diary 2025.3.

diary 2025.4.


2025.3.25 (Tue.)

結局映画館で見てしまった『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』。ネタバレなしで書くのは不可能だわコレ。
ポイントが貯まったので「面白い」と評判……ではなく、「面白いことになっている」と評判の『白雪姫』と迷ったが、
ここ最近の出費の激しさを反省し、やっぱり無駄遣いはやめようと、好意的な評価を見かけるGQuuuuuuXにしたのだ。
「ザクが出てこねえガンダムなんてガンダムじゃねえよ」が僕の持論なのだが、どうも出るらしいので見たわけで。

そもそもGQuuuuuuXを「ジークアクス」とは読めないのである。おそらく理由は、まずツッコミ待ちでの話題づくり。
そしてもうひとつ、「ジークアクス」と簡単に読めてもらっちゃ困る、という問題があるのだろう。
最初にこのタイトルの読みを聞いたとき、「ジークジオン!」のジオンがアクシズってことなんだろ、と直感した。
見てみたら半分当たりで半分はずれって感じか。アクシズが主役というわけではないけど今後どうなるやら。

いざ始まると、まさかの展開に脳がついていけない。大混乱である。物語をどう受け止めればいいのかたいへん困った。
庵野秀明共同脚本ということもあってか、さまざまなロボット作品に対するオマージュがかなり頻繁にみられる。
今までアニメをそんなに見てきたわけではないのでそうとう見落としは多いと思われるが、気づいた限りでは、
軍警はパトレイバーだろう。エヴァを彷彿とさせる立ち方もある。もちろんガンダムシリーズからの引用もある。
ジャンク屋は明らかにΖΖ、ガンダム同士の格闘も確かそうだし、よく知らんけど百合は水星の魔女なんでしょたぶん。
設定の違和感をそのままに、最初から最後までハイテンポで各種オマージュが盛り込まれ、脳が本当に疲れた。

しかしこの作品、本当にどう受け止めればいいのだろう。ガンダムはついにここまでやっちまったか、という感じ。
庵野ブランドとはいえ、二次創作がシリーズにはめ込まれたってことだ。完全な私的二次創作の公式化(→2007.11.9)。
本筋を否定する内容は、僕にはご法度に思えるのだが。「世界線」「異世界」というおたく用語で消化されたのか。
この据わりの悪い感じがどうにも苦手だ。フィクションの「if」が成立するまでにガンダムの歴史はリアルとなったのか。

さらに掘り下げて考えるに、庵野チームがやろうとしていることは、ガンダムという絶対的な力を借りることによる、
評価の低かった不遇な作品の救済が目的なんじゃないか。また、不遇なキャラクターの救済が目的なんじゃないか。
上述のΖΖは残念ながら評価が低いし(→2018.4.16)、ガンダム同士が格闘するやつもパッとしない(名前覚えてないし)。
そういった作品の要素を拾い出して再評価につなげようとしているように思える。シャリア=ブルなどキャラもそうだ。
そもそもが、原作ではジオン軍が敵役で敗者ということで不遇なのである。不遇への救済、これがキーワードではないか。

それにしても、アンキー(ジャンク屋の女リーダー)は明らかに『ナディア』(→2008.2.20)のグランディス姐さんだ。
もし「不遇への救済」が貫徹されるなら、グランディス姐さん的なアンキーはネモ船長的なシャリア=ブルとくっつくね。
この予想が当たったら僕のことを盛大に褒めてください。っていうか、そういう同人誌が出そうやん。



2025.3.23 (Sun.)

横須賀美術館で『生誕120周年 サルバドール・ダリ ―天才の秘密―』をやっているので見てきたよ。
3年ぶりの横須賀美術館(→2022.3.5)はやっぱり遠かった。横須賀ってだけでも遠いのに、観音崎の手前で本当に遠い。

 横須賀美術館。美術館をハシゴして行くには少々キツい立地である。

ダリといえばやはり、シュルレアリスムの第一人者というイメージが強い。スペイン出身ということで、
地中海性気候を思わせるくっきり感はあるけど、キリコ(→2024.7.30)ほどではなく、モチーフは多様な印象。
作風は基本的に、透視図法の三次元空間の中に自分の興味のあるものを置く、ということで説明できそうな感じ。
この感覚は立体作品のブロンズ像でも共通しているようで、主役のオブジェがドン!と大きく真ん中にあるのだが、
端にはそれを眺める子どもの手を引いた大人がセットでいる。つまり平面上に現れた不条理な対象ということなのだろう。
そしてこの構造を、圧倒的な描写力でリアリティたっぷりに表現するわけだ。細部まで再現できる想像力と技術が凄い。

この展覧会では比較対象となる他のシュルレアリスム作家も押さえており、たいへん親切な展示ぶりなのであった。
(マグリットが匿名性にこだわるのに対し、ダリは作家性を前面に押し出す点に違いがあるそうだ。言われると納得。)
ダリはありえない風景を描いて受け手に最大のインパクトを与えるが、個人で抱えるテーマもしっかり両立されている。
でも作品を鑑賞していても、ダリ個人の圧倒的な価値観を押し付けられる感じがあまりないのは不思議である。
クソみたいな抽象画にあるような自己満足の匂いがしないのだ。一緒に面白がりましょう、という雰囲気を感じる。
(『聖三位一体と三司教』なんて、雑っぽいけどちゃんとそう見えるからとんでもない。単なる抽象画とは別次元だ。)
ダリ自身の芸術家としての強烈なプライドが作品に込められているけど、イヤではない。そこが偉大ってことなのだ。
一言で表現するなら「ピエロ感」となるのか。岡本太郎(→2020.8.192022.10.22)と同じ、踊らにゃ損々という感じ。
そういう姿勢が最も出ていたのが、フィリップ=ハルスマンによる写真『なぜなら芸術を愛しているから』である。
これには爆笑した。有名なポートレート写真だけが撮影可能だったけど、できることならそっちを撮らせてほしかった。
国内でダリといえば諸橋近代美術館(→2009.6.11)だが、コレクションから多数貸し出されていて、その凄みを実感。

 ダリといえばこの写真だが、ぜひ『なぜなら芸術を愛しているから』もチェックしてほしい。

ミュージアムショップで感心したのは、ちゃんとチュッパチャプスを売っていたこと。たいへんよくわかってらっしゃる。
チュッパチャプスのロゴはダリがデザインしたのだ。レストランで依頼されて、ダリはその場でナプキンに描いたって話。

 横須賀美術館、たいへんよくわかってらっしゃる。

帰りは馬堀海岸駅まではバスで、そこから京急で一気に横浜へ。どうもこのパターンがいちばんスムーズであるようだ。
で、横浜駅に着くと晩メシどきで、ポルタの玉泉亭に直行して横浜名物のサンマーメンをいただくことにした。
サンマーメンとは、あんかけ野菜炒めが載っているラーメンである。伊勢佐木町の玉泉亭は元祖の店のひとつ。
たいへん腹が減っていたので大盛を注文したら、ホントに大盛なのであった。そしていかにも本格中華な細麺。

 サンマーメン大盛。

母体のラーメンがきちんとした中華料理屋のラーメンということで、醤油スープが穏やかな風味で旨い。
ただ、ラーメンに炒めた野菜を載っけただけ感なのは否めない。正直、他のメニューでおいしそうなものがいっぱいあり、
サンマーメンで喜んでいるやつは素人、通はもっと他のものを食べるもんね!って感じなのではないかと思ってしまった。
他の客を観察したところチャーハンが死ぬほど旨そうだったし、実際注文する客も多かったので、いずれぜひ食いたい。



2025.3.20 (Thu.)

注文していた新パソコンが本日届いたのであった。2代続いた富士通から移籍して、VAIOに出戻りであります。
気がつきゃ日本のパソコン事情は大きく変化しており、富士通もNECもパソコン事業は中国のレノボ傘下だそうで、
なんとも淋しいものである。「日本のメーカー」にこだわると本当に選択肢が限られる。で、今回はVAIOにしたのだ。
こないだ寄った安曇野から出荷しているそうで、穂高神社に「VAIOがもうソニータイマーから解放されてますように」と、
お祈りしてきたのだ(→2025.3.15)。そんなわけで名前は「HOTAKA」と命名。ネイヴィーブルーがしっくりくるぜ。

 お安く買ったのでメモリー8GBがちょっと心配。さあ、何年行けるか。

お安く買ったのでスペック的には少々不安がないでもないが、そんなに激しく使うこともないはずなので大丈夫だろう。
起動すると初期設定のダウンロードにたいへん時間がかかる。処理速度が上がっても詰め込む内容が増えれば変わらん。
クラウドのおかげでデータの持ち越しがわりと簡単なのはありがたいが。一段落つくと、Adobeの3本柱を導入する。
IllustratorとPhotoshopとDreamweaverがないとどうにもならん。サブスク地獄だが(→2024.3.1)2台いけるのはうれしい。
そしてiTunesを投入。だんだんと「いつものぼくのパソコン」になってくる。淋しくもあり、頼もしくもあり。

しかし最近のモデルにはBlu-rayドライヴがぜんぜんついていないのね。みんなネット配信ばっかりになっちゃったのね。
MP3づくり作業もあるし、先代の「futsutama 2nd」(→2019.10.6)の出番はまだまだありそう。仲良くがんばれ。


2025.3.19 (Wed.)

朝、駅までの道を歩いているときには霰がバカスカ降っていて、なかなか珍しい「強い霰」なのであった。
雨と違って濡れないで済むので助かるなあと思いつつ列車に揺られるが、走っていても霰がぶつかる音が聞こえる。
溝の口駅に着いてバスを待っていると変わらず霰がバカスカ降ってくる。バスも遅れて7時台から混乱している。
バスに乗って少し行くと、すぐに大粒の雪へと変わった。こないだの松本(→2025.3.16)に負けない雪景色である。

 今シーズンいちばんの雪がここで降るとは。

おかげで学校行事は予定変更を余儀なくされたのであった。でも午後にはしっかり晴れて、雪は跡形もなく消えた。
まるで夢だったんじゃないかってくらい、帰る頃にはいつもの光景。なんだかタイムスリップしたような気分である。


2025.3.18 (Tue.)

ここ最近、歩くたびに左膝が痛くて、我慢の限界を超えたというよりは新年度にならないうちに対策を練ろうと思い、
朝イチで医者に行く。予約がないので待たされるのは承知の上。有吉佐和子『華岡青洲の妻』の文庫本を持ち込み対応。
レントゲンを撮るまでは想定どおりだったが、そこからが異様に長く、なんと『華岡青洲の妻』を読破してしまった。
1ページ目から始まって最後までですぜ。凄まじい混雑ぶりだったのは事実だが、それにしてもびっくりである。
おかげで昼メシも食わずに急いで職場に行ったけど、14時からの会議に少し遅れた。ニンともカンとも。

診断結果はいちおう軽度の半月板損傷。まあどうせ原因は加齢と肥満のダブルパンチってことだろうと勝手に自己分析。
思ったよりもひどくないようなので、食生活を適度に見直しながらじっくり回復を待つとする。ニンともカンとも。


2025.3.17 (Mon.)

