993年に開館。この江戸東京博物館のせいで、僕の中では菊竹清訓に対する印象が長年かなり悪かった。
九州国立博物館で持ち直し(→2011.3.26/2017.8.5)、メタボリズムを振り返る中で評価が大逆転した経緯があるのだ。
(好き:旧都城市民会館(→2011.8.11)、東光園(→2013.8.20)、萩市民館(→2015.11.20)、旧館林市庁舎(→2016.7.10))
しかしそれでもやっぱり江戸東京博物館は嫌いである。発想がメタボリズムの真逆で、無理しか感じられない醜い造形だ。
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L: 通路を抜けて北西側から。 C: 離れて眺める。手前に両国ポンプ所。 R: JR両国駅からだとこの南西からのアングルになる。そのまま両国駅を撮影する。厳密には旧両国駅舎で、現在のJR両国駅は総武線の高架下にあるのだ。
旧駅舎は1929年の竣工で、当時はまだ「両国橋駅」という名称だった。2016年にリニューアルされており、
複合飲食施設「-両国- 江戸NOREN」として営業している。さらにすぐ北にある両国国技館もいちおう撮影しておく。
一度は大相撲を観てみたいとは思っているのだが。オリンピックのボクシング会場ということで警官が打ち合わせしていた。
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L: 旧両国駅舎(-両国- 江戸NOREN)。 C: 正面から見たところ。 R: 両国国技館。一度は大相撲を生観戦してみたい。さらにそのすぐ北が墨田区立旧安田庭園である。安田とは安田財閥の安田善次郎で、鶴見線・安善駅の人(→2006.8.6)。
というか、東大安田講堂の安田さんと言うべきか。安田財閥の系列は戦後、みずほ銀行を中心とする芙蓉グループとなる。
ここはもともと本庄松平氏の下屋敷で、初代で笠間藩主の本庄宗資(桂昌院の弟)が庭園を築いた(息子の代から松平姓)。
安田は1921(大正10)年に殺されてしまい、遺志にもとづき家屋と庭園が東京市に寄贈されるが、関東大震災で壊滅。
なんとか整備して1927年に公園として公開され、墨田区に移管後の1971年に往時の姿に復元されて今に至る。
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L: 旧安田庭園の入口。 C: 園内は池が大きめで、木々の密度が高い印象。周囲と比べて意外と高低差がある。 R: 駒止稲荷。
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L: 公園の北端には刀剣博物館。2015年まではここに両国公会堂があった。 C: 刀剣博物館の手前を行く。開放的でよい。
R: 心字池。かつては隅田川の水を引き込む潮入りの池(→2020.8.14)だったが、今はポンプで再現。なお後ろはアパホテル。では刀剣博物館に入ってみるのだ。1968年に代々木で開館したが、2018年にこちらの両国公会堂跡地に移転してきた。
今の企画展は「現代刀職展 -今に伝わるいにしえの技-」。日本美術刀剣保存協会では年に一回、刀匠の「新作名刀展」と、
刀剣を研磨する研師と外装を製作する刀職者の「刀剣研磨・外装技術発表会」を合同で開催しているそうで、
作刀、研磨、刀身彫、白鞘、刀装、彫金、柄前、白銀の部があり、受賞した作品(無鑑査もある)が展示されている。
まったく知らなかったことなので、こういう世界もあるんだなあと圧倒されながら見ていくのであった。
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L: 刀剣博物館。設計は槇総合計画事務所つまり槇文彦。旧両国公会堂の佇まいを継承しているそうだが、うーんどうだろう。
C: 時代による刀の変遷。なぜか南北朝時代の刀は群を抜いて長い。続く室町前期は反りすぎでは? R: 展示室内の様子。
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L: こちらは「柄前の部」。こういう職人の世界があるんだなあと。 C: 重要刀剣の太刀「銘 備州長船兼光」も展示していた。
R: 旧両国公会堂の写真があった。本所公会堂として1926(大正15)年に竣工。設計は台湾総督府で知られる森山松之助。見学を終えるとそのまま東の横網町公園へ移動する。こちらはもともと陸軍被服本廠があったが、赤羽台に移転したので、
東京市が買収して公園として整備を始めた。1923(大正12)年に関東大震災が発生すると、住民たちがこちらに避難した。
しかし広大な空間だったためか巨大な火災旋風が起こり、約4万人いたという避難民のほとんどが犠牲になってしまった。
それで震災記念堂の建設が計画されコンペが行われ、西洋風の本体に円柱の塔というモダンな前田健二郎の案が1等となる。
これが仏教方面からの反対により撤回された結果、伊東忠太を中心に設計がやり直され、震災記念堂は1930年に竣工した。
なおこのコンペの各応募案を見ると、アール・デコを経たモダンだったり、帝冠様式っぽい和風の屋根がかかっていたり、
山田守が分離派建築会(→2020.12.13)全開だったり、時代のせめぎ合いがかなり興味深い。で、伊東忠太はというと、
正面から見ると破風全開の和風建築にしておいて、後ろに三重塔を取っ付けるけど中国やインドの匂いがする折衷ぶり。
4年後の築地本願寺で仏教の本質を問い直すことになるが(→2020.8.14)、その先駆的な実験作という印象がかなり強い。
なお、震災記念堂は後に東京大空襲で亡くなった人々の遺骨も納め、1951年に「東京都慰霊堂」と改称して今に至る。
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L: 東京都慰霊堂。東から見た正面。和風の意匠として破風を前面に押し出している。 C: 西から見た背面には三重塔。
R: 内部は教会の要素も採り入れている。折上格天井も印象的。幕の東京都シンボルマーク(イチョウ型)が興味深い。中にお邪魔して手を合わせる。よけいなことを意識しないで慰霊に専念できる公的な施設があるのはいいことだと思う。
(靖国神社には正直思うところはあるけど(→2007.8.15)、行ったらきちんと手を合わせますよ(→2018.8.2)。)
高野山の奥の院もそうだが(→2012.10.8)、亡くなった人に対する純粋な祈りの空間は、われわれに大切な感情、
人間として失ってはならない感情を呼び起こす。それを公共施設としてつくることは、たいへん高尚なことだと思うのだ。
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L: 公園の北東にある東京都復興記念館。震災記念堂附属の資料保存・展示施設として1931年に竣工。設計は伊東忠太+佐野利器。
R: 「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」。花壇のデザインは都内在住・在学の児童・生徒から募集して、年4回変わる。横網町公園のすぐ南にあるのが第一ホテル両国である。こちらはかつて、本所区役所があった場所なのだ。
1878(明治11)年に東京市15区のひとつとして本所区が成立するが、ネットで見つけた『墨田区勢概要』によると、
区役所はたびたび移転しており、横網に区役所が竣工・移転したのは1930年。残念ながら設計者はわからなかったが、
ネットで「横網」を入れて検索したら画像が出てきた。3階建てだが上階にいくほど後退して階段状のファサード。
しかもアーチ窓を連続させて、角も面取りするなど、実に分離派建築会っぽい匂いのするモダン建築となっている。
こんなにオシャレな建築だったとは恐れ入った。現場に何の痕跡も残されていないのが、本当にもったいない。
なお、1947年に本所区が向島区と合併して墨田区となったが、1990年に今の庁舎が吾妻橋に建設されるまで、
本所区役所が墨田区役所第一庁舎として使われた(なお向島区役所は第二庁舎)。美しさで第一庁舎だったのだろう。
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L: 第一ホテル両国。北東から眺める。 C: 南東から眺める。 R: エントランス。昔の本所区役所の写真を残せよー。東に行って、すみだ北斎美術館である。見学は墨田区めぐりを終えた夕方にするので、とりあえず外観だけ撮影しておく。
妹島和世の設計で2016年のオープンした、かなり気合いの入った施設である。外観に北斎を感じさせる要素は皆無だが、
かといって変に和風を狙うと恥ずかしいことになってしまう。難しいけど、モチーフが見えてこないのは少々淋しい。
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L: すみだ北斎美術館。北西から見たところ。 C: 南西から見たところ。 R: 南東から見たところ。うーん、ニンともカンとも。次の目的地は錦糸町周辺なのだが、墨田区(旧本所区)は南側が地下鉄新宿線の菊川駅周辺まで延びているので、
あえてそっちの方に寄り道しながらゆるゆると東へと向かう。昨日の台東区(旧下谷区)のような前近代性はなく、
完全に碁盤目状の街区に癖のない住宅地がずっと続いていて、特にこれといったネタを拾えないままで錦糸町に到着。
同じ下町であるはずなのに、これはどうしたことか。隅田川の西と東ってだけでこんなに土地の感触が違うものなのか。
歴史を振り返ると、旧本所区域は1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)以降に開発され、当初から碁盤目状だった。
そして関東大震災と東京大空襲による二度の大火災で大半が焼け野原となった。やはりその影響が大きいのではないか。
最初からセクタ化された空間であり、復興してもセクタ化の感覚が引き継がれている。「下町らしさ」とは昭和の匂いで、
それはモダンという言葉で始まった時代なのだ。墨田区南部は、実は東京で最も「昭和」な空間なのかもしれない。
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L: 電柱を地中化している北斎通り。かつては「南割下水通り」と呼ばれた。江戸東京博物館からすみだ北斎美術館へと向かう途中。
C: 区役所通り、中和公園付近。 R: 新大橋通り、菊川駅の手前。まあこんな感じでどこをとっても落ち着いた住宅と店舗ばかり。錦糸町駅の南東に錦糸堀公園があるので、まずはそこに寄っておく。本所七不思議のひとつ「おいてけ堀」の現場とされ、
公園の北側には河童の像が置いてあるのだ(なお、本所七不思議は7つ以上ある。そのこと自体が不思議じゃんよ)。
そもそも錦糸町の「錦糸」とは「岸」が由来という話があり、かつて低湿地だった過去をわずかに伝える要素である。
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L: 錦糸堀公園の南側、ラジオ体操広場。 C: おいてけ堀のかっぱ像。周辺は空き缶や吸い殻だらけだぞ尻子玉抜かれるぞ。
R: 錦糸町駅。2017年度から2020年度まで職場が近くてよく寄ったなあ。昔はロッテ会館周辺の治安が悪かったとかなんとか。錦糸町駅の北口に出ると、錦糸公園へ。もともとは陸軍の糧秣厰倉庫だったそうで、関東大震災後に公園となった。
歴史ある公園にしてはずいぶん現代的な開放感で、いつ行っても(そんなに行くわけじゃないが)人が多い印象がある。
錦糸公園の北には錦糸町オリナス。前に書いたとおり(→2019.6.9)、セイコーの工場を再開発して2006年にオープン。