東京シティビューで開催中の『手塚治虫「火の鳥」展』を見てきたのであった。
『ブラック・ジャック展』(→2023.10.19)に続く手塚スペシャルという感じでございますね。まあ大歓迎ですけど。
ちなみに『ブラック・ジャック展』についてみやもりは「掘り下げが足りねえよ」とキレていたが(→2024.1.27)、
今回は福岡伸一の解説がその「掘り下げ」にあたる模様。僕としては正直そこにはあんまり興味がなくって、
それよりは各編それぞれのファンである各界著名人に3人くらいずつコメントしてもらった方がよかったなあと思う。

 夜だとなかなか写真が難しい。撮影可能なのはここだけ。

『火の鳥』については前に書いたが(→2003.9.42010.2.16)、僕にとっては「日本代表の究極の芸術」である。
日本を代表する芸術作品を全ジャンルの中から1個選べ、と言われたら迷わず『火の鳥』。そういう存在なのだ。
だからどうしても空いている状況でじっくり見たかったのである。それであえていちばん遅い時間帯に突撃した。
おかげで存分に原画に酔うことができた。今回の展示では特に、一枚絵の芸術性をきちんと押さえていた印象である。
物語を展開するコマももちろんいいけど、1コマで状況を客観視しつつ読者に衝撃を与える絵の凄みをあらためて実感。

『火の鳥』が作品として特別なのは、エンタテインメントである以上に、人間の「業」を描ききっている点にある。
(立川談志は落語を「人間の業の肯定」と言いきったが、まさにその領域。ただ『火の鳥』は「肯定」までいかない。)
人間の背負う「業」、それは人間性の裏返しそのもので、切り離すことができない。その苦しみがあらゆる形で綴られる。
まあこれはむしろ「人間の業」というよりも、「生命の抱える業」と表現する方が的確なのかもしれない。
自己の生命を保持するために他の生命を害することから始まる「業」。それを人間はどう受け止めるのか、そういう作品。
そんなテーマも骨太なら、ストーリーも常軌を逸した想像力によって展開される。過去については圧倒的な教養により、
日本史がリアリティを持って再構築される。未来はもう言わずもがな、人間が今後抱える倫理的問題を的確にえぐる。
しかもつねに新しい。同じ構造の話がないのである。手塚作品すべてに言えることだが、マンネリの要素が1ミリもない。
手塚治虫が恐ろしいのは、最初から完成されていて、成長の跡がないというか成長しようのない状態のままでいることだ。
絵は変化しないし、物語はつねに新しい。『火の鳥』は特に連載時期が飛ぶが、舞台となる時間の飛び方に違和感がない。
こういう領域にある漫画家は世界を見渡しても手塚治虫一人だけではないのか。何から何まで、ちょっと特殊すぎる。

さて今回の展示そのものについて。作品の発表順に合わせてほぼ一方通行で原画を展示していくというやり方で、
物語を空間として体感していく試みはたいへんよろしかった。特濃の「業」を突き抜ける貴重な経験だったぜ。
最後を『太陽編』のエンディングみたいにしてそこを抜けていく演出だったら完璧だったが、まあしょうがないか。
背景・壁にも工夫があった方がよかったかも。でも『羽衣編』だけ盲腸みたいな位置だったのがたいへんわかってる感。

 せっかくなので東京の夜景も撮っておいた。

やっぱり自分にとって『火の鳥』は特別な作品であることを再確認。そういう機会を持てたことだけでも十分ありがたい。


2025.3.16 (Sun.)

朝起きたら天気予報どおりに雪! しかもけっこうな積もり具合! こんなのもう、笑うしかないではないか。

  
L: 国道19号。  C: 平田駅。なかなかに真っ白である。  R: 列車は少し遅れて南松本駅へ。そこから歩いてこちらも国道19号。

天気がよければ午前中は松本市内を徘徊するつもりだったが、雪という予報がかなり確信めいた感触だったので、
開き直って映画鑑賞の予定を入れていた。「午前十時の映画祭」で『雨に唄えば』(→2005.5.16)をやっており、
これはぜひとも映画館で観なければ、ということで鑑賞したわけで。で、やっぱり最高なものは最高なのである。
ディズニー的アメリカショウビジネスのいちばん魅力的な部分がてんこ盛り。偉大な文化だとあらためて実感する。
ドナルド=オコナーのコズモーは、主人公の親友ポジションのキャラで最強ではないかと思う(次点は岬太郎とする)。
そしてリナ役のジーン=ヘイゲンをみんなで褒め讃えよう。脇を固める役者が完璧だと映画の完成度が段違いになる好例。
名作映画は映画館で観ると感動が半端ないなあ。それにしても主演で監督のジーン=ケリーは何でもできて恐ろしい。

余韻に浸りながら松本駅へ行くバスをチェック。きちんと動いてはいるものの、肝心の信州ダービーはなんと雪で中止に。
これじゃ松本に映画観に来ただけじゃん……。ぜひともランチでリヴェンジせねばと、松本メーヤウ駅前店に突撃。
メーヤウは早稲田大学の学生メシとして知られたカレー店。そこから暖簾分けした店が、松本には3店舗もあるのだ。
本家は2017年に閉店したが、2020年に後継者が現れて復活。その一方で松本メーヤウはわりと独自の進化を遂げた模様。
それならそれで、松本の味としていただいてみるべきだろう。駅前店限定でランチにカツカリーをやっているそうで、
あえてそのオススメをいただいた。が、困ったことに、インド風カシミールカリー、日本風だしグリーンカリー、
インド風トマトチキンカリーの3種類のソースがあり、どれかが飛び抜けて代表的なメニューというわけではない感じ。
とりあえず、最も辛いというインド風カシミールカリーをチキンカツでいただいた。印象としてはスパイシーではなく、
油による辛さといったところか。辛いことは辛いけど、そこまで凶暴ではないので怯える必要はないと思われる。
神保町のカレーを食べ尽くした僕としては、ビストロべっぴん舎の黒のカシミールカリー(→2019.12.13)に近い印象。
まあカシミールだから当たり前か。こういった凝ったカレーが食えるってのは、さすが松本である(→2016.4.9)。
そんな松本もイトーヨーカドーが閉店し、PARCOが閉店し、井上百貨店も今月末に閉店する。日本の衰退が止まらんなあ。

 
L: 松本メーヤウ駅前店。ちなみにキッチン南海(旧店舗 →2019.11.5)も松本に暖簾分けの店がある。松本のカレー事情は深い。
R: インド風カシミールカリーのチキンカツカリー。ライスのヴォリュームは十分だが、カツの分だけソースがもう少し欲しい。

姉歯の連中と連絡を取り合う中、えんだうさんから「温泉」というキーワードが出たのでスマホで探ってみる。
昨日は穂高温泉を諦めたので、やはり温泉に浸かりたいのだ。で、松本だと浅間温泉と美ヶ原温泉の2択といった感じ。
ざっと調べた限りでは浅間温泉の方が充実している印象がしたので、駅からバスに乗り込んだ。20分ほどで到着。

  
L: 今回お邪魔した坂本の湯。かなり小規模だが、Googleマップでの評価の高さは間違っていなかった。
C: 浅間温泉の中央通り。雪でなければもう少し積極的に徘徊したのだが。  R: 浅間温泉バス停付近。

浅間温泉に来るのは初めてだ。温泉旅館が集まりつつも適度に鄙びて、派手すぎず地味すぎずちょうどいい具合の温泉街。
松本の観光資源の豊富さにあらためて驚かされる。そして浸かった温泉は、加温も加水も循環も濾過も殺菌もない、
完全なる源泉掛け流し。それでいて絶妙な温度で、ただただ感動。信州ダービーの中止は痛いが、これは怪我の功名。
次回松本を訪れるのはいつになるかまったくわからないが、浅間温泉にはわざわざ浸かりに来るだけの価値があると思う。
飛鳥時代の698年の開湯とされ、石川数正をはじめとする歴代の松本藩主が通ったという歴史があるのはさすがなのだ。
呆けつつバスに揺られて松本駅まで戻ると、カフェで本日分の日記をバリバリ書く。そして小木曽製粉所で晩メシ。
大町産の日本酒・白馬錦を買い込むと、帰りの特急あずさの中でいただきつつ、やっぱり日記を書きまくるのであった。
それにしても、週末パスを使うのもこれが最後か……。最近は事故も多いし、JR東日本の劣化が止まりませんなあ。

 小木曽製粉所の特盛。手軽に全身蕎麦まみれになりたいときはコレだな。

さて信州ダービーの代替日はいつになるやら。なんとしてでも観戦したいのだが、土日にできるもんなのかねえ。



2025.3.13 (Thu.)

五島美術館『中国の陶芸展』。五島美術館が所蔵する中国の陶磁器を展示。なお第2展示室では日本刀特集。

戦国時代の陶器からのスタート。器の形状は青銅器(→2023.2.23)の文法が基礎にあるように思う。
また、陶器にわざわざ青銅器のような模様を付けたものもあった。中国の古代は青銅器が百花繚乱の様相であるのに対し、
陶器については唐代に入るまでまったくパッとしない印象。青銅器は祭器であったが、陶器は普段使いだったのだろう。
工芸作品としてのメインストリームが青銅器から陶器に移った背景、当時の感覚を詳しく知りたいところである。
これは個人的な直感でしかないのだが、色を自在に操る釉薬がなかったから発展しなかったのか?と考えてみる。
白磁、そして唐三彩の登場によって俄然やる気が出てきた、造形もがんばるようになった、そういう印象を受ける。

さて五島美術館のコレクションは、まずまず高め安定。きちんとポイントを押さえて集めている感じである。
似たものを大阪で見たなあと、むしろ大阪市立東洋陶磁美術館(→2023.5.19/2025.1.8)のレヴェルの高さを実感する。
やはり陶器は唐代から質が変わる。文化度が高く本当に新次元を切り開いていき、宋代がその勢いをきれいに受け継ぐ。
龍泉窯の青磁はやはり特別感がある。そしてコレクションが充実しているのが明代の景徳鎮で、たいへんすごい安定感。
特に青花のクオリティが本当に高い。全盛期の有田焼と本気でやりあっていたのはさすがなのだ(→2025.3.2)。
それに対して赤絵はやや大雑把。細かい模様は本当に細かいが、全体的に鋭さをあまり感じないというか(→2013.6.16)。

最後に一言。僕は展覧会ではスマホにメモをとって、それをメールで送って日記に内容を反映させているのだが、
壁を向いたり床を見たりして絶対に展示物を撮影していないとわかる角度をキープしてメモをとっているにもかかわらず、
わざわざ文句をつけてくるのは今どき五島美術館だけ。展示も変に旧態依然としていて、乗り遅れている印象がある。


2025.3.12 (Wed.)

スタ丼が値上げしてメニューがワケのわからんことになっていて驚愕。「元祖盛り」とか言われてもよくわからんわ。
それで「腹八分目」で注文したら明らかに少なめ。でもまあ健康を考えて腹八分目でいいか、といちおう納得して食べる。
しかし1スタドンがついに890円とは……。大学時代の1スタドン=550円という為替レートが懐かしい(→2022.1.5)。


2025.3.11 (Tue.)

東日本大震災が発生した日付である。常磐線の完乗は果たしたが(→2024.6.15)、新しくなった陸前高田市役所はまだだ。
今年こそは再訪問して、あれ(→2016.9.19)からどのような街並みとなったのか、ぜひともこの目で確かめたい。

circo氏の同窓会があったそうで、両親が揃って上京したので一緒に晩メシをいただくことに。
あなた前に職場が近かったでしょということで戸越銀座集合となったが、戸越銀座近辺が職場だったことなどないのだが。
初任の中学校は中延から馬込にかけてって感じだし、塾講師時代は戸越公園だし。戸越銀座には本当に用がないのである。
まあそれでも宿が近いから合理的な選択ではある。合流すると第二京浜を軽く往復してどの店がよろしいか様子を探り、
無難にパスタをいただいたのであった。簡素なわりにはなかなかの人気店である模様。実際、旨かったのであった。
両親は昼間に東工大(おっと今は変な名前だったか)へ行ったそうで、中のカフェで一服したとのこと。
僕が入院していた頃にはそんな小じゃれたものはなかったので、時代は変わったなあと思うのであったことよ。
で、明日は築地で海鮮丼を食ったり一橋に行ったりしたいそうで。旅は自由だ、あちこち行って楽しむがよろし。


2025.3.10 (Mon.)

朝起きると支度をととのえてチェックアウト。予報では天気はだんだんと下り坂になるらしいが、午前が保てばOKだ。
スクーターで移動してジョイフルで朝メシをいただく。やっぱり西日本といえばジョイフルなのだ。種子島も西日本だぜ。
しかしながら定番の豚汁定食が税込720円と、めっちゃ値上がりしていやがる。ドリンク付きにしてこの値段はひどい。
そもそもが豚汁「朝食」だった気がするのだが。正直、ジョイフルに対する信頼感がガタ落ちになるほどの衝撃だった。
それでも朝食で卵かけご飯をいただけるのはありがたい。卵と米でないと摂取できない元気がこの世界には存在するのだ。

 
L: 宿の駐車場にて。今日もよろしくお願いするのだ。  R: ジョイフルの豚汁定食。これが税込720円って……。

本日最初のエネルギーを充填すると、国道58号を戻って西之表港へ。コインロッカーに荷物を預け、北上を開始。
地道に県道581号を走る。何の変哲もない、整備された道路。平日の朝だからか、いつもそうなのか、車はほとんどない。
たいへん快適に北端近くまで来ると、道は大胆にカーヴする。スマホで方向を確認して一気に進み、喜志鹿崎に到着。
案内板によって「喜志鹿崎(きしかざき)灯台」と「喜志鹿埼(きしかさき)灯台」と、表記と読みにゆれがあり、
大いに困ってしまった。海上保安庁と燈光会は「喜志鹿埼灯台」だったので、少なくとも灯台の名前はそうなのか。
さらに海底から見つかったという九七艦攻についての案内板には「きしがさき」というふりがな。もう何がなんだか。

  
L: 喜志鹿埼灯台の駐車場にて。  C: こちらが喜志鹿埼灯台。1963年竣工とのこと。  R: 北東側から眺める。

 
L: 砲台跡。戦時中には旧日本軍の監視所などがあったそうだ。ちなみにこちらは「喜志鹿崎灯台」と書かれているなあ。
C: 展望所から眺める種子島最北端の喜志鹿崎。大隅海峡の先には大隅半島、端に開聞岳も見えるというが、春だと厳しいか。

来た道を戻ってそのまま県道を渡って南下すると国上奥神社である。正式には「奥神社」という名前のようだ。
案内板によると奈良時代に国玉明神奥神社として創建され、後に大山祇尊と木花咲耶姫が合祀されている。
種子島家の当主が鹿狩りを行う際にこちらに祈ったという。本殿の代わりに祠があり、たいへん雰囲気がある。

  
L: 国上奥神社の境内入口。  C: 樹齢85年ほどのアコウの大木。根元の周囲には海から持ってきた白サンゴ。  R: 拝殿。

 失礼して拝殿の裏にまわると、白サンゴの奥に鏡と祠。これは確かに神秘的。

県道に戻ると島の東側に出る。海沿いに南下するとすぐに湊川で、左岸にメヒルギの群落があるので寄ってみる。
昨日の日記でも書いたとおり、種子島はマングローブの北限であり、メヒルギ1種のみが生育しているのだ。
案内板によると、種子島のメヒルギは寒冷風の影響で背が低くなりがちだが、ここは風から守られる地形のため、
高さ10mを超える国内最大級のメヒルギが生息しているとのこと。昨日の阿嶽川とともに国指定文化財の天然記念物だ。

  
L: 湊川メヒルギ群落。  C,R: 点在するメヒルギたち。蛸足状の根が成長すると板根を形成していくそうだ。

  
L: 定着しつつある群落。  C: 若い木が育ちつつある。  R: 温暖化が進むともっさりしてくるのかねえ。

  
L: わりと大きめな個体をクローズアップ。  C: 根元はこんな感じ。  R: だいぶ育ってきている群落。

さらに東側を南下していく。さっき国上奥神社の案内板で天女ヶ倉(あまめがくら)公園に展望台があると知ったので、
せっかくだから行ってみることにした。県道はしっかり広い道だが、ちょっと奥に入るとなかなかの山道となる。
最終的には上りだが、上り下りもけっこう激しい。でもスクーターなら問題ないのだ。てっぺん目指してグイグイ走る。

 山道を行く。種子島にはハブがいないからこっちは強気なのだぜ。

天女ヶ倉公園に到着すると北端が芝生の広場となっており、東側の集落を一望できる。空はすでに雲に覆われていて、
昨日のような天気だったら絶景なのに、と悔しがる。ちなみに眼下の集落の名前は安納といい、安納芋の生まれ故郷だ。
安納芋はサツマイモの中でも「蜜イモ」と呼ばれるほど甘味が強いことで有名で、鹿児島土産のお菓子で人気のブランド。

  
L: 安納芋のふるさとを眺める。  C: 南側には展望台。  R: 木々に囲まれ眺めはイマイチだが、南側はそこそこ。

天女ヶ倉公園から少し戻ったところに天女ヶ倉神社が鎮座しているので参拝しておく。祭神は造化三神の天御中主神で、
神楽が好きな神様だったので天女神楽が「天女ヶ倉」という地名になったとのこと。おそるおそる石段を上っていくと、
見事な磐座があった。案内板によると、かつて仁王が岩を背負って南へ運ぶ途中に、眺めの良いこの地で一休みした。
しばらくして立ち上がろうとしたところ、背負うのに使っていたカズラが切れてしまったので岩を置き去りにしたそうだ。

  
L: 天女ヶ倉神社の入口。  C: コンクリート打ちっ放しの拝殿。  R: 奥の石段をおそるおそる上っていく。

  
L: 石段を上った右手に石を積んだ祠。  C: こちらが本殿扱いとなっている磐座。  C: 正面から見たところ。

 失礼して磐座の中を覗き込む。

このまま西之表に帰るのもつまらないので、さらに寄り道。西京ダムの辺りに「あっぽ〜らんど」という施設がある。
「あっぽー」とはジャイアント馬場もリンゴも関係なくって、種子島の方言で「遊ぼう」という意味だそうだ。
西京ダム周辺の自然を利用した親水公園で、1996年オープン。市民の憩いの場としてさまざまな施設が整備されている。
しかしながら土日や学校が休みの日にしかやっていないので、春休み前の平日はただの無人の空間なのであった。

  
L: あっぽ〜らんど中央管理棟。  C: ゴーカート場。本日お休み。  R: 多目的交流拠点施設ふれあい。

ションボリするけどバイクの機動力だとそんなに凹むことはないのだ。あっぽ〜らんどの一部であろう馬毛鹿小屋に寄る。
馬毛鹿(マゲシカ)はニホンジカの一種で、馬毛島と種子島に生息している。馬毛鹿の皮は武具の材料となっており、
鹿茸(ろくじょう、角のこと)は漢方薬として利用され、江戸時代の種子島経済を支える役割を果たしていたそうだ。

  
L: 馬毛鹿小屋。わかさ公園から2001年に移転とのこと。  C: 馬毛鹿の皆さん。  R: 来客が珍しいのか、こちらに興味津々。

あっぽ〜らんどを脱出すると、往路に見かけた看板が気になっていた伊勢神社に参拝する。1641(寛永18)年の創建で、
18世紀末から19世紀初頭の当主・種子島久照が境内を整備した。現在の社殿は伊勢神宮の2013年式年遷宮の古材を利用。

  
L: 伊勢神社の東側入口。  C: あまり神社らしくない道を300m近く進んでいくと境内。  R: 拝殿。立派である。

 
L: 本殿。見事に神明造。  R: 西側には長い石段。本来の参道はこっちだろうけど、こりゃつらい。

西之表の中心部に戻ると、赤尾木城文化伝承館の「月窓亭」に行ってみる。が、大規模改修工事で長期休業中だった。
これは非常に残念だが、種子島開発総合センターで博物館の「鉄砲館」は月曜日も開いているのでじっくり見学する。
まずはその向かいにある内城址へ。こちらは種子島時堯時代の居城で、2009年に閉校するまでは榕城中学校だった。

  
L: 内城址の旧榕城中学校入口。  C: 坂を上ると種子島時堯の像。  R: 像の手前から見る鉄砲館。南蛮船がモチーフ。

 正面から見た鉄砲館。

ではいざ鉄砲館の中へ。まず登場するのがウシウマ。その名のとおり牛みたいな馬で、かつて種子島で飼育されていた。
1598(慶長3)年に島津義弘が朝鮮半島から10頭を持ち帰ったのが始まりとされ、鹿児島城内で繁殖を試みた。
しかしうまくいかないので、1683(天和3)年に5頭が種子島へ移された。明治初期には約60頭にまで増えたという。
1931年には国の天然記念物に指定されたが、太平洋戦争の食糧難や管理の不徹底のせいで1946年に絶滅してしまった。

  
L: ウシウマの骨格標本。  C: タテガミや尻尾の毛がほとんどないのが特徴。人に馴れ、粗食に耐え、力が強い種だったという。
R: 東京市発行の絵はがきに掲載されたウシウマの写真。確かに顔つきが牛っぽい。角があったらもっと牛っぽく見えるはず。

トップバッターのウシウマに圧倒されるが(「絶滅した奇獣」ときたもんだ)、その後の展示はわりとオーソドクス。
とはいえ、種子島が大陸と陸続きになっていた137万年前のゾウ(便宜的に「西之表象」と命名)の化石や、
馬毛島の遺跡から出土した貝製品など、他の地域では見られない個性ある展示物が目を惹き、見応えは十分だ。

  
L: 西之表市の南西部、住吉形之山から発掘された化石群。魚、カニ、カエルなど、種類がたいへん豊富。
C: 西之表象の化石。なかなかの大物である。  R: それぞれの骨がどの位置にあったのか示す展示。

  
L: かつての漁の様子を再現。  C: 種子島の釣りに使われた道具たち。  R: こんな感じの広い展示スペースも。

  
L: 縄文時代早期の土器。  C: 石槍(上)と石鏃(下)。鬼ヶ野遺跡から出土した石鏃は400点で縄文時代草創期では国内最多。
R: 馬毛島の椎ノ木遺跡から出土した貝製品。馬毛島は無人島だったが、弥生時代から古墳時代にかけては人がいたってことか。

  
L: 左が白米、右が赤米。確かに茎が長い。  C: 島の主である種子島家についての展示。刀などのお宝は撮影NGなのであった。
R: 七尋五葉の切株(上の幹は復元)。1947年に伐採された、推定齢約500年、高さ32mの五葉松。周囲が約12mで七尋(ひろ)。

公式サイトによると一番人気だというのが、自動の人形劇による鉄砲伝来物語。回転することで場面が切り替わるが、
冷静に考えるとかなり凝ったからくりだ。いつから置いてあるのかわからないが、バブルの勢いをなんとなく感じる。

  
L: 鉄砲伝来物語。昨日の現場で種子島の人々がポルトガル人と出会った場面。ちゃんと脇に中国人がいる。
C: 種子島時堯の前で鉄砲を撃ってみせる。  R: 鉄砲の自作を開始。凝り性の日本人ならでは、という気もする。

 去っていくポルトガル船。

続いては種子島の特産品の展示。鉄砲と同時に伝わったという中国の鋏を改良して、種子鋏が生みだされた。
弧を描くように刃を曲げた「ねり」によって、互いの刃が一点のみで接してつねに研ぎ合う状態をつくっているそうだ。
種子島ではかつて砂鉄が豊富に採れたそうで、それが鉄砲や鋏が生産される下地となっていたわけだ。
そして砂鉄を含む粘土で焼かれたのが能野(よきの)焼。種子島唯一の窯で、ありとあらゆる日用品がつくられた。

  
L: 種子鋏の鍛冶の様子を再現した一角。  C: 各種の種子鋏。産業としてはかなり弱体化してきているとのこと。
R: 能野焼。1902(明治35)年に種子島縦貫道路工事が始まると土管の製造に特化。その後、自然消滅してしまった。