circo氏と来たことがあるが、どことなく下町テイストな感触だった。気取らない感じがして好きってことだぜ。
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L: 錦糸公園。芝生など、とにかく広々としている。 C: 公園の南西端には千種稲荷神社が鎮座。明暦の大火後の開発時に創建。
R: 錦糸町オリナス。錦糸町の「錦」で「織り成す」、Organization of Lifestyle Interface, New bussiness, Amenity, Shoppingだと。北上して旧本所区域の東側をひた走る。やっぱり街区は無限の矩形で、癖のない住宅地がずっと続いているのであった。
もしテキトーに街の一角を撮った写真を出されたら、「これ墨田区だ」とパッとわかる人はほとんどいないだろうけど、
大半の人が「日本の平均的な市街地」と感じるのではないか。昭和から平成を生きた人々にとって基本的な原風景だと思う。
……が、やがてまったくそれと異質な要素が現れる。そう、東京スカイツリーである。ちょっとフィクションじみて見える。
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L: 昭和〜平成の住宅地に突如、東京スカイツリーが登場! C: 怪獣やウルトラマン的な存在感だな。 R: 麓から見上げる。
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L: 東京スカイツリータウンの南側を東から西に流れる北十間川。明暦の大火後に農業用水目的で開削された運河である。
C: 東(上流)側を見たところ。 R: ソラマチひろば。「東京ソラマチ」は東京スカイツリータウン内の商業施設の名称。では東京スカイツリーについて、あらためて軽くまとめておこう。超高層建築が増えて東京タワーじゃ高さが足りねえとなり、
2006年に東武鉄道の貨物駅跡地が新タワー建設地に決定。ちなみにcirco氏はあんな地盤の場所に建てるのか、と呆れていた。
大学時代にさいたま新都心(→2006.2.12)について研究していた僕は、「さいたまタワー」の建設をわりと期待していたが、
首都・東京のプライドが許さなかったようだ(当時はさいたま赤十字病院の位置が空いており、候補地となっていた)。
肝心の高さは「武蔵」の語呂合わせで634m。世界一高い建物はブルジュ・ハリーファの828mだが、タワーとしては世界一。
日建設計の設計により竣工したのが2012年。建設中のスカイツリーをみやもりと見に行ったっけなあ(→2010.8.1)。
開業後はかなりの人出でとても近寄る気になれず、2年待ってから姉歯メンバーで突撃。しかし大混雑で撤退(→2014.12.21)。
結局、展望台に上ることができたのは2015年になってからなのであった(→2015.3.14)。曇りだったのが今でも少し悔しい。
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L: 北東から見たところ。手前はオフィスビルの東京スカイツリーイーストタワー。地上31階建てで、高さは158m。
C: 南西から見たところ。スカイツリーの手前にすみだ水族館。 R: 左からスコブルブル、ソラカラちゃん、テッペンペン。一周して撮影すると、すぐ南東にある大横川親水公園へ。総延長は1800mにもなる長い公園だが、今日はその北端だけ。
ここはかつて東から流れてきた北十間川が南の大横川に分流していた地点である。現在、大横川側は堰き止められているが、
常時排水することで親水公園化されているというわけ。江東区の竪川と交差すると正式な大横川として南に流れていき、
木場駅付近で西に曲がる。最終的には永代橋の南側で隅田川に出る。江東区の運河事情は複雑怪奇である。
大横川親水公園の北端。管理事務所が外輪船の形でつくられているのであった。
そのまままっすぐ西へ行くと、墨田区役所である。この一帯はもともとアサヒビールの吾妻橋工場があった場所で、
「リバーピア吾妻橋」として整備された。救いがたいデザインのアサヒビールタワー(→2007.6.20/2010.8.1)もある。
まあ墨田区としては工場の再開発に関わってうまく土地を確保したというわけだ。久米建築事務所の設計で1990年に竣工。
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L: 墨田区役所。リバーピア吾妻橋の北東側を押さえている。 C: 東から見たところ。左はすみだリバーサイドホール。
R: 縦の構図であらためて眺める墨田区役所。先代の本所区役所は凝っていたのに、何の面白みもない建物になってしまった。
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L: 区役所としての正面玄関。 C: 北東から見たところ。 R: 北側を見上げる。
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L: 隅田川方面にまわり込んで西から見た墨田区役所。 C: オープンスペースから眺める。スカイツリーが見えますな。
R: アサヒビール関連の建物をいったん無視して、南側から見た墨田区役所。なお手前は集会所の吾妻橋会館。
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L: 浅草とは反対の東から見たアサヒビールタワー。左の高い建物は、リバーピア吾妻橋ライフタワー。マンションですな。
C: 南から見たスーパードライホール。フィリップ=スタルクの粗大ゴミ。スーパードライとか、アサヒビールは品がねえのよ。
R: 墨田区役所の北にある枕橋からは東京スカイツリーがよく見える。鉄っちゃんは東武鉄道の電車とセットで撮るんだろうなあ。枕橋で北十間川を渡ると向島だが、この辺りはなかなかややこしい。上述のように、本所区の成立は1878(明治11)年。
そして1889(明治22)年に東京市が市制施行。つまり、15区の成立は東京市よりも早かったのだ(東京府内の15区だった)。
このタイミングで東京市15区に入る区域が少し変更され、向島や押上など北十間川以北のエリアも本所区に入ったのだ。
その後、1932年に東京市が35区に拡張して南葛飾郡全域が編入されると、寺島町・隅田町・吾嬬町が向島区となる。
つまり町名としての向島は向島区ではなかったのである。実際、東京市による区名の原案は「寺島区」だったそうで。
もっとも隅田川の左岸はざっくり「向島」だったので、ある程度広い向島区という扱いの方が自然だったのかもしれないが。向島に入って墨田区立隅田公園(隅田川の対岸は台東区立の隅田公園)の中に鎮座しているのが、牛嶋神社である。
860(貞観2)年に慈覚大師・円仁がスサノオの化身からの神託で創建。かつては500mほど上流の桜橋付近に鎮座していたが、
関東大震災の復興事業によって隅田公園が整備されたことを受けて、1932年に現在地に遷座したという経緯がある。
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L: 牛嶋神社の鳥居。横参道で公園内に入っていく形である。 C: 参道を一緒に右を向くとこの光景。 R: さらに進む。
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L: 拝殿前の鳥居は三ツ鳥居。由来はよくわからない。 C: 拝殿。立派である。 R: 本殿も立派。組物がかなりの迫力だ。
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L,C: 狛犬が溶岩のようにつくられた岩に乗っている。牛嶋神社は遷座した際に、かなり力を入れて整備されたのがよくわかる。
R: 墨田区立の隅田公園から眺める墨田区役所。なおこの辺りには、かつて水戸徳川家の下屋敷「小梅邸」があった。隅田川に沿うように北上すると、三囲(みめぐり)神社である。祭神は宇迦之御魂命で、つまり稲荷系の神社だ。
かつて空海が建立した祠を文和年間(14世紀半ば)に三井寺(→2010.1.9)の僧・源慶が見つけ、改築すると壺が発掘された。
中には老翁の神像が入っており、白狐が現れてその周囲を三度巡って去っていったそうで、それで「三囲」とのこと。
この神社はなんといっても三井グループの守護社として知られている。三井家の本拠だった江戸本町から見て鬼門にあり、
享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。また、「囲」の文字を「三『井』を守る」と解釈できることもある。
訪れてみると、なかなかの湿り気を感じさせる稲荷の雰囲気。1884(明治17)年に社殿が大改修され、それが現存している。
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L: 三囲神社。参道が見番通りからまっすぐ北へと分岐している。 C: 境内入口。 R: 拝殿。手前にはしっかり狐。
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L: 本殿。 C: 境内社もものすごい勢いで稲荷だらけである。 R: 文化年間以来、隅田川七福神の恵比寿と大国神を祀る。
2009年に閉店した三越池袋店のライオン像が寄贈されている。
斜めに矩形の街路を無理やりまっすぐ東へ行くと高木神社である。こちらは押上で、まだ旧本所区域となるのだ。
高木神社は1468(応仁2)年の創建で、かつては第六天社という名称だった。その後、明治の神仏分離の際に、
祭神・高皇産靈神(タカミムスビノカミ)の別名が「高木の神」ということで高木神社となったとのこと。
また、「ムスビ」ということで、多数のおむすびがデザインされた御朱印やら御守やらが用意されている。
『からかい上手の高木さん』(→2016.4.20)とのコラボも行っているようで、かなり攻めの姿勢を見せる神社である。
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L: 高木神社の北の鳥居。 C: こちらが南の鳥居。どうして二手に分かれているのかはわからない。 R: 進んでいって拝殿。
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L: 本殿を眺めるが、脇にテントが置いてある。なんだか巫女姿のキャラクターのスタンドポップがあるぞ。
C: おみくじコーナーとなっていた。机と椅子がちゃんと学校で使っているやつ。 R: 消しゴムおみくじだと。
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L: 御朱印帳もなかなかあざとい。 C: 引いてみた消しゴムおみくじを家で確認。 R: 毒にも薬にもならない結果だった。すぐ南が飛木稲荷神社である。暴風雨で飛んできたイチョウの枝が刺さって育ち、大木になった、というのが名の由来。
また、鎌倉幕府が滅亡した後に北条氏の一門がこの地に逃れてきて、稲荷大明神を祀って創建された、という話もある。
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L: 飛木稲荷神社。鳥居の先にイチョウ。墨田区で最古のイチョウだそうで、戦災で焼けたけど復活したとのこと。
C: 参道を進んでいって拝殿。 R: さらに奥へ進むと日枝神社。江戸時代から末社の山王社として鎮座していたそうだ。
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L: 本殿を眺める。 R: 本殿の後ろには奥社。狐の像が置かれてしっかり稲荷感がある。この辺りまでが旧本所区と考えられる。押上から文花に入り、旧向島区の探索に移る。正午を過ぎて後半戦である。
なぜか千葉大学が工学部100周年を記念して今年4月に墨田サテライトキャンパスを開設しており、ちょっと寄ってみる。
すみだ中小企業センターを改修したそうだが、特に面白い要素はなかったのでスルー。どうにも狭くて窮屈である。
千葉大学墨田サテライトキャンパス。いきなり旧向島区の狭さの洗礼を受けた感じ。
曳舟たから通りを南下して、五叉路の脇に鎮座しているのが、小村井(おむらい)香取神社である。
平安末期に千葉県の香取郡から6軒の人々が開拓目的で小村井に移住し、香取神宮(→2018.11.21)を勧請して創建。
1916(大正5)年ごろまでは木々が鬱蒼と茂っていたそうだが、現在はきれいに整備された地元の中心の神社という印象。
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L: 小村井香取神社。 C: 参道を進んで左手に神楽殿。 R: 奥の拝殿。現在の社殿は1954年の築とのこと。
本殿。
続いては「こんにゃく稲荷」こと三輪里稲荷神社を目指す。そのまま北上していったのだが、まっすぐな道路が印象的。
しかしスマホの指示どおりに西に入ったところ、恐ろしく複雑な込み入り方をした路地が延びていて、思わず眩暈がした。
地図を見ると一目瞭然だが、整然とした街路が広がる旧本所区とはまったく違い、旧向島区はくねった路地の世界なのだ。
そこを昔からの主要な道はゆったりとしたカーヴで抜けていき、後からつくられた道路は広くまっすぐ豪快にぶった切る。
同じ墨田区なのにあまりに空間が違うので、大いに戸惑う。これは歴史的経緯に起因する。旧本所区が明暦の大火の後、
湿地帯を市街地として大規模に開発していったのに対し、旧向島区はもともと農村地帯。原地形を反映した造りの田畑が、
そのまま宅地化していったわけだ。明暦の大火以前からしっかり陸地で「向こうの島」だったことの証拠というわけか。
旧本所区も旧向島区も都市化という点では共通しているが、そのスタート地点の差が決定的な形で顕在化している。
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L: 十間橋通り。店舗・街灯・街路樹が昔ながらのスケール感で並ぶ。ゆったりと曲がる様子も主要な道であったことを物語る。
C: 八広はなみずき通りと並走している東側の道路。後からつくられた道は、定規で引いたようにとことんまっすぐである。
R: しかし一本脇に入るとこのような光景。旧向島区における標準的な住宅地は、旧本所区とは正反対。同じ墨田区とは思えない。半ばワケがわかんなくなりながら、どうにか三輪里稲荷神社に着いた。出羽国は湯殿山の修験者が羽黒大神を勧請し、
1614(慶長19)年に創建された。こんにゃくである理由はわからないが、風邪をはじめ喉の病に効くということで、
毎年2月の初午の日に「こんにゃくの御符」を今も授与している。その御符を模した御守もちゃんとあるので頂戴する。
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L: 三輪里稲荷神社。八広の住宅地のど真ん中、いきなり空き地のような境内でびっくりした。 C: 拝殿。 R: 本殿。
神楽殿と神輿庫。住宅がひしめく中、ここだけは江戸時代と変わらないんだろうなあと思う。
くねる路地をそのままグリグリ西へ抜けて、曳舟駅に出る。東武と京成それぞれに駅があるが、「曳舟」という地名はない。
かつては1659(万治2)年に開削された曳舟川が流れていたが、1950年代から埋め立てられ、現在は曳舟川通りとなっている。
旧向島区役所があったのは駅の少し北で、上述のように本所区との合併で墨田区が成立後、墨田区役所第二庁舎となった。
そして現在の区役所が完成した後の1994年、「ユートリヤ」の愛称を持つすみだ生涯学習センターがこちらに建てられた。
設計は長谷川逸子・建築計画工房ということで、まあいかにもハセイツらしい無駄で安っぽい装飾がいっぱいの建物である。
(初めて湘南台文化センターの写真を見たときには、こんな褒めるところのない建築が実在すんのかよと驚愕したものだ。)
ユートリヤについては、妹島と同じような安っぽいガラス(→2010.8.22)を金属の表面でごまかしただけ、という印象。
敷地の内側に入るとファサードをやたらめったら複雑にしているが、見苦しい。ただ掃除を大変にしているだけだろう。
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L: すみだ生涯学習センター「ユートリヤ」。南東から見たところ。周囲が住宅の密集地で、よくまあこんなものを、と思う。
C: 東から見たところ。これが正面入口っぽい。真ん中を通り抜けられるようになっており、北(右)がA棟、南(左)がB棟。
R: 北から見たところ。とにかく周囲に余裕がないので、全体を眺められる箇所が限られている。右は東武伊勢崎線の高架。
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L: 西の東武線側から敷地の中に入って振り返ったところ。右がA棟、左がB棟。 C: A棟の1階は墨田区東向島出張所である。
R: A棟の中に入ってみた。たいへん安っぽいが、1994年竣工と考えるときれいにしてあるとも思う。左奥が窓口だがシャッター。
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L: こちらはB棟。ギャラリーやホールなどが入る。4階にはプラネタリウムがあり、週末を中心に上映するとのこと。
C: そのまま右を向いて、東の敷地入口付近から見たところ。右がA棟、左がB棟。 R: さらに右を向いてA棟。西へ向かって隅田川方面へ。向島百花園は向島区めぐりの最後に訪れることにして、その先にある白鬚神社に参拝する。
951(天暦5)年に近江国の白鬚大明神(白鬚神社)を勧請して創建。旧寺島村の氏神で、隅田川七福神の寿老人でもある。
墨堤通り沿いに玉垣があるが、参道入口は通りの一本東。境内は一段低くなっており、昔ながらの位置にあることが窺える。
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L: 墨堤通りの一本東側の道路から拝殿が見える。そして一段低くなっているのがわかる。周囲が堤防で高くなっていったわけだ。
C: 正式な参道入口はさらにもうちょっと東。墨堤通りの一本東の道路と一緒にカーヴしており、前近代の感触。 R: 拝殿。
拝殿に近づく。放火で社殿が全焼してしまい、1992年に再建された。
墨堤通りの西側には都営白鬚東アパートが1km以上にわたって壮大に並んでおり、なんとも独特な景観となっている。
ここはもともと鐘淵紡績東京工場などがあった場所で、上述の横網町公園をはじめとする墨田区の悲しい歴史から、
防災拠点機能を持った団地として再開発され、1982年に完成。団地の建物じたいが防火壁の役割を果たすという発想が凄い。
(鐘淵紡績は後のカネボウ。超多角経営で僕は子どもの頃、何の会社かわからなかった。化粧品を残して2008年に消滅。)
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L: 都営白鬚東アパートの南端。白鬚橋(→2020.12.26)を渡ってくるとこちら。 C: もう見るからに要塞。迫力が違う。
R: 水神大橋から東に来るとこちらの13号棟と14号棟で、中は防災備蓄庫となっている。この裏が鐘淵紡績東京工場の跡地。白鬚東アパートと隅田川の間はやはり防災機能を持った東白鬚公園となっており、その一角に隅田川神社が鎮座している。
治承年間に源頼朝が祈願したそうだが、創建時期は不明。隅田川が増水しても沈まなかったので「浮島」と呼ばれたそうだ。
要塞のような高さ40mの壁の脇に、前近代の土の匂いが色濃く残る神社がある。ある意味、東京らしい場所かもしれない。
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L: 隅田川神社の鳥居は白鬚東アパートの足元にあった。ちゃんと参道が間を通っている。災害時には閉まるんだろうけど。
C: 境内の鳥居は北東端。 R: 参道を進んでいくが、境内はしっかり川原っぽいというか、やや湿った土の匂いがする。
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L: 拝殿。後ろの首都高速の高架がやっぱり不思議な感じ。 C: 本殿。 R: 境内社。昔からほとんど変化がない感触だ。これはリドリー=スコット的なアジア空間の極端な実例だよなあ、と思いつつ、本日ラストの神社へ向かう。
今度は東へ行って、荒川の手前に鎮座する隅田稲荷神社に参拝するのだ。広い道路を走るのは単純明快でいいが、
ゴール直前で路地に入ると途端に攻略スピードが落ちる。先ほどと同じ旧向島区感覚をイヤというほど味わう。
隅田稲荷神社に到着しても、やはり周囲が複雑で正式な境内入口がよくわからない。荒川に向いた東側が正解のようだ。
天文年間、伊豆から開拓にやってきた江川善左衛門が伏見稲荷大社から勧請して創建。大正時代に荒川放水路開削で遷座。
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L: 隅田稲荷神社。住宅の中に埋もれるような形で鎮座している。表参道は荒川と向き合う東側でいいようだ。
C: 参道を進んで境内に入る。周りに余裕がなくコンパクトな割には堂々とした感じで整備されている。 R: 拝殿。
本殿。三輪里稲荷神社と対照的だが、これもまた旧向島区らしい神社だと思う。
せっかくなのでそのまま荒川を北上し、墨田区の北端まで行ってみることにした。都道449号・新荒川堤防線を走るが、
さすがに荒川の堤防ということでやや歴史を感じさせる造り。また西側に墨田区の住宅地がびっしり広がっているのを見ると、
先ほどのド派手な火災対策もあって、東京の東側に広がる低地に住むということの大変さというか覚悟というかが窺える。
河岸段丘の盆地で扇状地で田切地形で育った僕には想像のつかない生活環境である。人間とは逞しいものですなあ。
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L: 墨田区の荒川河川敷は無限に野球場だらけ。そういえばサッカー部顧問時代に墨田区はサッカーグラウンドが皆無と聞いたが。
C: 新荒川堤防線から見下ろす住宅地。これまた茫洋と広がっている。 R: 新荒川堤防線を行く。高低差があるよなあ。
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L: いったん足立区に入って堀切駅。新荒川堤防線との高低差がすごいことになっている。なお「堀切」は荒川対岸の葛飾区の地名。
C: 隅田川方面に戻り、旧綾瀬川に架かる綾瀬橋を眺める。 R: 綾瀬橋の南詰周辺がカネボウの旧本拠地。カネボウ化粧品が残る。ではいよいよ向島百花園にお邪魔するのだ。向島百花園のある場所はもともと旗本の多賀氏が屋敷としていた土地で、
骨董店を営む佐原鞠塢(きくう)が買い取ると文人たちの協力を得て花園をつくり、1804(文化元)年ごろに開園させた。
つまり民営の植物園というわけである。なお「百花園」の命名者は、江戸琳派(→2017.10.31)でおなじみの酒井抱一だと。
民営としての百花園の歴史は1938年まで続いたが、寄贈を受けた東京市はその翌年から有料での制限公開を再開した。