展示のクライマックスはもちろん鉄砲である。鉄砲生産における最大の難関はネジで、当時の日本にその知識はなかった。
初期の種子島産火縄銃は尾栓(銃身の底)を鍛造で塞いでいたが、熱によって命中率が落ちるという問題が起きていた。
しかしネジの技術を習得した八板金兵衛清定だけは、優れた命中精度の鉄砲をつくって名を残した。これは伝承だが、
金兵衛は娘の若狭をポルトガル人に嫁がせ、それと引き換えにネジの技術を学んだとされる(鉄砲館にその説明はない)。
若狭の名は鹿児島と種子島を結ぶフェリーに付けられているが(プリンセスわかさ)、ポルトガル船が去った翌年に帰国、
そのまま日本に残って生涯を終えている。なおネジの製作は非常に難しく(特に雌ネジ)、鉄砲以外には広がらなかった。
弾丸をジャイロ回転させるライフルなんてさらにもう一段階上の発想だもんなあ。軍事技術とはキリがねえなあと思う。

  
L: 火縄銃の部品。海外で発明されたものを徹底的に改良していく日本人の凝り性がしっかり発揮された分野である。
C: 古代ギリシャ人が思いついたネジだが、東洋では出てこない発想だった。ネジなしでなんとかしちゃっていたんだなあ。
R: 火縄銃の弾丸。大きさがいろいろで、規格という視点で考えるとなかなか面白い。左上の板は鉄砲鍛冶の免許証。

  
L: 左は早合(はやごう)。1発分の弾丸と火薬をセットにしたもので、現代の薬莢にあたるそうだ。右は火縄。
C: 薩摩筒の火縄銃。  R: 火挟などに種子島家の家紋「三つ鱗」があしらわれている、非常に貴重な銃とのこと。

江戸時代につくられた銃が展示されていたのだが、短筒や連筒など実に多種多様なラインナップで驚いた。
日本の銃発祥の地としてのプライドがあるとはいえ、これだけたくさんの銃をよく集めたものだと大いに感心。
ガンマニアでなくても十分に楽しめる。純粋に、機能に対するデザインという視点で興味深いものがいっぱい。

  
L: 江戸時代の鉄砲コーナー。こんなに多様な銃がつくられていたのかと驚いた。右はロケットのような棒火矢。
C: 大筒は迫力があるなあ。  R: 上から阿波筒、国友筒、堺筒。堺筒は銃身や銃床の美しい装飾が特徴とのこと。

  
L: 百五十匁仕掛の大筒。台架に据えて攻城戦や艦隊戦で使った。  C: 10匁の短筒。馬上でピストルとして使用。
R: 三連火縄銃。手動で回転させて発砲する三連発の銃。長篠からガトリングまでをつなぐ存在、なんて言ってみる。

国産の火縄銃だけでなく世界の鉄砲もめちゃくちゃ充実している。本当にキリがないので全体の流れだけ確認する感じで、
写真を貼り付けておく。やはり武器としての側面だけでなく、工芸品としての側面もしっかりあるのがよくわかる。

  
L: 緩発式の火縄銃。日本の「瞬発式」とは逆で、引き金を引くと火挟みがゆっくり下がって点火する仕組み。
C: 左上が瞬発式火縄銃。左下は火縄銃に続くホイール・ロック式燧石銃。右はフリント・ロック式燧石銃。燧石は火打ち石。
R: 前装式の管打銃。弾丸を前から入れるので前装式で、管打銃は起爆薬の入った雷管を撃鉄が叩くことで発火する。

  
L: 後装式の管打銃(左)と後装内火式の管打銃(右)。後装式は弾込めが早くて簡単。後装内火式は弾丸と点火薬が一体化。
C: 射撃競技についての展示。なるほど、スポーツに進化するとそうなるわ。  R: 最後に種子島の昔の民家が再現されている。

 顔ハメはいいけど、だいぶ体勢に無理を強いるスタイルである。

見学を終えるとバイクを返却し、のんびり歩いて中心市街地へ。種子島の最後は温泉で締めくくるのだ。
レンタルバイクの店主からは河内温泉センターをオススメされたのだが、場所が南種子町なので泣く泣く断念した。
その借りを西之表で返そうというわけである。平日のお昼どきなので空いていて実に快適。でも夜は混みそうね。

 種子島温泉 赤尾木の湯。市街地の天然温泉はたいへんありがたい。

これで種子島の旅をほぼ完璧な形で締めることができた。港に向かいがてら、赤尾木港の岸岐と築島を撮影しておく。
2022年に土木学会選奨の土木遺産となっているのだ。岸岐は「がんぎ」と読み、つまりは「雁木」のことだろう。
(雁木は日本の古い港にある階段状の構造物で、そこで荷物の積み下ろしをする。 →2016.7.212020.2.25
南側の岸岐は1781(天明元)年につくられ、昭和初期に改修されている。北側の築島は1862(文久2)年の築。

  
L: 赤尾木港の岸岐(左の丸っこいの)と築島(右)。  C: 築島。薩摩藩主の娘で種子島久道の夫人・松寿院が整備した。
R: 赤尾木港の様子。ちなみに赤尾木城は現在の榕城小学校の位置にあり、種子島久基の代に内城から移った(すぐ隣だが)。

腹が減ったので港に面するラーメン屋で昼メシをいただいた。キクラゲと細モヤシがなかなか特徴的だったが、
塩の風味が強い豚骨スープは昨年奄美でいただいたラーメン(→2024.3.10)にかなり近い味わいなのであった。
鹿児島の島ラーメンは塩がベースになっているんだろうか。食文化的にちょっと気になる共通点である。

 
L: 昨日、中種子町で食べるか迷ったラーメン屋と同系列の店。鹿児島の島ラーメンは塩味がデフォルトなのか。
R: フェリーの待合所のトイレにて。種子島らしく男は鉄砲を構えているのであった。まあフロイトもそう言っているし。

時刻が来て、高速船に乗り込む。どうしょうもなく淋しい気分になっているのは、楽しい旅が終わってしまうからか。
種子島を離れてしばらくしたら雨が降りだした。けっこうギリギリのタイミングで雨を回避できたが、できすぎだ。
さすがに涙雨とは言わないが、水が流れて歪む窓の外を眺めていると、切ない気持ちが増幅されてしまう。
バイクで自由に離島を走りまわるのは、傍から見れば、なかなかいい感じの趣味であると言えそうだ。
のどかな春の日に、♪何もないな誰もいなーいなーな道を、風と一緒にバイクで駆け抜ける。贅沢なものである。
しかし僕としては恐怖感と緊張感がつねにあるし、ガソリンを消費して排気ガスを出すので正直、罪悪感が先に来る。
楽しくて、怖くて、緊張して、申し訳ない。いろんな感情が絡み合った結果として、やっぱり途轍もなく楽しい。
まあとりあえず、ニシマッキーと八丈島をバイクで走りまわるという経験をしていなかったら(→2009.8.24)、
バイクという選択肢は思いついてもやる度胸はなかったんじゃないか、という気がする。ニシマッキーに感謝だな。

鹿児島に戻ったら曇りで、雨を完全に回避できた。歩くのが面倒だったので、バスで一気に鹿児島中央駅まで行く。
いつもの焼酎の店で両親向けのお土産を見繕うが、ラベルのデザインが百花繚乱で面白くってたまらないのであった。
遅くならないうちに空港に移動すると、やはり恒例の山形屋の焼きそばを大盛でいただく。どうしても食っちゃう。

  
L: さらば種子島。  C: 鹿児島中央駅もなんだかんだでよう来とるね。  R: 山形屋の焼きそば(大盛)を食わざるをえない。

初日の雨にもめげず、完璧な中日を過ごし、最終日も存分に楽しんだ。今回の旅も終わってみれば最高だった。
ただただ、感謝しかない。鹿児島よありがとう。種子島よありがとう。稼がせてもらっている職場よありがとう。


2025.3.9 (Sun.)

ではいよいよ今回の旅行のメインエベントである種子島に突撃するのだ!
昨日はたいへん残念な天気だったものの、今日はけっこうな青空になりそう。まあその分、花粉がキツいのだが。
天文館から15分ほど東に歩いて高速船の旅客ターミナルへと向かう。僕の脳内では朝起きたときからすでに、
ステッペンウルフの『Born to Be Wild』(→2005.9.9)が延々と再生されている。そう、バイクを借りて種子島を走るのだ。
(ちなみに種子島のバスは日曜・祝日に全便運休となってしまう。まあそもそもバスだときめ細かく観光できないが。)
バイクは1年前に奄美大島を走って以来か(→2024.3.10)。過酷なトンネルの記憶が蘇り、手のひらには汗がにじんでくる。

  
L: ウォーターフロントパークでは木下大サーカス(→2023.2.26)が公演中だった。機会があればぜひまた観にいきたいねえ。
C: 朝日を背に輝く桜島。この雄大な桜島に見送られ、種子島に向かうのだ。  R: 高速船。今は昂揚感より緊張感の方が強い。

7時30分に高速船のトッピー7が出港。ここから約1時間30分の船旅である。奄美とは比較にならないほど近いのだ。
しばらくすると右手に開聞岳(→2009.1.72016.3.20)。いつどこから見ても美しいが、船からだとより感傷的になる。
そうして1時間ほど経つと、今度は右手に平べったい島が浮かんでいるのに気がついた。何やら構造物が目立っており、
それで馬毛島だとわかった。1980年から無人島となっていたが、現在は自衛隊基地の建設工事が進められているのだ。
お盛んにやっとりますなーと思っているうちに、対照的に緑に包まれた島が現れた。緑はずっと同じ調子で延びており、
水平線の上をぬぼーっと抑揚なく縁取っている。木曽山脈と赤石山脈に囲まれて育った僕からしてみれば、
「壁」と表現するには高さがまるで足りない。迫力がないというか、優しいというか。それが種子島の第一印象だった。

  
L: 船から見る開聞岳は特別な旅情をかきたてる。  C: 自衛隊基地の工事が進む馬毛島。  R: 穏やかに横たわる種子島。

西之表港に到着すると、まずはターミナル周辺を探索する。高速船とフェリーでそれぞれ別の待合所があり、
施設としてはフェリーの方が充実している印象。とりあえず荷物を預けるが、コインロッカーは高速船の方が安かった。
まあその分だけ古くて半分くらいが使えなくなっていたが。到着便に応じて閉じる時刻が変わるのが少々ややこしい。

  
L: 西側にあるのが高速船の待合所。窓口と椅子が並んでいるくらい。  C: 東側のフェリーの待合所。観光協会はこちら。
R: 西之表港からまっすぐ東へ歩いて行くと市街地である。ある程度進んでから振り返ったところ。右の建物は土産物店。

島に着いたらたいへんすばらしい晴天。昨日の「貸し」は、しっかりと利子をつけて返してもらえそうである。
港からの道の突き当たりが郵便局で、この周辺が種子島でいちばんの都会である模様。まずは市役所へと向かいつつ、
商店街を撮影してみる。昭和の雰囲気をしっかり残した、少し過疎を感じさせる地方都市の風景そのものである。

 
L: 国道58号にて。  R: 反対側、市役所下の交差点。商店街らしい商店街はここくらいだったなあ。

坂を上っていくと西之表市役所である。南北に長い種子島は3つの自治体できれいに三分割されており、北端が西之表市。
種子島家の城下町で、かつては素直に北種子村という名称だったが、「西に向って開ける種子島の表玄関」ということで、
1926(大正15)年の町制施行で名を改めた。鹿児島県の島で最東端、そのいちばん都会という誇りが込められているのだ。
西之表市役所はAOI+末吉設計JVの設計で、1997年の竣工である。玄関前のロータリーには旧庁舎の写真が残されていた。
1955年に西之表町役場として建てられたが、玄関ポーチは火縄銃の銃底をモデルにデザインしたというモダンスタイル。
衞藤右三郎(→2015.8.182016.3.192017.8.192017.8.20)の設計かと思ったが、公式サイトにその記述はなかった。