東京大空襲で全焼してしまうものの1949年に復旧し、1956年には国の名勝の指定を解除されるも1978年に再指定された。
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L: 向島百花園の入口。向島百花園といえば、矢吹丈が紀ちゃんとのデートの約束を反故にしたっけなあ(→2011.10.14)。
C: 花の棚。藤に限らず季節によっていろいろ楽しめるみたい。 R: 萩のトンネル。1949年に地元有志が寄贈。全長約30m。
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L: 園内には句碑をはじめ多数の石碑がある。これは「月岡芳年翁之碑」。芳年(→2023.3.6/2024.4.13)の七回忌に建てられた。
C: 回遊式という感じではないが、園内には南北に長い池がある。 R: 池を別の角度から。奥にスカイツリーが見える。
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L: 竹が植えられている一角。 C: 御成座敷。1958年に集会施設として再建。 R: 隅田川七福神の福禄寿はこちら。
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L: 売店もなんだか風情がある。 C: 四阿の辺りは広場のような感じになっている。 R: 江戸時代もこんなんだったのか。
せっかくなのでトーキョーサイダーをいただいた。
百花園というからには花の写真も撮らねばなるまい。目に付いたものを節操なく激写していっただけで申し訳ないが、
テキトーにトリミングしたりしなかったりして貼り付ける。撮って調べて、作業がかなり大変だけど勉強になりますね。
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L: キキョウ。 C: オミナエシ。シジミチョウがいいアクセントでございますね。 R: ヒオウギ。
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L: トウゴウギク。東郷平八郎がイギリスから持ち帰ったと言われる花で、百花園で唯一の外来種とのこと。
C: オイランソウ(正式な名前はクサキョウチクトウ)。 R: こちらもオイランソウ。見事な色違いでありんす。
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L: フヨウ。ハイビスカスに似ていると思ったら、どちらもフヨウ属。ちなみに一般的なハイビスカスはブッソウゲが正式な名前。
C: カノコユリ。 R: カセンソウかオグルマのどっちか。区別つかねえよ。「オグルマ属」ということで勘弁してください。
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L: センノウ。京都の嵯峨にあった仙翁寺に由来とのこと。 C: カワラナデシコ。 R: コバギボウシ。漢字で「小葉擬宝珠」。季節の花を堪能すると、いったん隅田川の右岸に出て墨田区を脱出する。やはり最後は隅田川越しに区役所を眺めたいのだ。
しかしこの浅草からの眺めにもすっかり慣れてしまった。アサヒビールタワーとスーパードライホールを初めて見たとき、
あまりの品のなさに言葉を失ったものだが。これも〈浅草的なるもの〉(→2020.12.26)の消化能力によるものだろうか。
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L: 墨田区役所とアサヒビールタワー。 C: そのまま視線を左に移すと東京スカイツリー。 R: もう少し南に寄って眺める。
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L: スカイツリー、墨田区役所、アサヒビールタワーがそれぞれ並ぶように撮影してみた。
C: 別の角度でもう一丁。 R: 吾妻橋のたもと、浅草の水上バス発着所。こちらは「道灌」ですかな。
「ヒミコ」か「ホタルナ」。松本零士デザインだと。
ひととおり写真を撮って満足すると、墨田区に戻ってすみだ北斎美術館を見学。感想は近いうちに書きます。
その後は錦糸町に寄ってマルイの地下にあるスーパーで伊佐美を買い込む。そして秋葉原に駐輪して本日は帰宅。
明日も今日と同じように山手線で“出勤”して、秋葉原から江東区に攻め込むとするのだ。東京は便利でございますね。それにしても今日の日記がこれほどのヴォリュームになるとは思わなかった。墨田区は想像していた以上に興味深かった。
自転車で走りまわったことで、明暦の大火の影響の大きさを空間的にしっかりと実感できた。本当に大事件だったのだ。
そう考えると、偶然とはいえ、両国回向院からスタートしたのは実に正しかったと思う。とことん勉強させてもらった一日。
今日は「TOKYO SWEEP!! 23区編」の第11弾ということで、台東区の西側、旧下谷区をテーマに自転車で走りまわるのだ。
前回(→2020.12.26)からなんと、半年以上のブランク。同じ台東区なのに正反対の季節というのはさすがに申し訳ない。さて今年は東京オリンピックのせいで祝日が移動しており、今日は「海の日」である。もはや祝日の概念が崩壊している。
「海の日」じたいが賢さゼロのこじつけであるところに、この乱暴な扱い。逆か。こじつけだからいいかげんに扱えるのだ。
まあとりあえず、こちらとしては休みを一日使って動きまわるだけである。秋葉原経由コースで8時半には上野公園に到着。
しかし日が陰っていたので、撮影は後回しにして三ノ輪方面に出て、前回ラストの鷲神社の北西にある千束稲荷神社へ。
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L: 千束稲荷神社。鳥居から参道が少し斜めに入って拝殿に至る。 C: 拝殿。 R: まわり込んで本殿。千束稲荷神社は寛文年間の創建と推測されるとのこと。「千束」とは、かつては浅草橋周辺から千住大橋の辺りまで、
かなり広大な範囲を指した。南側の浅草寺境内には上千束稲荷があり(現存せず)、北側は下千束稲荷が氏神だった。
その下千束稲荷の後身が千束稲荷神社なのだ。樋口一葉が近所に住んでおり、『たけくらべ』ゆかりの神社である。
千束稲荷神社の境内にある樋口一葉の像。
南下して鷲神社に近づいていくと、「飛不動」こと正宝院である。1530(享禄3)年に修験道の僧である正山が創建。
住職が本尊の不動尊を背負って大峯山へ修行に出たところ、本尊が一夜のうちに江戸まで飛び帰ったということで、
「飛不動」と呼ばれるようになった。その伝承から航空安全のご利益があり、小惑星探査機はやぶさの帰還も祈願された。
なお、「飛ぶ」とはいえ、近所の鷲神社は関係ないみたい。あっちは妙見系でこっちは修験道。どっちも明治に苦しんだが。
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L: 「飛不動」こと正宝院の入口。 C: 本堂。明治の修験禁止令により現在は天台宗系。 R: 境内の休憩スポット。茶屋町通りから北へ行くと台東区立一葉記念館である。地元・竜泉寺町(竜泉)の人々は一葉の顕彰にかなり熱心で、
記念館の用地を取得すると台東区に寄付して建設を要請し、1961年に開館。女性作家の単独文学館としては日本初とのこと。
その後、樋口一葉が五千円札の肖像に採用されたこともあり、2006年に柳澤孝彦設計の現在の建物にリニューアルされた。
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L: 台東区立一葉記念館。 C: 隣の一葉記念公園から意地でファサードを撮影。 R: 内部の展示。なんせ24歳の若さで亡くなっているので展示資料は厳しいのではないかと思ったが、説明を充実させて乗り切っている。
山梨県の塩山には、旧高野家住宅「甘草屋敷」に樋口一葉資料室があった(→2018.4.3)。本当に尊敬されているのだ。
僕は博物館だの記念館だのを訪れるのはいいが、結局は肝心の作品をきちんと読んでいないので、反省するのであった。
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L: 一葉自筆『にごりえ』未定稿。古筆切のように掛軸に仕立てられていた。 R: 『吉原今昔図』。たいへん興味深い。とりあえずこれで竜泉エリアの探索は終了ということで、本格的に下谷エリアに入っていく。ちなみに「下谷」とは、
上野台地の下、谷間にある場所ということで付いた地名である。でも上野公園は旧下谷区に含まれているのが不思議。
どうしても上野駅の存在感が強いので、当時の下谷感覚がイマイチわからない。むしろ上野の名称の方が後からなのか。国道4号を西へ入り、三島神社に参拝する。その名のとおり、伊予国一宮・大山祇神社(→2011.2.20/2015.5.6)を勧請した。
1281(弘安4)年の元寇の際、河野通有が大山祇神社に戦勝祈願して大活躍。その帰りに夢で武蔵国に三島大明神を勧請せよ、
とのお告げを受けて上野にあった自分の館に祀ったのが由緒である。その後、遷座と勧請を繰り返しつつこちらに定着。
境内の井戸には雷を封じ込めて二度とここに落ちないと約束させた伝説があり、それにちなんだ不落(落ちない)守がある。
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L: 三島神社。 C: 境内摂社の火除稲荷神社。もともとここは火除地で、その稲荷神社の社地に三島神社を勧請してきたのだ。
R: 拝殿。周囲が宅地化していて境内はかなりコンパクトな印象だが、拝殿もそのせいかだいぶ幅がない造りになっている。
通りに出て眺める本殿。敷地の余裕のなさがわかるなあ。
南へ行くと小野照崎神社である。「小野」は主祭神の小野篁、「照崎」は上野の旧鎮座地の地名。852(仁寿2)年の創建で、
寛永寺の建立により現在地に遷座した。若き日の渥美清がこちらに煙草断ちして願掛けしたところ車寅次郎役をゲットした、
という逸話は有名だが、公式サイトにはなぜか名前が出ていない。そういう些末なところが気になってしまうではないか。
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L: 小野照崎神社の社号標。 C: まっすぐ行って境内入口。木の両側に鳥居が2つあってなんだか複雑。社殿も斜めを向いている。
R: 南側の入口の方が鳥居がはっきりしているが、小さくて裏参道っぽい雰囲気。なんともややこしい構造をしているなあと思う。小野照崎神社の社殿は1866(慶応2)年の築で、この辺りの神社では珍しく関東大震災と東京大空襲の被害を免れている。
境内がすっきりした構造になっていないのは、歴史が残っているからか。本殿の横には浅間神社こと富士塚「下谷坂本富士」。
本物の富士山の溶岩を積み上げて築かれ、夏越の大祓(6月30日)と富士山の開山(7月1日)の2日間だけ一般開放される。
なお、神社の公式サイトでは1782(天明2)年築とのことだが、区の案内板では1828(文政11)年の築。どっちや。
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L: 拝殿。西と南、両方の参道に対して約45°の角度で建っている。 C: 本殿。 R: 隣に下谷坂本富士。社号標は「浅間神社」。御守を頂戴すると、さらに南へ行って真源寺。いわゆる「恐れ入谷の鬼子母神」で知られている寺なのだが、
いざ行ってみたら近代的な寺なのであった。寺は比較的自由とはいえ(→2021.1.16)、もうちょっと風情がないものか。
なお真源寺では子育の善神になったということで、鬼子母神の「鬼」をツノのない字で表記するのが正式とのこと。
区の案内板はきちんと使い分けを徹底しており、そこだけきちんとしているのがまたなんとももったいないのであった。
「入谷鬼子母神」こと真源寺。七夕の前後3日間に開催される朝顔市でも有名だと。
さてこの真源寺のすぐ隣にある建物が、僕にとっては重要なのだ。1926(大正15)年竣工の旧台東区立坂本小学校である。
1923(大正12)年の関東大震災の後、鉄筋コンクリートで再建された小学校を「復興小学校」と呼んでいるのだが、
当時最先端の耐震・不燃建築をまず小学校に採用した辺りがいかにも日本。明治期の擬洋風建築の学校と同じ精神と言える。
(この流れが地方都市に波及した例として、僕の母校である飯田市立追手町小学校を紹介しておく。→2006.8.13/2015.8.14)
デザイン的には最初期の鉄筋コンクリート建築ということで、表現主義的な装飾が施されたものが多くみられた。
さすがに分離派建築会(→2020.12.13)ほど強烈ではないが、要素として曲線を大胆に取り込む、そういう方向性である。
なお、旧坂本小学校は厳密には復興小学校ではなく、それと同時期に建て替えられた「改築小学校」となるようだ。
阪東義三(東京市営繕課)の設計で、1996年に閉校するまで使用されたが、今年3月に区議会で取り壊しが決まった。
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L: 真源寺から見た旧坂本小学校。 C: 正面玄関へとまわり込む。アーチの曲線が実にモダン。 R: 角度を変えて眺める。もうひとつ、さらに南へ行って台東区役所のすぐ北にあるのが、旧台東区立下谷小学校だ。こちらは被災エリアなので、
復興小学校となる。具体的な設計者の名前はわからないが、東京市の設計により1928年に竣工。わずか2年の差だが、
旧坂本小学校と比べて装飾性が薄い。同じモダンでも、こちらはかなりインターナショナルスタイルの印象が強い。
1990年の閉校後は岩倉高等学校の代用校舎などに使われたそうだが、ツタがすごいことになっていた(→2007.6.20)。
おかげで「東京の廃虚」呼ばわりされていたみたい。活用の方針が決まらないが、こちらも取り壊しの可能性が高そう。
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L: 旧下谷小学校。あらためて見るファサードは質実剛健。 R: 台東区役所の脇、南西から見たところ。ではいよいよ台東区役所である。かつての旧東京市15区時代には下谷区役所があった場所に今も建っている。
もともとこの周辺は広徳寺の広大な境内だったが、関東大震災によってそのほとんどが焼けてしまった。
復興にあたり広徳寺は墓地や塔頭を下練馬村に移転させ、その跡地に下谷区役所・上野警察署・下谷小学校が移った。
そして台東区役所の拡張計画を受けて、1971年に広徳寺の本体も練馬区に移転した、という経緯がある。
現在の台東区役所が竣工したのは1973年で、設計は久米建築事務所(現・久米設計)。1986年に10階部分を増築し、
2014年に大規模改修が完了した。周囲は震災復興当時のスケール感が残っているため、とにかく狭くて撮影がつらい。
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L: 台東区役所。震災復興当時の建築スケールが残った影響で、とにかく敷地に余裕がない。撮影が本当に大変だ。
C: 意地で横の構図でも撮影してみる。 R: 近づいてファサードを撮ろうとするが、この角度が限界である。
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L: エントランスを含めてファサード。 C: 意地で南側から見た台東区役所の東半分。 R: 南東から。これが限界。
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L: 東側の側面。 C: 北東から見た背面。これが限界。 R: 北西から。オレがんばった。限られたアングルで全力を尽くしてヘトヘトになってしまった。南へ行くと下谷神社で、浅草通りに大鳥居がある。
下谷神社は730(天平2)年、峡田稲置らが大年神・日本武尊の2柱を上野忍ケ丘に祀って創建されたという。
都内で最も古い「お稲荷様」で、明治に入って下谷稲荷町という町名ができた。現在は銀座線・稲荷町駅に名が残る。
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L: 浅草通りに面している下谷神社の大鳥居。 C: 進んでいって境内入口。 R: 鳥居をくぐって神門。
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L: 左に手水舎。彫刻がなかなか。 C: 右に舞殿。境内はいろいろ密度高めな印象。 R: 神門をくぐって拝殿。
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L: 本殿。社殿は関東大震災後の1934年に竣工しており、第二次世界大戦では被害を受けなかった。
C: 境内の端にある隆栄稲荷神社。 R: コンパクトだがかなり雰囲気のある狐塚。さすが都内最古の稲荷神社。上野駅の正面玄関口を見ながら線路の西側へと移動する。上野駅の駅舎は1932年の竣工で、2002年にリニューアル。
いかにも1930年代らしいシンプルさがそのまま維持された外観となっている。東京の北の玄関口にふさわしい堂々たる姿だ。
JR上野駅の正面玄関口。なお日本初の地下鉄は1927年に浅草駅と上野駅間で開業(銀座線)。
高架下を抜けると上野アメ横商店街である。正しくはアメヤ横丁だが、公式サイトでは「アメ横」表記を崩さない。
現在も戦後の闇市の雰囲気を残している貴重な空間である。年末に正月向け食品の売り出しで大騒ぎになることでおなじみ。
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L: アメ横商店街を行く。これは南から見たところなので、右側がガード下店舗。御徒町駅から上野駅まで500mほど続いている。
C: オーニングテントと雑多に積まれた商品が闇市感を増幅する。 R: 東西方向にも増幅して独特な雰囲気を漂わせている。アメ横商店街のだいたい真ん中辺りにあるのが、「下谷摩利支天」こと徳大寺である。江戸時代初期は寛永年間の創建で、
1708(宝永5)年に聖徳太子作とされる摩利支天像を迎えた。闇市の影響で移転も検討されたが、1964年に伽藍が再建された。
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L: 「下谷摩利支天」こと徳大寺。アメ横商店街の勢いに押されているが、山手線からだと非常にいい感じに溶け込んで見える。
C: 石段を上って境内。コンパクトな中に鐘楼や日蓮上人像、イノシシの像など、寺らしくさまざまな要素を詰め込んでいる。
R: 西側はオープンスペースっぽい雰囲気。ちなみに境内の下、1階部分は二木の菓子や二木ゴルフの店舗となっている。御守を頂戴してアメ横商店街を脱出すると、西へ行って旧岩崎邸庭園へ。江戸時代には榊原康政の屋敷だった場所で、
明治に入ってからは所有者を変えつつ、1878(明治11)年に三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎が購入して本邸とした。
現存する建物3棟は旧岩崎家住宅として国の重要文化財に指定されている。潤平が藝大を受けたとき、課題で写生したそうだ。
公的な接客空間の洋館と撞球室はジョサイア=コンドルの設計で、生活の場だった和館は大河喜十郎の設計と推定される。
洋館と和館は1896(明治29)年の竣工で、撞球室は翌年以降の完成と言われている。建てたのは弥太郎の長男・岩崎久弥。
なお、本日は祝日なので中の撮影はできなかった。混雑しない平日はOKということで、いずれぜひリヴェンジしたいものだ。
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L: 旧岩崎邸庭園の入口。南東から入って坂を上りながらぐるっとまわり込む。 C: 洋館の手前にある袖塀。
R: 北東から見た洋館。真正面からだとヒョロヒョロと生えているシュロが邪魔で、どうしても斜めのアングルになる。
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L: 北西から見たところ。 C: 東から見た和館。 R: 東から洋館と和館をセットで眺める。なお、芝庭は復元工事中。
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L: 意地で眺める洋館南側のベランダ。 C: 洋館を南東から。 R: 東側。1階のサンルームがたいへん印象的だった。
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L: 離れて北東に建っている撞球室。スイスの山小屋風につくったそうだ。実は地下通路(非公開)で洋館と結ばれている。
C: 中を覗き込む。撞球とはビリヤードなのだ。残念ながらビリヤード台は現存せず。 R: 西側の側面。なるほどスイスっぽい。かつて和館の大部分があった箇所には司法研修所が建てられたが、その建物を改修して国立近代建築資料館としている。
企画展のみの簡素な施設で、ちょうど「丹下健三1938~1970」をやっていたのでウハウハ言いながら見学したのであった。
写真を撮ったらそれなりのヴォリュームだったので、内容のレヴューはまた後日。おそらく来月のどこかで書きます。
不忍池。南からのアングルで、真ん中に辯天堂。
旧岩崎邸庭園を後にすると、いよいよ上野公園の中に入る。まずは不忍池辯天堂から。参拝は2回目だ(→2015.12.5)。
江戸城の鬼門ということで南光坊天海が現在の上野公園の土地を与えられ、1625(寛永2)年に寛永寺を創建する。
辯天堂は天海が不忍池を琵琶湖、その中の島を竹生島に見立て、宝厳寺(→2008.2.2/2015.8.7)にあたる堂宇として創建。
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L: 辯天堂への参道。かつては完全に島で、船で参詣したそうだ。 C: 辯天堂。1958年の再建。 R: 辯天堂の脇にある大黒天堂。では本格的に上野公園の中に入っていくのだ。上述のとおり、かつては広大な寛永寺の伽藍があった場所である。
1868(慶応4)年の戊辰戦争では旧幕府軍の彰義隊が寛永寺に立てこもったため、一帯が焼け野原となった(上野戦争)。
その後、1873(明治6)年の太政官布告で東京府公園に指定され、「東京で初めてつくられた公園のひとつ」となった。
というわけで、ここでようやく、「東京で初めてつくられた公園5ヶ所をめぐる企画」の上野公園編をリヴェンジである。
(第1回が深川公園(→2002.8.25)、第2回が飛鳥山公園(→2002.8.31)、第3回が上野公園(→2017.6.6)。
この3箇所については写真がなかったり内容がかなり粗っぽかったりで、リヴェンジ必須というわけなのだ。
第4回が芝公園(→2020.8.17)、第5回の浅草公園は前回の旧浅草区でやったけど現存しない(→2020.12.26)。)
ところが1876(明治9)年、上野公園は東京府から内務省博物局に移管され、博物館に所属する公園地となった。
翌年、内国勧業博覧会が開催され、1881(明治14)年には国立博物館本館(ジョサイア=コンドル設計の旧本館)が完成。