  
L: 西之表市役所。敷地の入口から眺めたところ。左が議会棟、右が行政棟。  C: 近づいて撮影してみる。
R: 議会棟を東から。手前のモニュメントは「東西のかけはし」といい、旧庁舎のポーチをモデルに製作したそうだ。

  
L: エントランスをクローズアップ。  C: 脇には旧庁舎の紹介と「東西のかけはし」についての説明があった。
R: こちらが1955年竣工の旧庁舎。わざわざ写真で歴史を残すとは、本当に愛された建物だったんだなあと思う。

  
L: この日は日曜日なので中に入れなかったが、翌日お邪魔して撮った写真。中に入るとまずこのエントランスホール。
C: 入口を振り返ったところ。議会棟と行政棟をつなぐ典型的なパターン。  R: ロケット型のチラシ入れがあった。

  
L: 行政棟の手前はオープンスペース状になっており、銅像とさざれ石が置かれていた。さざれ石の寄贈は2000年でわりと最近。
C: 北東から見た行政棟。  R: 西之表市民会館の手前から見た行政棟の北側の側面。見るからに平成オフィス建築である。

  
L: 坂を下って北西から見た行政棟。  C: 西から見たところ。こちらが行政棟の背面。  R: 視線を右に移すと議会棟の背面。

  
L: まわり込んで議会棟を南西から眺める。  C: 南から全体を見たところ。中心市街地を見下ろす高台の上にあるのがわかる。
R: スクーターを借りてから、しばらく市役所の駐車場で練習したのであった。せっかくなので市役所を背景に記念に撮ってみた。

市役所の撮影を終えると、いよいよバイクを借りるのである。市役所から北へと歩いていくと、坂の途中に店舗がある。
借りるにあたっていろいろ説明を受けたのだが、人様から借りておいて無茶な使い方をする不届者がいるそうで。
こちとらひたすらに安全運転しかしないので理解できない世界である。また、馬毛島で建設工事が進んでいる影響で、
種子島では主要な道路で警察が違反運転を警戒中とのこと。しばらく市役所の駐車場で練習してから出発する。
当然ながら僕の脳内では、ステッペンウルフの『Born to Be Wild』がエンドレスで流れ続けているのであった。
国道58号を南下するが、確かにあちこちに警察官が立っており、緊張しつつ背筋を伸ばしてアクセルを一定に保つ私。
そんなこんなで一山越えると、国道58号は海沿いの道となる。鮮やかな青のグラデーションに思わず目を奪われる。
しかし市街地を離れると車はほとんど走っておらず、かなり余裕を持って走ることができた。ありがたいことです。

  
L: 国道58号。奄美大島(→2024.3.10)や沖縄本島と違い、種子島ではだいぶ平和である。本当に走りやすくて助かった。
C: 途中で海を眺めてみる。  R: 沖合に浮かんでいる馬毛島。建設工事が盛んに行われているのがここからでもわかる。

 中種子町に入ってもしばらくこのような平和な光景が続く。

西之表市役所を出てから1時間ほどで中種子町役場に到着した。中種子町はその名のとおり、種子島の真ん中を占める町だ。
なお種子島は「種子」の2文字で「たね」と読むので(佐渡島と同じ感覚で「が」が入る)、中種子は「なかたね」と読む。
中種子町役場の駐車場にスクーターを駐めると、建物を撮影すべく歩きまわる。が、久々のバイク運転で緊張したせいか、
下半身がわりとガクガクなのであった。思うように足が上がらなくて、それがかえって気怠い感じの歩き方になって、
「わ、なんかオレ、いかにもライダー然とした足取りになってる!」なんて気分になるのであった。われながら単純である。
そうしてゆったり中種子町の商店街へと向かう。後のことを考えると、このタイミングでぜひ昼メシを食っておきたい。
役場から北へ行くと旭町商店街のアーケードが目に入るが、立派なアーケードのわりには店らしい店がほとんどない。
茫然と立ち尽くしていると、通りに流れるBGMが『Born to Be Wild』のインストゥルメンタルアレンジなのに気がついた。
朝からずっと脳内を流れているBGMが現実として出てきたと思うと大爆笑である。なんだか歓迎されている気分だね!

  
L: 1966年竣工の中種子町役場。いかにも南国っぽい風情でお出迎え。  C: エントランスは東側。  R: 全体を眺める。

  
L: 中種子町役場の掲示板。庁舎もそうだが、実に昭和である。  C: 旭町商店街。アーケードは立派だが、商店はほぼない。
R: ネコが尻尾を盛大にエレクチオンさせてじゃれてきた。うれしいけど膝が毛だらけ。なるほどこれが「けっこう毛だらけ」か。

ラーメンと野菜炒め定食の2択で、麺よりはコメの気分だったので後者を選択。おかげで元気を充填できたのであった。
役場に戻ってスクーターに跨がると、脳内では再び『Born to Be Wild』が流れだす。ワイルドで行ってやろーじゃねーか。

 中種子町は種子島の中でも特に農業が盛ん。走っていてもあちこち耕地だらけ。

国道58号で中種子町南端の坂井に入ると、坂井神社(豊受神社)が鎮座している。こちらの境内には大ソテツがあるので、
ちょっと寄って見学してみる。樹齢は700年以上、高さは7m、根周りは2m以上もある日本一の大ソテツとのこと。

  
L: 坂井神社(豊受神社)の境内入口。「日本一 豊受神社の大ソテツ」と看板が出ている。
C: 鳥居をくぐると大迫力のアコウ。これも十分にすごいが。  R: 拝殿の手前に大ソテツ。

  
L: 幹を覗き込む。中生代から形があまり変わっていないそうで納得。ちなみにソテツは雌雄があり、こちらは雌株。
C: 坂井神社の拝殿。種子島の集落レヴェルの神社はどこもだいたいこんな感じなのであった。  R: 本殿。

 南種子町を目指して走るが、種子島は小さな起伏はあっても山がない。

南種子町域に入ると農業中心の景色から少し雰囲気が変わる。事業所などの国道沿いの大雑把な施設が現れる感じ。
やがて中心市街地に入ったはずだったが、賑わいを感じさせる空気がほとんどないまま気がつきゃ走り抜けていた。
だってファミリーマート1軒で中心市街地って、いくら田舎とはいえさすがにそれは想像のつかない世界である。
Wikipediaによれば、かつて南種子の中心は東側の茎永(宇宙センターの手前にある集落)だったそうで、
大正時代に中央部の上中に移ってきたとのこと。宅地化はしているが店舗の存在感がないのは、そのせいか。

  
L: 実質的にファミマが商業の中心となっている感のある南種子町。  C: 振り返って反対側。店舗の密度が薄すぎるのだ。
R: 南側の交差点にて。南種子町内の案内に混じって「上空100km 宇宙」。それはここに限った話ではないけど、面白い。

南種子町役場の東側には明らかな廃校があって、探索してみたら県立南種子高校の閉校記念碑があった。
現在は町立中央公民館として使われており、北側の棟には図書館も入っている。盛んに利用されているようだ。
そしてかつてグラウンドだったと思われる南側では、観光物産館のトンミー市場が元気に営業中なのであった。
土産物売り場では南種子町ならではのJAXAグッズや宇宙グッズが充実しており、焼酎の種類も多かった。
ここにしか置いていない(西之表の待合所にはなかった)限定焼酎が印象的。宇宙から戻った麹、なんてのも。

  
L: トンミー市場。「トンミー」とは種子島の方言で「友達」のことだと。  C: 宇宙コーナーが充実していて面白い。
R: 現在は町立中央公民館となっている旧南種子高校。なかなか端正なモダンスタイルだが、設計は衞藤右三郎ではないのか。

  
L: 各種の石碑がそのまま残る。右端が閉校記念碑。1948年に村立高校として設立され、1956年に県立高校に。2010年閉校。
C: 角度を変えて眺める。側面の輪は種子島宇宙芸術祭の痕跡か。  R: 北側の棟。こちらは 南種子町立図書館となっている。

では種子島ラストの役所である南種子町役場へ。1963年の竣工だそうで、きれいに塗り直してはいるものの、
時代を感じさせる2階建てである。庁舎の壁にはロケットの絵とともに「宇宙へ一番近い町」というフレーズがある。

  
L: 南種子町役場。右が本体、左は研修センター。  C: 本体をクローズアップ。  R: 角度を変えて北西から眺めたところ。

  
L: 研修センターに貼り付くように植栽が整備されている。実に昭和である。  C: なかなか強烈な方言で意味が読み取れない。
R: 庁舎の北西端にはH-3ロケットの絵が貼り付いているのであった。2階建てに合わせてか、約1/9スケールとなっている。

  
L: 南東から見たところ。左が本体、右が研修センター。  C: 東の研修センター。  R: 研修センターの側面にもロケット。

これで種子島の役所はコンプリートなのだ。ここからさらに南へと向かう。あじさいロードでひたすら南下していき、
途中でさらにまっすぐ南へ。壁のような木々と畑の中を抜ける道は見事に直線で、そのまま離陸できちゃいそうな気分。
絶対にそんなスピードは出さないが。“不運(ハードラック)”と“踊(ダンス)”っちまうことだけは勘弁なのである。

 ただひたすらにまっすぐな道を行く。

そうしてやってきたのが種子島の最南端・門倉岬である。周辺は公園として整備されており、のんびり歩きまわってみる。
南蛮船の形をした展望台に上ってみたが、南国らしい元気な植物が見えるだけ。雲がなければ屋久島が見えるらしいが。

  
L: 門倉岬の入口。この先に御崎神社があるのでその鳥居が建てられている。  C: 1983年にポルトガル海軍が建てた記念碑。
R: 鉄砲の伝来を記念する石碑。後ろは南蛮船をモデルにした展望台。なお展望台の向かって左側は階段が狭くて急なので要注意。

  
L: 展望台の辺りから一段下が種子島の最南端。  C: 最南端から南の海を眺める。  R: 幸せの鐘。

 最南端から種子島の南東部を眺める。

  
L: 御崎神社。  C: 拝殿。神社というより寺院の雰囲気。  R: 裏にある本殿。

散策を終えると300mほど手前に戻って、鉄砲を伝来したポルトガル人が実際に上陸したという場所に寄ってみる。
入口はほとんど獣道のような雰囲気で、抜けるとコンクリートで整備された階段になっているが、案の定高低差が激しい。
まあここまで来ておいてスルーするのは社会科の教員としてありえないので、気合いで下っていくのであった。

  
L: まずはこんな雰囲気の中を行く。  C: 抜けると整備された階段。かなりの高低差である。  R: 浜の手前に石碑。

 こちらが日本史を変えた場所である。現場からは以上です。

気合いで階段を上りきると、バイクに跨がり県道まで戻る。そこからはしばらくひたすら東へ。種子島は畑作中心だが、
この辺りは稲作が盛ん。そういえば水田をぜんぜん見なかったなあと思うのであった。川がある場所だけ稲作やるみたい。

 穏やかな春の一日なのであった。

田んぼエリアから山の中へ入っていくと、分岐して宝満の池の展望所で一休み。宝満の池は種子島で最大の湖である。
池を出入りするカモを狙って扇型の網を投げる「突き網猟」を行っているが、これは全国でも3ヶ所だけとのこと。

 宝満の池。左端はかつて大網を張っていた鉄柱。

展望所から池の東側にまわり込むと宝満神社の入口である。たねがしま赤米館の向かい側から参道が延びており、
木々の中を抜けていくが、いかにも神域といった風情でなかなか独特な雰囲気。池のほとりまで250mほどある。

  
L: 宝満神社の入口。  C: こちらの鳥居をくぐって参道スタート。ここから林の中をひたすら抜ける。
R: 足元は砂が目立っており、宝満の池はもともと海だったという話がなんとなく納得できる。

  
L: こちらの鳥居から池の方に近づいていく。向かって右の根元には「謎の石造物」が置かれている。
C: さらに続く参道。池に向かってゆったりとした下りとなる。  R: やがて右手に宝満神社の拝殿。