1890年(明治23)年に上野公園は帝室御料地となり、1924(大正13)年に東京市に払い下げられた。以上が大まかな経緯。
正式名称を「上野恩賜公園」というのはこのためである。現在は東京都建設局が管轄する都立公園となっている。
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L: 上野公園前の交差点から見た公園入口。これが正面っぽい。 C: 入口の中央には「上野恩賜公園」と彫られた卵形の石碑。
R: おなじみの西郷隆盛像。隆盛は高村光雲、犬のツンは後藤貞行の作。皇居前広場の楠木正成像(→2018.8.2)と同じ合わせ技。北上していくと清水観音堂である。こちらも6年前に訪れているが(→2015.12.5)、あらためて参拝しておくのだ。
1631(寛永8)年の築で国指定重要文化財。上野戦争も関東大震災も東京大空襲もくぐり抜けているのはすごいことだ。
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L: 前回とは異なるアングルで眺める清水観音堂。西郷隆盛像から来るメインストリートには背を向けているのだ。
C: 前回とほぼ同じアングルで眺める清水観音堂。舞台上だとこれしかないのよ。 R: 舞台。下はきちんと懸造。
不忍池を望む舞台の方を見たところ。
さらに北上しつつ西側に寄っていくと、五條天神社。日本武尊が東征の際に薬祖神の大己貴命と少彦名命を祀ったそうで、
寛永寺が創建されるずっと前から上野山に鎮座している古社である。昔から「天神」という名前が付いていたのだが、
それなら菅原道真を祀らねばということで1641(寛永18)年に天海が合祀。現在地に遷座したのは1928年とのこと。
なお五條天神社の東隣には花園稲荷神社が鎮座しているが、こちらは境内社ではなくて独立している神社である。
天海の弟子・晃海が1654(承応3)年に再興。むしろ五條天神社が移ってくる前からこの地にあり、五條天神社を迎えた格好。
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L: 五條天神社と花園稲荷神社の東側入口。扁額は「花園神社」。 C: 参道には鳥居がいっぱい。 R: 花園稲荷神社。
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L: 五條天神社も花園稲荷神社も南側が表参道になる。こちらは五條天神社の鳥居で、この右奥に花園稲荷神社の鳥居がある。
C: 鳥居をくぐって五條天神社の境内。なお、花園稲荷神社はやはりこの右奥になる。 R: 五條天神社の拝殿を正面から。御守を頂戴すると、北へ行って上野大仏。最初は1631(寛永8)年に建立された、粘土を漆喰で固めた大仏だった。
しかし地震で倒壊し、青銅製となり、仏殿ごと火災で焼け、再建され、地震で破損し、修復し、と苦難の歴史を歩んできた。
そして1923(大正12)年の関東大震災で頭がもげると資金難で再建できず、そのまま戦争になり顔面以外を金属供出。
1972年に顔面をレリーフとして安置し、現在の姿となった。「これ以上落ちない」ということで受験生に人気なんだと。
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L: 上野大仏の入口。 C: 顔面だけとなった上野大仏。往時の写真がきちんと置かれている。 R: 1967年建立の大佛パゴダ。上野大仏から北に行くと、上野東照宮の参道である。やはり6年前に訪れたが(→2015.12.5)、あらためて参拝する。
詳しくは前回のログで書いたとおりだが、こちらも上野戦争も関東大震災も東京大空襲もくぐり抜けて社殿が残った。
それだけにいくらデジカメのシャッターを切っても飽きることがない。都会で味わうことができる最高の家光好みである。
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L: 前回クローズアップしなかった神門。実は1651(慶安4)年建立の手水舎を戦後に移築して改造したもの。
C: 参道がしっかり長い。並ぶ石灯籠も見事で、200基以上あるそうだ。 R: 神楽殿。1874(明治7)年の築。
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L: 手水舎。柱が石造なのは珍しいと思う。 C: 参道を挟んだ反対側にも手水舎があるが、大きな鈴が吊り下げられている。
R: 前回参拝時もクローズアップした透塀。彫刻は257枚あり、上段は野山の動植物、下段は水の生き物。これも国指定重要文化財。
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L: 正面から見た唐門。 C: もちろん拝観料を払って透塀内に入る。これは唐門の裏側。 R: 拝殿。
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L: 拝殿の細部を眺めてみる。ただただ美しい。 C: 本殿。実に権現造である。 R: 狸を祀る栄誉権現社。大正時代の奉献。ではここからは上野のDOCOMOMO物件をクローズアップする。まずは上野の森美術館の北隣である日本芸術院会館から。
公式サイトによると、日本芸術院は「芸術上の功績顕著な芸術家を優遇するための栄誉機関」。その会館ということで、
会員の会議や日本芸術院授賞式などに使われるそうだ。なお不定期に日本芸術院所蔵の美術作品を一般公開もするそうだ。
とりあえず外観を眺める。吉田五十八の設計で1958年竣工だが、金をかけてリニューアルしているのか古びた感じはない。
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L: 北東からエントランスを見たところ。 C: 南東から。 R: 南端の棟。モダニズムである。
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L: 角度を変えてクローズアップ。 R: 北側。これくらいしか見られるアングルがない。その北にあるのが東京文化会館である。前川國男の設計で1961年オープンなのは前に書いたとおり(→2010.9.4)。
上野駅の公園口から出てくるとこいつが派手にお出迎えである。でもきちんと中に入ったことはないんだよなあ。
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L: 東京文化会館。公園口から出てくるとこのアングル。 C: エントランスに近づいてみる。 R: 北東から眺める。
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L: エントランス付近から建物の北側を眺めてみたところ。 C,R: 北側ファサードはこんな感じである。
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L: 北西側。Cafe HIBIKIのテラス席となっている。 C: 北西側のエントランス。 R: 西側を南へ進んでみる。
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L: 南西側。ホールがそびえる。 C: 南側から覗き込んでみる。 R: 角度を変えてさらに覗き込む。
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L: 南東側に出た。こちらは楽屋口。 C: 北東から見た東側のファサード。 R: 右を向いて北東エントランス。一周完了。上野にはあと2件DOCOMOMO物件があるけど、国立西洋美術館は前に撮った(→2009.8.30)のでパス。
東京芸術大学図書館・絵画棟・彫刻棟については、大学の施設なので入る度胸がなくてパス。すいません日和りました。
だってまだなんとなくコロナ自粛ムードが蔓延しているんだもん。関係者じゃないとあちこち入りづらい世の中。
いずれ大学美術館の企画展でお邪魔する機会があると思うので、そのときに余裕があったら見ることにします。
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L: 国立科学博物館の日本館。中については過去ログ参照(→2017.6.6)。なんだかんだで定期的に見学しているなあ。
C: 寛永寺旧本坊表門。寛永年間の築で国指定重要文化財。上野戦争のど真ん中でよく残ったなあと思う。弾痕が多く残るそうだ。
R: 「両大師」と呼ばれる輪王寺。もともとは寛永寺の開山堂で、東京で唯一の門跡寺院とのこと。つまり寛永寺の一部ってこと?
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L: 旧因州池田屋敷表門。もともとは千代田区丸の内3丁目にあった。6年前に撮ったけど(→2015.12.5)、今回あらためて撮影。
C: 東京国立博物館(北)側から見た竹の台広場 (噴水広場)方面。 R: 反対側から。いかにも上野恩賜公園って感じだぜ。上野公園の北西端付近には東京都美術館。前川國男の設計で1975年に竣工したが、DOCOMOMO物件にはなっていない。
翌年竣工の熊本県立美術館は2017年にDOCOMOMO物件に選定されたのだが、イマイチ基準がよくわからないところだ。
2012年にリニューアルが完了してかなりきれいになったが、茶色でいかにも典型的な前川美術館建築だと言えよう。
(「コンクリ前川」と「レンガ前川」について書いた過去ログはこちらを参照。→2014.6.28/2014.7.12)
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L: 東京都美術館。左が公募棟で右が企画棟。都美術館は東京都現代美術館の開館以降、公募展と企画展に特化した美術館となる。
C: 公募棟。4つの公募展示室が並ぶ構成。 R: エントランスは地下1階。いったん下がることで各棟への分散を自然にしている。
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L: グラウンドレヴェルから見た公募棟(西側)。 C: 東側、企画棟との間からも地下のエントランスへのアプローチが可能。
R: やはりグラウンドレヴェルから見た美術館の入口方面(南)。さっきと逆のアングルなので、右が公募棟で左が企画棟。
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L: 地下1階に下りてエントランス。 C: さっきの東側を地下1階レヴェルから見たところ。 R: 北東端。実にレンガ前川である。以上で上野恩賜公園については完了とするのだ。西へ抜けていく途中に東京芸術大学があるので、入口だけ撮っておく。
しかし藝大には憧れがありますなあ。僕は学士が一橋、修士が東工大なので、なんとかして藝大で博士号を取れないものか。
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L: 前も撮ったけど(→2015.12.5)、旧博物館動物園駅。 C: 東京芸術大学の美術学部が南側。 R: 北側は音楽学部。藝大音楽学部のキャンパスを東へとまわり込むと、寛永寺である。やはり6年前にも訪れているが(→2015.12.5)、
あらためて参拝する。さんざん上野公園を動きまわった後で寛永寺に来ると、その静けさがなんともひどく心に沁みる。
賑わいを失った寂しさと、よけいな喧噪を離れて研ぎ澄まされた逞しさと。寺としては今の方が望ましい姿なのかもしれない。