  
L: 拝殿をクローズアップ。残念ながら御守はなかった。  C: 長い幣殿の先、覆屋の中に本殿。
R: 失礼して覗き込んでみる。本殿は1899(明治32)年の築で、鹿児島県指定の有形文化財となっている。

宝満神社の祭神は、神武天皇の母・玉依姫。かつて日照りに苦しむ住民が宝満の池の水を引こうとしたら大岩に遮られ、
これを崩そうしたところ真っ赤な水が噴き出し、大蛇が現れて舞い上がった。茎永の僧侶が17日間祈祷すると大雨が降り、
舟に乗った美しい女性が宝満の池に現れた。これは玉依姫に違いない、ということで宝満神社が創建された、という話。

 
L: 参道から拝殿に向かわずにまっすぐ行くと、宝満の池に出る。  R: 野鳥がめちゃくちゃいたのであった。

戻ってくると、たねがしま赤米館を見学する。種子島では南方から伝わった赤米を古代より栽培してきたそうで、
宝満神社では現在も赤米の神事が行われている。たねがしま赤米館は、稲作や赤米について展示で幅広く説明している。

  
L: たねがしま赤米館。  C: 展示はこんな感じ。  R: 赤米とその稲穂。赤米は茎が長く、「茎永」の地名はそれが由来。

 神事でつくられる赤米のおにぎり。ちなみに赤米は食べ方を工夫しないと不味いらしい。

茎永の集落から南東に入る。なお茎永は、かつて南種子の中心だったとは思えないほど閑散としている印象。
県道沿いに住宅は点在しているが、田んぼに呑み込まれて農業に特化している空間であるとしか思えない。
なるほどこっちと比べればさっきの町役場周辺は都会である。商店はともかく、人口は集積しているもんなあ。

 種子島宇宙センターへ向かう途中、迫力ある岩肌に目を奪われる。

海に出る直前で東に曲がると種子島宇宙センターの入口である。かつては検問所があったようだが、今は跡地。
少し進むとあらためて設置された看板があった。自由に通り抜けられるのはありがたい。そうでなければこれは大変だ。

  
L: かつての検問所跡と思われる遺構。  C: その少し先に種子島宇宙センターの看板。  R: 構内に残された恵比寿神社。

歩くとつらいがバイクだと楽ちん。快調に進んでいくとJAXAの宇宙科学技術館の前に出る。駐車場がなさそうなので、
さらに進むと芝生広場に出た。反対側が駐車場だったので、スクーターを駐めてまずは周辺を散策してみる。

  
L: スペースシャトル型の植栽。  C: JAXAの宇宙科学技術館。西から入っていくとこんな感じ。  R: 東に抜けて振り返る。

  
L: 後で 宇宙科学技術館の中から見た芝生広場。この日は種子島ロケットコンテストを開催中なのであった。
C: H-IIロケットの実物大模型。  R: その後ろにはJAXAのロゴ型植栽。なんでJAXAはこんなに植栽が好きなのか。

  
L: 芝生広場から南へ行くと竹崎漁港展望台。なるほど、ここでロケットの打ち上げを見るわけか。
C: 展望台に上がってみた。サッカースタジアムのゴール裏立見席みたい。  R: 最上段から見たところ。

 ロケット発射場を望む。

それでは宇宙科学技術館の中を見学するのだ。入館無料だが名前などを書く必要があるのが少々面倒くさい。
時刻を決めて種子島宇宙センターの施設案内バスツアーをやっており、参加すればあちこちいろいろ見られるらしい。
しかしながらスクーターで種子島一周をのんびり目指す僕にはそこまでの余裕はないのであった。ちょっと残念。

  
L: エントランスにあるN-Iロケットの実物大模型。「エヌいち」と読む。日本初の人工衛星打ち上げ用液体燃料ロケット。
C: 展示室に入って最初がこちらの顔ハメ。  R: 中央のスクリーンでロケットの組み立てから打ち上げまでを再現している。

  
L: 歴代の国産ロケットの模型が並んでいる。  C: 回収されたフェアリング(ロケットの最先端部分)。
R: LE-7エンジン。スペースシャトルや旧ソ連で使われた2段燃焼サイクルを日本で初めてやってみたエンジンだそうだ。

  
L,C: 陸域観測技術衛星「だいち」(ALOS)の宇宙環境試験・振動試験・衝撃試験に使用した「熱構造モデル」。
R: 人工衛星インフォボード。さまざまなウンチクを手書きでかっこよく書いているけど、内容が整理されていない。

  
L: 全球降水觀測計画(GPM計画)主衛星の模型(1/16)。  C: 陸域観測技術衛星2号(だいち2号)の模型(1/30)。
R: 第一期 水循環変動観測衛星(しずく)の模型(1/16)。諸元はいいけど、具体的にどんな活躍してんのか教えてくれや。

 日本初の静止衛星・技術試験衛星II型(ETS-II)「きく2号」の模型。

種子島はロケットを発射するところなので、ロケット本体や打ち上げる対象の人工衛星についての説明が多いのは当然だ。
しかしその説明がどうも、理系おたくくさいバランスの欠け方をしているのが気になる。諸元とか本当にどうでもよくて、
それぞれのロケットや衛星にまつわる物語を教えてほしいのだ。具体的にどんな活躍をしてくれたのかを知りたいのだ。
残念ながら、どれを読んでも肝心なことが読み取れない取扱説明書を眺めているような気分。機械の目的を知りたいのに、
ひたすら細かい手段だけを早口で聞かされているような気分。おたく仲間はそれで満足かもしれんが、一般人にはキツい。

  
L: 続いての部屋には国際宇宙ステーション(ISS)の模型。  C: 宇宙ステーション取付型 実験モジュールの模型(1/10)。
R: 国際宇宙ステーションを構成する「きぼう」日本実験棟の実物大模型の内部。椅子で無重力っぽい記念写真が撮れる。

  
L: JAXAが実際に使っている消臭素材の衣類や冷却下着。ショップでも売っていて、興味はあったけど買うには躊躇するお値段。
C: 月と月面探査機の模型。けっこう取り付いてますね。  R: 小惑星探査機「はやぶさ2」の模型。現在は別の小惑星へ移動中。

  
L: こちらは初代の「はやぶさ」が着陸した小惑星「イトカワ」の模型。  C: 「はやぶさ」がちゃんといたのであった。
R: はやぶさシミュレータ。「はやぶさ2」プロジェクトマネージャーのサインがしてあるが、なんというか内輪ウケ感。

  
L: 惑星(&準惑星)と探査機の手書き紹介。  C: 日本の宇宙飛行士の手形。「これ本番ですか?」の秋山さんはいません。
R: みんな手のひらの中、向井さん(→2016.7.10)だけ手の甲。なんでかわからんがさすがだ、と思ってしまうのであった。

正直なところ、ロケット以外の展示もまったく大したことないのであった。わざわざ種子島まで来たのに残念だった。
全般的な傾向として、誰がターゲットなのかわかりづらい。説明が思いっきり子ども向けか専門家向けの2択って感じだ。
まず専門用語というか、宇宙工学の語彙をきちんと解きほぐすところから始めるべきだろう。そこのサボりが甚だしい。
もともと難解な世界なので語彙を説明する力加減が難しいのはわかるが、そこにきちんと取り組んでこそのPR施設だろう。
プロジェクトの目的についても曖昧で、なぜその機械をつくる必要があるのかが、自明の理みたいな扱いになっている。
結果として、客の方を向いていない象牙の塔の自己満足の匂いばかりが漂っている。すごく内向的な気持ち悪さがある。
幼い頃には宇宙が好きで、高校時代にはなんとなく航空宇宙工学がいいかなーと思っていた時期がある僕だから、
可愛さ余って憎さ百倍な感情があるのかもしれない。そうだとしても、この疎外感はちょっと耐えがたいものがある。

種子島といえばやはりロケットなので期待していたのだが、非常に消化不良な気分で宇宙科学技術館を後にする。
歩くと地獄だがバイクだと楽しい適度な起伏とカーヴで北上していくと、ロケットの丘展望所にたどり着く。
大型ロケット発射場に最も近い展望所で、ああなんかTVで見たことあるアングルな気がするなあ、と思う。

 
L: ロケットの丘展望所にて。左の四角いのは大型ロケット組立棟。2本ずつ塔が建っている辺りが大型ロケット発射場である。
R: 大型ロケット発射場をクローズアップ。右が第1射点、左が第2射点。「世界一美しいロケット発射場」と言われているとか。

JAXAのエリアを抜けてさらに北上していくと、広田遺跡である。弥生時代後期から7世紀にかけての墓地遺跡で、
古墳ではなく海岸の砂丘に墓地をつくったのがポイントとのこと。広田遺跡ミュージアムの脇から土の道を行く。

 広田遺跡ミュージアム。ここから右側の道をしばらく歩く。

広田遺跡は海を望む高台にあり、立地的には沖縄の廟みたいなお墓(→2007.7.222018.6.24)と同じ感触がする。
昔の人も美しい海を眺めながら眠らせたいと考えたんだなあ、と思うのであった。今は静かな時間がただ流れている。

  
L: 広田遺跡。  C: 埋葬された箇所に目印が立っている。墓標みたい。  R: 広田遺跡から眺める海はこんな感じ。

  
L: 目印には性別と年齢層が記載されている。  C: 日に焼けて劣化しているが、ご丁寧に写真つき。  R: 静かな時間が流れる。

  
L: 奥へと進むと北側墓域。  C: 北区1号墓(左)と2号墓(右)。  R: 埋葬ぶりをプリントで再現していた。

では広田遺跡ミュージアムの中を見学するのだ。上述のように広田遺跡は弥生時代後期から7世紀にかけての墓地遺跡だが、
特徴的なのは独特の文様が刻まれた装飾品などの貝製品が多数見つかったこと。出土品は国指定重要文化財となっている。
沖縄・奄美は旧石器時代から縄文ではなく貝塚時代に入り、12世紀ごろに農耕社会が確立されたグスク時代へと移行する。
種子島が属する大隅諸島は日本本土の文化圏だが、漁労・採集中心の貝塚文化の影響を強く感じさせる遺跡である。

  
L: 広田遺跡の当時の様子を再現。  C: 埋葬された人々コーナー。写真がリアルじゃ。  R: 北区1号墓の原寸大再現ジオラマ。

  
L: 人形で当時の人々の姿を再現。  C,R: 貝殻を道具や装飾品に加工する工程。これらを日本本土と交易してもいたのだろう。

 発掘された人骨によると、女装した男性(両性具有?)がシャーマンだったとか。

多数の貝製品が展示されていたが、やはり本土の弥生〜古墳時代とはまた違った洗練のされ方をしている印象である。
本土なら動物の骨や角、牙などを使うところ(→2021.4.11)を貝殻ということで、それが最初から芸術性を志向させる。
貝の種類・形によって加工の方向性が決まるわけで、当時の職人たちの感覚をなぞることができればすごく面白そうだ。

  
L: イモガイ玉。イモガイから連珠をつくって首飾り、腕飾りにした例。イモガイ怖い。
C: ゴホウラ貝輪。種子島でしか出土していない特別な形とのこと。腕に通した。  R: 貝匙。

  
L: 貝鏃。本土だと黒曜石が定番だが、こちらだと貝になるのか。  C,R: 貝符。彫刻で模様が施されている。

見学を終えると県道75号に合流し、大浦川にある種子島マングローブパークへ。地理屋としてぜひ見ておきたいのだ。
「マングローブパーク」とはいうものの大規模な施設ではなく、メヒルギの群落をそのまま遊歩道で開放している感じ。
いわゆるマングローブ(→2024.3.10)を構成する樹種は、日本では7種類。種子島はマングローブの北限となっており、
メヒルギの1種のみが生育している。ヒルギ類のうちデカくて太いものは男性的なのでオヒルギ(雄蛭木/雄漂木)、
小さくて細いものは女性的なのでメヒルギ(雌蛭木/雌漂木)というわけ。こちらのメヒルギは特に小さい矮性のもの。

  
L: 種子島マングローブパーク。これぜんぶメヒルギ。  C: 遊歩道で中を歩ける。  R: メヒルギの根元。

  
L: 大浦川。対岸にもマングローブ。  C: 大浦川沿いの遊歩道。  R: 大浦川に近い方は背丈の低い矮性が目立っている。

  
L: 対岸を眺める。  C: クローズアップしてみる。  R: 大浦川に架かる橋から上流側を眺めたところ。

歩きまわって気が済むとさらに北へ。海食洞窟の千座(ちくら)の岩屋が観光客にはそれなりに人気らしいが、
干潮を狙わないと意味がないのでスルー。少し北に行った阿嶽(あたけ)川にもマングローブの群生地があるので撮影。

  
L: 大浦川の河口付近。やはりマングローブ。  C,R: すぐ北の阿嶽川にもマングローブ。やはりメヒルギである。

大浦川の左岸は中種子町で、東南端の集落には熊野神社が鎮座している。旧県社ということで御守を期待して参拝。
1452(享徳元)年に種子島幡時が紀伊国の熊野権現(→2013.2.9/2024.8.3)に参拝した際、分霊を勧請して創建。
種子島で参拝者が最も多い神社で、さすがに社殿はそれなりの規模。しかし宮司さんがお出かけ中で御守は頂戴できず。

  
L: 県道75号に面する熊野神社の鳥居。ここから境内まではけっこう距離があり、歩きだとたいへん面倒くさい。
C: まっすぐ延びる参道。  R: 川に面して神社の入口。石段は地味に長くて、なかなかつらいのであった。

  
L: ラストスパート。境内は広くはないが、高低差を利用して整備されているのがわかる。  C: 拝殿。  R: 本殿。

以上で本日予定していたチェックポイントはすべて押さえた。国道58号を素直に戻って帰るのはつまらないので、
あえて東側の道路を行く。そうしてまっすぐ進んで種子島空港へ。本日のルートでトンネルがあったのはこの辺りだけで、
しかも空港の下をサッと抜ける程度。 派手な起伏もないし、種子島はバイクに優しい島だなあと感動するのであった。

 種子島空港。

あとは県道76号で西之表の市街地へ。宿に向かう途中でのんびり晩メシをいただいて、予定どおりにチェックイン。
天気がよかったおかげで地味に日焼けして、地味に花粉に苦しめられた一日だったが、無事に済んで何よりである。
久しぶりのバイクには緊張しつつ、わかるぞー志摩リンわかるぞー(→2024.6.28)、なんて思って走ったのであった。
慣れてくるとまさに鳥山明の描くマシンの世界、『DRAGON BALL』の扉絵(→2024.3.8)の気分になれる楽しみがある。
明日は種子島の北部を走りまわる予定。最後まで安全にバイクの喜びを味わえるといいなあ、と思いつつ寝る。


2025.3.8 (Sat.)

なんで朝というより丑三つ時に近い3時半に起きなくちゃいけないのかというと、始発列車が4時48分発だから。
どうしてそんな頭のおかしい時間に動きだすのかサッパリわからないが、これを逃すと大ダメージなのでしょうがない。
4時に荷物を背負って出発すると、コミュニティサイクル(これが本当にありがたい)を借りて鹿児島中央駅へ。
16年前のトラウマ(→2009.1.7)はいまだに健在で、乗り換えの山川駅まで一睡もすることなく揺られる。
そうして終点の枕崎に到着したのが7時半の少し前。観光案内所でレンタサイクルの受付が9時からなので、
それまで枕崎駅の駅舎で日記を書いて過ごすのであった。折り返しの都合かもしれないけど、なんとかならんか。

  
L: 南の最果て・枕崎駅に来たけど前よりちょっとオシャレになっとる。  C: 雨が降りだした後で振り返った枕崎駅の駅舎。
R: 枕崎駅は周りより少し高い。それでいったん下りて駅舎を眺めるが、前はこんなのなかった。調べたら2013年完成だって。

枕崎駅に着いた当初は空も明るく、今日一日は曇り空でもつかなあと思っていたが、その期待は打ち砕かれてしまった。
一度降りだした霧雨はずっと続いて、結局この日はやまないままだった。さすがにレンタサイクルを借りるのは憚られる。
できることなら坊津まで行ってみたかったのだが。気軽に「次の機会」とは言えない場所なので、大いにションボリ。
まあ本命は明日なので、明日が晴れてくれれば御の字なのだ。これは明日の分の「貸し」ということにしておくのだ。

雨がひどくならないうちにさっさと枕崎市役所を撮ってしまうことにする。もちろん16年前も撮ったが(→2009.1.7)、
改修されたようで小ぎれいになっていた。調べたら2017年に耐震補強工事を完了していた。なお竣工は1955年。
1950年代の市庁舎建築はきわめて貴重である。2階建てでシンメトリーの意識がまったくない点は時代の特徴。

  
L: 前と同じアングルで交差点越しに南東から眺める枕崎市役所。  C: 玄関が中央に位置しないのが昔の庁舎。
R: これくらい歴史ある建物になると「エントランス」ではなく「玄関」と言いたいのである。気分の問題だが。

  
L: 中を覗き込む。  C: 市役所通りを挟んで南側からできるだけ全体を眺める。  R: 南西から。緩やかな坂なのだ。

  
L: 西側に延びている増築部。特に名称はない模様。  C: 増築部ごと南西から見た全体。  R: 裏に抜けて北から見た増築部。

  
L: 本体部分の西端。  C: 本体部分の背面。北から少し西に振り返ったアングルとなる。四角いのが議事堂。
R: さらに進んで眺める背面。位置的には、さっきの交差点越しに見た角度の正反対という感じになる。

  
L: 近づいてみた。  C: 敷地の外に出て、北東から見たところ。  R: 本体部分の東端。以上で一周完了とする。

本来なら自転車で行く予定だった立神岩方面へと歩いていく。が、花渡川(けどがわ)を渡った辺りで気が変わった。
距離はあるけど、行ったところでキャンプ場くらいしかないみたいで、往復するのは時間と労力のわりに実りがなさそう。
16年前も諦めて悔しかったが、自転車を借りない選択をした以上、しょうがない。一発写真を撮って引き返す。

 立神岩は今回も眺めて終わり、なのであった。仕方ないか。

さて16年前にはスルーしたのが明治蔵。さつま白波で知られる薩摩酒造の花渡川蒸溜所が、見学可能となっているのだ。
せっかく来ているんだからと軽く見てまわる。蒸留器はメソポタミアが発祥で、西へ行ったらウイスキーが生まれ、
東へ行ったら中国で白酒、タイでラオロンが生まれた。一方、メキシコ原産のサツマイモは大航海時代にヨーロッパへ。
これが喜望峰をまわって東南アジアにやってくると、中国、琉球、そして薩摩に上陸した(それで「サツマ」イモなのね)。
つまり芋焼酎は両者のゴールというわけだ。あらためてそういう視点を示されると、興味深い文化の実例だと思う。

  
L: 明治蔵の入口。  C: 中に入って左手が見学コースの入口。ぐるっとまわって右手の売店に出る仕組み。
R: 火の神ロードから見た明治蔵の裏側。展望塔の「立神楼」がたいへん目立っている。なかなかの要塞ぶり。

  
L: まずは焼酎についての概要から。  C: 仕込み甕壺(鳴瀬甕)。明治前半に武雄から船で運んだそうだ。
R: さつま白波シリーズ。たいへんコスパがいいようで、鹿児島県民の支持が厚いと前に土産店の人から聞いた。

  
L: なかなか昭和な説明ボード。米麹でサツマイモを発酵させて醪(もろみ)を蒸留。  C: ガラス越しに製造タンクを眺める。
R: 「日本初の溶接工」金本福松が20代のときにつくった石炭ボイラー。1914(大正3)年から1963年まで使われたという。

  
L: 通路には焼酎壺が並べられている。  C: 小学生の習字。「いも」はともかく、「新酒」はなかなか大胆に思えるが。
R: いちばん奥に展望塔の「立神楼」への入口がある。なぜこんな、ちょっと竜神池っぽい飛び石になっているのか。

  
L: 展望室までは92段の階段で一気に上がるのはちょっとハード。休憩するのにちょうどいい感じになっているのはよい。
C: 東の市街地中心部を眺める。市役所は2階建てなので見えない。  R: 南を見ると立神岩。消防署の「119」がよく目立つ。

  
L: 下りてきて見学続行。後半戦は実際の蔵の様子を展示。  C: 米蒸桶。  R: 木の樽による蒸留装置。原酒は度数37%だと。

  
L: ずらりと並ぶ仕込み甕。麹造りで2日間、甕仕込みによる発酵は一次醪で6日間、二次醪で10日間。計18日で原酒ができる。
C: 黒千代香(黒ぢょか)のコレクション。これもまた独自の文化。  R: 一升瓶抱き枕。全長80cmで値段も6600円とビッグ。

限定販売の文句には弱く、両親向けに焼酎を買って送ってしまうのであった。でもたいへん勉強になって楽しかった。
天気は悪いが、置かれている状況の中ではしっかり楽しませてもらっている。次の目的地の南方神社までのんびり歩く。
枕崎市はもともと鹿篭(かご)麓が中心だったが、近世末期以降に鰹漁で発展した枕崎港の方が市街化していった。
そのせいか、枕崎には鹿篭麓の南方神社ぐらいしかこれといった神社がない。それで2km以上もトボトボ北上する。

  
L: 花渡川から国道270号をひたすら歩いて南方神社に到着。鳥居が2つ並ぶ並列鳥居となっているのが特徴。
C: 石段を上ると広い境内に出る。左端が南方神社だが、向かって右に境内社の淡島神社と護国神社が並ぶ。
R: 南方神社の拝殿。1931年の築だが、台風による被害でご覧のとおり改修中。枕崎は台風銀座で有名だもんなあ。

参道は東側で、麓(→2015.8.17)の匂いが残る住宅地をまわり込む。南方神社は1357(正平12)年の創建で、
諏訪大社から勧請した建御名方神と妻の八坂刀売神を祀っている。なるほどそれで「みなかた」という名前なのだ。
社殿は台風の影響で改修工事のシートをかぶっていたのが残念。御守の初穂料を工事費の足しとしていただこう。

 
L: 本殿。1873(明治6)年の築だがこれでは……。  R: 左が淡島神社、右が護国神社。

トボトボと引き返して枕崎港方面へと戻る。花渡川を渡ってまっすぐ南へ行き、枕崎お魚センターへ。
枕崎といったら鰹なので、ランチに鰹をいただくのだ。お魚センター内の枕崎みなと食堂では定食も丼もあって、
地魚とかなり迷ったけど初志貫徹でやっぱり鰹だろうということで、ぶえん鰹丼1600円をいただいたのであった。
で、出てきた鰹は身の厚さにひたすら感動。しかもそれだけではなく、かつお節は取り放題、かつおだしは飲み放題。
おかわりごはんが100円で、かつおふりかけでいただいたのであった。九州らしく甘めで、しょっぱすぎず適度な味。
これまた飲み放題の枕崎茶を飲みながら(濃く出してあって旨いのだ)、超かつおづくしで最高ですな!と惚ける。
天気にはまったく恵まれなかったが、早朝からがんばって枕崎にわざわざ来てよかったと心の底から思うのであった。

  
L: 枕崎お魚センター。こちらがきれいになった分、近くの地場産業振興センターはかなり弱体化していて悲しかった。
C: 出汁がらふりかけ。飲み放題のかつおだしの出汁がらを再利用。  R: 取り放題のかつお節。削りたてで香りがよい。