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L: 寛永寺の根本中堂。まずは正面から。 C: 北から見た側面。 R: まわり込んで側面と背面。さすがに立派ですよ。寛永寺を後にすると、谷中霊園方面へ向かう。周辺はここから西日暮里の辺りまで南北に寺町が広がっており、
航空写真を見ると墓地の広大さに江戸の歴史を実感させられる。谷中界隈が寺町になったのはやはり寛永寺が端緒だが、
17世紀半ばに幕府の政策で神田付近から多くの寺が移転。また、1657(明暦3)年の明暦の大火(いわゆる振袖火事)も、
寺が移って寺町が形成される要因となったそうだ。7年前に姉歯のみんなで谷根千を歩いたときも思ったが(→2014.3.16)、
見ているとどうも日蓮宗のひげ文字(髭題目)が目に付く。谷中霊園付近の大きい寺ということで天王寺にお邪魔したら、
案内板にヒントがあった。天王寺はもともと土豪・関長耀の屋敷があった場所で、日蓮が宿泊した際に自分の像を刻んだ。
その像を奉じて結んだ草庵から13世紀後半に日蓮宗の感応寺が創建されたが、不受不施派だったため幕府から弾圧された。
結局寛永寺と同じ天台宗の寺院として存続し、1833(天保4)年に日蓮宗に戻る動きを抑えて天王寺に改称した経緯がある。
つまり周辺は日蓮関連の聖地だったのだ。なおかつて天王寺には幸田露伴『五重塔』のモデルとなった谷中五重塔があった。
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L: 護国山天王寺。山門がやたらモダンスタイル。 C: 本堂。しっかりコンクリートの柱だが、なんとなく奈良時代っぽい造り。
R: 境内には日蓮宗時代の1690(元禄3)年につくられた銅造釈迦如来坐像があり、台東区有形文化財となっている。
谷中霊園を行く。周囲に高い建物がないので、東京とはちょっと思えない風景。
谷中霊園を抜けて谷中銀座方面へ。7年前に来て以来である(→2014.3.16)。幅の狭い道に店舗がひしめいており、
コロナの影響がなんとなく漂う昨今でもかなりの賑わいである。新しい建物なんかもあって、ずいぶんパワフル。
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L: いわゆる「夕やけだんだん」。7年経ってもクソダセエとしか思わん。 C,R: 谷中銀座は相変わらずの賑わいだった。谷中霊園で北上した分を寺町で南下しながら戻る。言問通りで山手線の外側に出ようと思って進んでいくと、
途中で「谷中のヒマラヤ杉」のY字路に出た。やっぱり7年ぶりだが、伐採されて1本だけヒョロッと残った姿になっていた。
さらに進んでいくとオーギョーチ(愛玉子)の店。7年前に食ったなあ(→2014.3.16)。懐かしい気分になるのであった。
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L: 谷中のヒマラヤ杉。7年前はもっとワサワサしていたが。 C: オーギョーチ(愛玉子)。7年前には店舗を撮っていなかった。
R: 言問通りに面する旧吉田屋酒店。やはり7年前の日記でも写真を貼り付けているけど、今回も撮っちゃう。変化ないなあ。
言問通りで山手線を越える。東京スカイツリーがちょうど真ん中に見える。
これで下谷の辺りに戻ってきた。せっかくなので三ノ輪の交差点まで行く。15年前の五色不動めぐりでは入れなかった、
目黄不動の永久寺(→2006.5.4)に参拝するのだ。門は開いており、入って左手のお堂の前に「目黄不動尊」の石碑。
まさか15年経って五色不動めぐりをコンプリートできたとは。きちんとお参りできてよかったよかった。
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L: 目黄不動の永久寺。今日は門が開いていた。 R: 入って左手のお堂。目黄不動はこの中ということでいいのかな。以上で旧下谷区めぐりは完了である。最後に寺と住宅を中心に下谷区内での違い、そして旧浅草区との違いを書いてみる。
まず旧下谷区は下町型住宅が基本だけど、寺で色がついている感じ。大まかに西から根岸・下谷・入谷として考えるが、
寺の要素が西ほど強く、東へ行くほど下町型住宅とのせめぎ合いとなる印象である。浅草へ向けてグラデーションがある。
そして旧浅草区はもっとドロッとしている(→2020.12.26)。言葉は悪いが、なんとなく怨念のようなものがある。
まったく科学的根拠のない印象論でしかないが、寺が周囲の空間の前近代性を吸い込んでいるような気がするのである。
寺が寺として存在感を持つ根岸はマンションとの両立を果たし、寺の存在感が弱まる下谷では住宅の俗性が滲み出て、
さらに住宅の密度が強まる入谷は浅草に近い雰囲気となる。旧浅草区域北部には矩形の住宅地が延々と広がっているが、
浅草寺の影響を離れた空間は、震災と空襲を経て、無限の俗性がスプロールとして溢れ出た土地となったように思える。
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L: 根岸。寺を核としながらマンションなど背の高めの住宅が道路沿いに並ぶ。道路も幅があって少し開けた印象を受ける。
C: 下谷。住宅は比較的低層で、いかにも下町という雰囲気がよく残っている。寺の存在感はやや弱く、道路が微妙に曲がる。
R: 入谷。ほぼ矩形の街路に背がやや高めの住宅が並ぶ。山谷ほどではないが、あのガサガサ感がなんとなくうっすら漂う。まあとりあえず、以上で台東区も走破完了である。明日は墨田区で、下町というものについてさらにきちんと考えたい。
録画しておいた『ラブライブ! The School Idol Movie』をようやく見た。ラブライブの最初のやつの映画版ね。
『ラブライブ!』については、前にかなり気合いを入れてレヴューを書いている。われながら気持ちが悪いぜ。
*第1弾「他作品との比較による『ラブライブ!』総論」(→2018.12.9)
*第2弾「キャラクター造形論」(→2018.12.14)
*第3弾「組織論/時間論」(→2018.12.17)
*第4弾「身体論/空間論」(→2018.12.20)
詳しいことはこれらを参照のこと。映画版についても基本的には同じ感想である。やってること一緒だな、と。
映画はさらに、印象的なシーンをつなげるだけで話を進めるから、ミュージカルとしての要素を強引に混ぜてくるから、
思わせぶりな御都合主義のキャラクターを出すから、物語としては本当に支離滅裂。脚本の崩壊ぶりが凄まじい。前に書いたレヴューと同様、「スクールアイドル」というエクスキューズを前面に出してμ'sのラストダンスを描く。
ただそのためだけの映画。しかしそこに存在する価値観は、TVシリーズと同じかそれ以上の異常性で貫かれている。
最後、秋葉原をジャック状態にしてすべてのスクールアイドルが歌って踊る。秋葉原とわかる背景ではあるが、
そこはただの舞台空間にすぎず、ヴァーチャル色が非常に強い。記号としての秋葉原空間を占領するスクールアイドル。
興味深いのは、ここにおいて「みんながスクールアイドル」というエクスキューズにより観客がいなくなることだ。
唯一の男性(顔は出さない)である高坂穂乃果の父親は、最初サイリウムを持って観客の側に立っているのだが、
後で家族と一緒に踊って、アイドル側と同化すると解釈できる状態となる。演じ手しかいない秋葉原空間が完成する。
それはつまり他者、「誰かのために」が存在しない、自分のやりたいことだけが存在する世界だ。どこまでも自分優先。
現実には、演じ手とはつねに他者からの評価に晒されているが、すべてが演じ手になって観客が存在しなくなった結果、
自己評価だけが絶対的なものとして残る。それは自己満足の世界ということだ。完全にバランスを欠いた気持ち悪さだ。
きわめて自己中心的。誰かが私たちのためにすべてをお膳立てしてくれる世界。独りよがり。正直、吐き気がした。レヴューで書いたとおり、やはりμ'sは自ら終焉を選び、それによって無数のスクールアイドルの種が撒かれた。
そうして『ラブライブ!』は仮面ライダーやプリキュアを目指すのだろうか。たぶん、サンライズのゴールはそこにある。
『劇場編集版かくしごと ―ひめごとはなんですか―』。アニメ(→2020.8.25)に新規カットを加え、79分にまとめている。
アニメを見ていた人には、楽しいギャグが削られた残念さの方が大きいかもしれん。時間的にしょうがないけど。
最も久米田節の炸裂している温泉旅館の回を入れているのはさすがだ。映画館で見る久米田節はかなり強烈だった。
正直なところ、姫ちゃんを崇めるための作品という気もする。前髪ぱっつんに興味のない羅砂派の私にはそんな印象。
しかしやっぱり、原作マンガの空気感をしっかり映像化できているアニメだと思う。アニメというより動くマンガ。
それくらいのクオリティである。でもわざわざ映画化しなくても、TVアニメでもう十分に思えてしまうなあ。うれしいのは、特典で後日談が描かれた小冊子が配られたこと。映画が落ち着いてほとぼりがさめたら公開してほしいね。
さあ、今日からテスト返却だ!と意気込んで出勤したら、生徒がPCR検査陽性ですべてお流れなのであった。
これはもう、どうしょうもない。お大事にどうぞ、である。しかしこれが今後もちょこちょこ出るとなると大変だ。着替えに使ったという部屋の除菌作業に当たる。アルコールで机や椅子を拭いていくのだが、微妙に面倒である。
そして思うのは、この状況下でオリンピックとかマジで狂気の沙汰だなあということ。陽性のたびに誰かがこの作業。
しかもそれは陽性が発覚してからの話で、疑わしきは罰せずの精神で勝手に動いちゃう外国人多数。止められない。
発覚したところで政府にしろ東京都にしろきちんとした数字を出すとは思えない。嘘をつくのが平気な人たちですので。呆れるのが、小山田圭吾の問題。これってかなり有名な話で、最初からわかっていたも同然のことじゃないか。
だから音楽担当就任のタイミングで正直に表に出して謝罪するしかなかった。そのうえで作品で信を問うしかなかった。
昔のことをほじくり返して糾弾するのは気持ちのいいものではないが、この件はまだ正式に謝罪していないはずだから、
きっちりけじめをつけないと前には進めない。過ちに対しては、ごまかすことなく正直に対応すること以外に正解はない。
自分の非を認めないことや嘘をついてごまかすことは、われわれが子どものときには最も怒られることだった。
でも今は、それを権力者側が平気でやっている。そしてそれを許す狂った人々が一定数いることが絶望的である。
教員をやっていても、日本人の美徳は風前の灯火であると実感することが多い。外憂以前に自滅へまっしぐらだ。それにしても、僕はずーっとオリンピックに反対してきたけど、地雷をことごとく踏んでいくことに呆れるしかない。
後世に残す壮大なギャグとしては趣味が悪いし、ダメージも大きい。オトナのいない国になっちゃったね、日本は。
表現の不自由展にまったく興味はないが、邪魔はいかんよ。表現されたものに対する賛否は自由だが、
表現の機会を奪うことは当然、許されることではない。気に入らなきゃ、勝手にやらせて無視すればいいのである。自称保守が焦れば焦るほど民主主義が遠のく逆説を見抜けないのが悲しい。それは保守ではなく全体主義なのだ。
本当に民主主義であるならば、共産党をはじめとする反体制の団体を飼っておく余裕ぐらい見せなさいよ、と思う。
そういう懐の深さを見せてこそ、尊敬を集められる本物の保守であろう。余裕がないことが、いちばん危険である。
リンガーハットの「梅肉と鶏むね肉の冷やしまぜめん」は、今まで食ったすべてのメシの中でいちばん無国籍。
いや、旨いんだけどね。ちょっと油が強くて油そば風なのがまた無国籍。多国籍料理というよりは無国籍料理なのね。
マスクとチュッパチャプスの相性が悪すぎる!
ふだん授業を持っていない生徒と話す機会がたまーにあるが、わりとよく「体育の先生かと思った」と言われる。
こちとら体育会系の要素ゼロで生きてきた人間であり、どこにそんな印象を与える要素があるのか理解に苦しむ。ひとつ言えるのは、おっさんになって太ったというか、体の厚みが増してしまったことが、原因としてありそう。
熱海ロマンをやっているときにはラガーマンである奥田くんの体の厚みに驚き、鍛え方が違うなあと思ったものだが、
気がつけば僕もそれくらいには体に厚みが出てしまっているのである。こちとら、ただ漫然と太っただけなのに。
そして何をやっても痩せないのだ。コメを食わずに野菜だけ食っても体型が元に戻らない。体重が落ちない。そういうバックグラウンドを抱えているのを知らない生徒は、無垢な瞳で「体育の先生かと思った」と言うのだが、
それを言われるこっちとしては、何をやっても維持されてしまう体脂肪率を突きつけられてしまうのである。泣きたい。
Illustratorで割付作業をしていて思うのは、出版社の経験はなんだかんだでかなりプラスに作用しているということ。
現状においては特にテストづくりで威力を発揮しているわけだが、基本的な考え方を学べたことは大きいと思う。
おかげで自分でも惚れ惚れするような見てくれで仕上げることができる。だからどうだというわけでもないが、
そしてこの能力をもっと世間に役立つ形で活用できんものかとも思うが、出版社時代を肯定できるのはうれしいことだ。
なんでかわからないのだが、職場における僕のアカウントは名字に「nun」って文字がくっついたものなのだ。
本当になんでかわからない。「ヌン」ってなんだよ、「ヌン」って。勝手にあだ名をつけられた気分。小学生以来かよ。「ヌン」というと、まず思い浮かぶのは、熊本を走る産交バスの産太くんだヌン。公式サイトもあるヌン(⇒こちら)。
こいつが最初に出てくるあたり、僕の旅行バカを超えたバカ旅行ぶりがうかがえるわけで、自分でも反省しているヌン。あとはエジプト神話で、あらゆる存在の起源とされて「原初の水」と呼ばれる海が「ヌン」という名前だそうで。
水の神様でもあるらしい。そして世界の終りがやってくると、すべてのものは再び原初の海へ飲み込まれるとか。
なかなか悪くないではないか。海なし県の出身がオサレな港町で「ヌン」のあだ名をもらって働くとかカオスである。ちなみに「nun」は英語で「修道女」であり、ドイツ語で「今」。いろいろあるもんだ。面白がってやるヌン。
今週はテストじゃー!ということで、いつもよりずっと早く職場に乗り込んで大急ぎで最後の準備。
尋常じゃないドタバタぶりを乗り越えて、いざテストが始まるぜ、というタイミングでストップがかかるのであった。
理由は……職員側でPCR検査陽性が出てしまったから。いや、これはもう明日は我が身。お大事になさってください。それで本日のテストはすべてキャンセルとなり、明日以降の方向性が定まるまでおとなしく過ごすのであった。
夕方はスケジュール調整などの仕事に少しだけ関わる。今のところ最小限の余波で切り抜けられそうな感触だが、
誰がいつ2人目になってしまうかわからない。そうなりゃまた予定の組み直しである。いろいろ綱渡りですよ。
『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうかII』。前に見たやつ(→2015.12.18)の2期。
特に感想はない。序盤でピンチにしておいて、攻城戦をたった1話で終わらせて、ああ徹底してエンタメなのねと。
だからつられて必要以上にドキドキする必要はなく、どうせハッピーエンドになるに決まっているでしょと、
気楽に構えていればいい話なのである。単なる消費の対象に、こちらがエネルギーを注ぎ込む必要はないだろう。
本当にそれだけ。ほとんどのファンは裏切ってほしくないだろうから、これでだいたいの底が見えた感じ。
ひっさびさに晴れていい天気で(鹿児島は大雨で土砂災害らしいが……)、近場を自転車でまわりつつテストづくり。
本当なら旅行のかわりに東京23区めぐりを進めたいのだが、とてもとてもそんな余裕がないくらい追い込まれていて。
夏休みに東京23区めぐりをがんばろう!と切り替えていたら緊急事態宣言じゃねえか。足を引っ張られっぱなしな気分。
とにかく、この週末で世界史をロールアウトまでもっていかないといけないのだ。この「あと一息」が本当によく逃げる。
捕まえようとしても手元をスルッとすり抜けてしまう、そんな感じで課題が次々に現れる。キリがないでごわす。
テストが来週からということで、追い詰められております。どれだけ必死で作業しても、仕上がるまでが遠い。
いち早くチェックにまわした現代社会は、思いのほかミスが多かった。やはり3科目同時並行のテストづくりはつらい。
1年目の今年はとにかく経験を積むことが大事なので、すべてを前向きに捉えて全力でやっている。うーん、がまん!
前に「緊急事態宣言ごっこ」って書いたけど(→2021.1.8)、またしても効果のよくわからない宣言が出た。
結局のところ政府が責任を取らずに自粛を求めてばかりなので、受け手の良識で差が出るのは当たり前なのだ。
そしてそんな宣言を出している中でオリンピックをやっちゃうって神経がわからんぜ。アタマ完全にイカレてんな。
都合が悪いことがあるから、それを隠すために強行するんだろうな。嘘を平気でつく社会との戦い(→2018.4.13)。
いわゆる「分断」はよくないのだが、あんなクソと一緒にすんなよってことで分断せざるをえないのが正直なところ。
連日の冷や汁攻勢である。キュウリを切って大葉を刻んで薬味セットとともにメシに載っける。
マルコメの冷や汁の素をかけて水を足せば一丁あがりである。顎関節症にもまずまず優しい流動食。
宮崎を旅行して以来、僕としてはすっかり夏の定番となっているのだが(→2016.3.21/2017.8.21)、
世間でも冷や汁人気がだいぶ浸透してきてうれしい。今年の夏は宮崎にいる気分になって乗り切るつもり。
周りの社会の先生はみんな歴史の人なので、地理人間の僕はものすごい疎外感を勝手に感じておるわけです。
彼らにとっての当たり前が、僕の当たり前と違うので。まあよく考えたら僕は高校時代には理系だったので、
根本からしてまったく違うのである。僕にとっての高校の基準が理系にあるってことを実感させられる毎日だ。
毎日マジョリティを相手に過ごしていて、自分もマジョリティの思考をトレースすることを無意識で要求されて、
いやいやいやそれは偏っているよ、と言いたくなることが本当に多い。みんな自分の偏りに気づけてないよ、と。
なにその偏りを標準にしてんだよ、と。でも誰もついてこないので、孤高を気取って歴史を勉強する日々なのだよ。
(ちなみに公民では倫理がぶっちぎりでいちばん好きなので、その点もまた、わかりあえない要素がマシマシなのだ。)そんな日々であらためて思うのは、地理で一橋に入った僕はかなりの変わり種だったんだなあということ。
HQSの連中やゼミテンを振り返っても、みんな歴史で入試をくぐり抜けた人ばかりで、地理の人に会ったことがない。
地理で一橋に受かった人って、どれくらいの比率になるのだろうか。今さらだけど、ものすごく気になってきた。
センターの理科は物理で2次試験は地理という典型的な理系崩れだったけど、そういう一橋生はどの程度いるのか。
数学でいい点とって受かる人は優秀だと予備校で聞いたが、地理で受かる人は相対的に優秀なんでしょうか。
いや、優秀であると信じたい。そこに自分のアイデンティティを置いてもいいんじゃないか。いや、置かせてください。
大島康徳が亡くなった。タフに闘病されている印象だったので、衰えるときは急激なのかな、と勝手に思う。
それだけに、「よかった元気そうじゃん」が当たり前になってからの訃報なので、よけいにショックである。
でも亡くなった後に公開された「生ききった」のコメントが本当にかっこいい。そう言いきれることが羨ましい。中学校に名球会マンガがあったおかげでプロ野球の歴史についての知識をつけることができた自分には、
名球会に入っていて現役の大島は特別な存在感があった。中日時代については後追いになったのは残念だが、
シブくて明るい日ハムで元気いっぱいの大ヴェテランなんだから、応援しないわけにはいかなかった。
特に現役最後の1994年に西武の新谷から打った満塁ホームランには大いにしびれたなあ。いまだにわからないのが、なぜ大島が日ハムで「11」という完全に投手向きの背番号をつけていたのかということ。
でもその後にダルビッシュと大谷がつけたことで、最高に特別な番号になっていったのが感動的だった。
プロ入りした大谷が11番と聞いたときは、日ハムで二刀流をやるには最高の番号だなあと心の底から納得したものだ。
海の向こうでは今まさに大谷がバカスカホームランを打っているが、その大先輩のホームランを僕は忘れませんよ。
ひたすらテストをつくっているのだが、現代社会は意外と快調にロールアウト寸前までこぎつけた。
世界史はストーリーの流れをいろいろ試行錯誤していたら、問題づくり自体は悪くない感触である。
ただ、問題数と点数のバランス調整に手こずりそう。記述で説明させる問題が多めなのもちょっと不安なところだ。
いちばんヤバいのは日本史で、なかなかすっきりとした問題ができない。あんまり重箱の隅はつつきたくないのだが。やってみて思ったのは、日本史は知識を問う問題になりがちで、世界史は流れを確認する問題になりがちってこと。
不思議と差が出てしまう。日本史の場合にはまず覚えなくちゃいけない事項が多く、それを出すだけで点数が埋まる。
対照的に世界史は国と国の絡み方が重要なので、比較して考えさせる事例に事欠かない。けっこうキリがない。
特に今回は、日本史の範囲の中心が中央集権な律令制であることも影響してか、両者の差をかなり激しく感じる。
どっちも同じ歴史だが、縦に掘り下げる感触の日本史と、横に糸を張りまくる世界史は、性格が違うのだ。びっくり。
熱海の土石流には本当に驚いた。あんな衝撃的な映像が出てくるとは、すごい時代だなあとも思う。
場所は伊豆山神社(→2015.12.27)のすぐ近くということで、僕も実際にバスで現場を通ったことがある。
高低差のある細く曲がりくねった道は「1次元の線が全力で3次元空間を暴れまわっている感じ」だったが、
運転手さんは軽快にバスを操作する。それがものすごく印象に残っていて、すごい土地だったなあと今も思う。
しかし、そこを土石流は一気に削り取っていったのだ。住民のみなさんの無事と早期復帰を祈るしかない。さて今回の土石流、原因としてメガソーラーの建設が関係しているのではないかという指摘がある。
素人の僕に、その是非はわからない。感情的になるのではなく、冷静に検証することがまずは必要だ。
しかし一番の懸念は、正しい検証結果がきちんと伝えられるのかどうか、そこにある。
誰かにとって都合のいい情報だけが流されるんじゃないか、そこが大いに心配なのである。
トップが平然と嘘をつく世の中ですから。嘘を疑う人に対して「反日的」というレッテルを貼る世の中ですから。
期末テストに向けて、顎の調子は悪くなる一方である。いったん改善したと思ったらかなりの悪化。本当に困る。
ワクチン接種券が届いたのはいいが、ニュースによると国から自治体へのワクチン供給が滞っているそうで。
さて先日、睡眠時無呼吸症候群の診察の際、保険証を見た院長と雑談になり、僕は教員やってます、という話になった。
そしたら院長は「オリンピック対策で、築地市場の跡地で警察官と消防士にワクチンをバカスカ打ってるよー。
それでいて教員がまだってのは順番が違うよねー。権力に近い方から接種するんだねー」とのたまうのであった。
この影響で自治体の分が足りなくなっているとしたら、なんとも国民をバカにした話だよだなあと呆れるばかり。
マスコミも「足りない」ってことしか報じないし、何もかもが腐っておりますな。これが日本の現実的なんだなあ。