  
L: 飲み放題のかつおだし。  C: ぶえん鰹丼。ぶえん鰹については過去ログ参照(→2009.1.7)。
R: おかわりごはん100円を出汁がらふりかけでいただく。たいへん贅沢なランチをいただいて幸せ。

ぐずついた天気は朝よりも少し雨が強まってきた印象で、残念な気持ちを抱えながら枕崎を後にする。
でもできる範囲で存分に楽しめた。健康にいいやと開き直って歩きどおしだったけど、それはそれで枕崎を味わえた。

 旧頴娃町の辺りって海岸段丘っぽさを感じるんだけど違うみたいね。

乗り込んだ列車は指宿駅が終点で、多くの観光客とともに改札を抜ける。しかしそこは中国語を中心に外国語が飛び交い、
これだけのインバウンド客がみんな温泉に殺到するのかと思うと、もうそれでナエナエ。しかも雨の勢いは強まっている。
次の目的地は揖宿(いぶすき)神社だが、最寄駅はもう1駅先の二月田。しかし二月田に行く列車は1時間後である。
歩いた方が多少マシかと思ったが、駅前のバス停で運よく市役所方面行きの便があることに気づいた。これはありがたい。
せっかくなので久しぶりの指宿市役所にも寄っておこうと思ったら、9年前と色が違っているではないか(→2016.3.20)。
1973年の築らしく、僕がボケッとしている間に改修工事が行われたようだ。雨の中、正面からの写真を撮っておく。

  
L: インバウンド客がいっぱいの指宿駅。  C: 指宿市役所は色が変わっていた。  R: 動揺しつつも正面から撮っておく。

市役所から西へ800mほど行ったところに揖宿神社は鎮座している。「揖宿」と「指宿」の2つの表記が気になるが、
「揖宿」は郡名であり、揖宿神社という名前は明治に入ってから。「いぶすき」はもともと「湯豊宿(ゆほすき)」で、
「行く」を「いく/ゆく」と読むように「ゆ」が「い」に転じたらしい。「ゆ」の音を反映して「揖(ゆう)」が、
「ゆほ」が訛って「指」が、それぞれ使われるように変化していったのだろうか。歴史が古い分だけややこしい。
かつてこの地を天智天皇が行幸したそうで、揖宿神社は706(慶雲3)年に天智天皇の遺品を奉じて創建された。
874(貞観16)年に開聞岳が噴火すると、枚聞神社(→2009.1.72016.3.20)が避難して遷宮したという歴史を持つ。
なるほど勅使殿を中心に、両翼に長庁(宝物殿と参集殿)を配置する特殊な構成は枚聞神社を思いださせる。

  
L: 揖宿神社。参道は北に延びている。  C: 境内入口。  R: 鳥居をくぐって随神殿。随神門ではなく随神殿だと。

  
L: 参道から少しはずれて左右の長庁と中央の勅使殿を眺める。  C: 勅使殿。拝殿はこれより奥になる。
R: 拝殿や舞殿などが並んでいちばん最後に本殿。社殿は1847(弘化4)年に第10代薩摩藩主・島津斉興が造営。

 
L: 本殿などの脇にはコンパクトな庭があった。  R: 少し離れたところにある揖宿神社の祖霊殿。

御守を頂戴すると、本日のタスクはいちおう終了。あとは温泉に浸かって鹿児島市内に戻るだけである。
が、さっきの指宿駅の混み具合からして、摺ヶ浜海岸周辺に戻って浸かろうという意欲がまったく湧いてこない。
揖宿神社近くの観光案内板によると、近くに殿様湯という温泉があるということなので、そっちに方針転換。
参道からそのまま右にカーヴしてしばらく行くと、川の反対側にコンパクトな施設が現れた。これが殿様湯だ。
その名のとおり、もともとは1831(天保2)年に島津斉興が設けて以降、歴代藩主の別館となっていた温泉で、
息子の斉彬のお気に入りだったとか(斉興は斉彬と仲が悪く、斉彬を暗殺した説あり。斉彬の死後、藩政を掌握)。
現在は遺構のみが残っており、今も湯が湧き出しているので半分水に浸かっている状態となっている。

  
L: 殿様湯の外観。左が正面。  C: 今も元気にお湯が湧き出しているのだ。  R: こちらが入口。

では殿様湯にお邪魔するのだ。運のいいことに客は僕だけというタイミングで、たいへん気持ちよく浸かることができた。
お湯は少し熱いが慣れると快適。何度か浸かったり上がったりを繰り返してバランスよく楽しむのにちょうどいい感じ。

 
L: 殿様湯の湯船。  R: 島津家の家紋「丸に十文字」がさすがなのだ。上段で熱い湯を冷まし、湯船の底へと通す。

ではあらためて、殿様湯跡の写真を貼っておくのだ。さらに奥の方には湯権現(ゆのごんげん)神社があるが、
社殿が2つ仲良く並んでいる。左側が湯権現で、右側は八幡宮とのこと。島津斉興が殿様湯をこちらに移した際に遷座。

  
L: 殿様湯跡。現在の殿様湯のすぐ後ろにあるのだ。源泉から段差をつけて溜めていき、適温に調整したとのこと。
C: 角度を変えて眺める。左側のタイルはイギリス製で、明治中期以降に改装された箇所だと。  R: 湯権現と八幡宮。

二月田温泉も十分にすばらしいではないか、と大いに満足して駅へと向かう。9年前にも書いたが(→2016.3.20)、
二月田周辺は歩いているとけっこうあちこちから湯気が出ている。やはりいい温泉が出る場所なのだと実感する。

 二月田のバス停付近。手前の側溝だけでなく、バス停の標識の辺りも湯気に包まれている。

二月田駅から列車に乗り込み、そのまま鹿児島中央駅へ。18時少し前という悪くないタイミングで到着である。
さて鹿児島といえばやっぱり黒豚のトンカツを食わねばなるまい。毎回お邪魔している店に突撃するが、
混み合う前にいただくことができた。店舗は改装して店内が広くなっていた。早い時間で日本の客しかいなかったが、
インバウンド客にも受けて繁盛しているんだろうなあと思う。しかしご飯とキャベツのおかわり自由はありがたいものの、
値上がりの影響を強く感じる。「並」だとどうしても肉が少ないんだよなあ(→2009.1.62016.3.202017.8.19)。

 「上」を注文するとなると度胸のいる値段なのよ。「並」だと迫力がないなあ。

天気のわりにはずいぶんしっかり楽しめた一日だった。まあ旨いもん食って温泉浸かれば楽しくないはずがない。


2025.3.7 (Fri.)

1年ぶりの鹿児島、島を堪能するだけではもったいないので、そりゃもう前乗りなのである。
早引けして羽田空港に移動するが、やっぱり多摩丘陵の真ん中ら辺から羽田は遠いのであった。
そして鹿児島空港に到着しても、空港じたいが鹿児島市街から遠い。ついでに天文館も鹿児島中央駅から遠い。
とはいえ、ほぼ予定どおりに鹿児島に到着。晩メシをいただいてから即、寝るのであった。3時半起きですのよ。


2025.3.6 (Thu.)

三井記念美術館『魂を込めた 円空仏―飛騨・千光寺を中心にして―』。円空仏を見るのはたぶん初めて。
円空は江戸時代前期の僧侶で、美濃国は羽島市役所(→2012.8.12/2023.8.10)のある竹鼻町の出身とのこと。
全国を旅して仏像を彫りまくり、5000体以上が現存。晩年を飛騨国で過ごしたので愛知と岐阜に特に多く残っている。
なんとなくヘタウマの代表格みたいなイメージがあるので、それがどこまで払拭されるのかワクワクしつつ拝観。

最初の作品を見て、ああこれはヘタウマではなくミニマルなのだ、と悟った。確かな作風でもってミニマルをやっている。
まず最大の特徴は、裏側が平らである点。これは背面を省略したせいだが、裏から見ると梵字も入って卒塔婆に見える。
また、レリーフのような印象にもなる。好意的に解釈すれば、無から仏が出てきた瞬間を捉えた、と考えることもできる。
それに加えて鑿の跡をしっかり残しているのは、彫ることで木から仏性を取り出す、という行為を強調しているようだ。
多角形の構造で表現するポリゴンに少し似ているが、円空の鑿の跡は、仏性が認められる最小限の形態ということだろう。
どれだけ少ない手数で彫れるか、どこまでミニマルに彫って仏像として成立するか、チャレンジしている感触があるのだ。
手を加えすぎることなく、自然と人工の中間の位置を探ることで、人間が仏に近づく境地を求める試み。そういう印象。

12万体の仏像を彫るべく量産を追求した結果として独特なスタイルが確立されたというが、実際にはめちゃくちゃ巧い。
柿本人麻呂坐像はかなり本気で彫っているのがわかる傑作である。粗い彫り跡と前面のみという仏像の特徴を残しており、
そこが彫刻家・円空のアイデンティティであることが窺える。また、小さい如来坐像も同じ作風で精密に彫っていて、
技術の高さがよくわかる。神像がかぶっている幞頭の大胆な造形も見事で、ここからも彼のセンスは明らかである。
顔についてはやはりミニマルだが、こけしっぽい。また強さ担当の仏の場合には、滝平二郎の切り絵っぽさが出てくる。
そして稲荷神の頭部を狐、鹿島神の頭部を鹿にしてしまう大胆な想像力も持っている。やはりここでも境界を探っている。
もうひとつ特徴的なのが、左右非対称となることをまったく恐れないこと。そのせいで仏像に独特な動きが出てきて、
他の仏像にはない現実感が生まれるのが興味深い。前半分しかないくせに、そこに仏として存在する感じが確かにある。

  
L: 護法神立像。  C: 金剛神立像。  R: 円空の特徴は、前半面のみ立体化して背面はまっすぐ切り落とすこと。

 
L: 両面宿儺坐像。大和朝廷に従わなかった飛騨の豪族だが、地元では龍や鬼を退治したり寺を開いたりと英雄扱いも。
R: 「慈悲」と「忿怒」それぞれの相を持つ。円空は裏面を彫らないのでこのような横並べの表現になったわけか。

  
L: 三十三観音立像。かつて病気の近隣住民が持ち出して病気平癒を祈った。そのせいか2体なくなっており、現在31体。
C: そのうちの1体をクローズアップ。いかにも標準的な円空仏。  R: 顔はひとつひとつ微妙に違うが、目と眉は線。

もっと「上手に」彫ることができるのに、自分の作風を強く意識して、「ふつう」の仏像を彫らずチャレンジを続ける。
そういう個の価値観が前面に押し出されていることで、作家性にこだわった近代的な仏師という評価ができると思う。
円空よりも少し前に京焼で野々村仁清が作家性を出しているが、江戸時代の近代性を示す存在であると言えるのでは。


2025.3.5 (Wed.)

『セプテンバー5』。1972年9月5日という一日を描いているので、ファイブじゃなくてフィフスでいいんだよなあ?
1972年9月5日とは、ミュンヘンオリンピックの真っ最中にテロが発生し、イスラエル選手団が犠牲になった日である。
これをアメリカのABCが生中継して世界中に伝えたのだが、その現場を徹底的にTVクルーの視点で描いた映画。

映像は当時の基準に合わせている感じ。実際の映像を交えながら、まったく違和感なく現場の緊張感を描いていく。
おかげで極めて主観的な仕上がりとなっており、何がどうなっているのか客観的な事態がわかりづらい場面も多い。
ふつうの映画では何気なく差し込まれる、状況を客観視するカットにふだんどれだけ助けられているかがよくわかる。
逆を言うと、究極的に錯綜した状況がそのまま味わえる。舞台空間はほぼABCのオリンピック特設スタジオのみ。
ドキュメンタリーの側面を強調するためにそうなっているのだが、舞台空間を限定することの長所と短所が味わえる。
いろいろな問題が発生するけど、徹底してドキュメンタリータッチなので、説明が与えられないのはなかなかつらい。
しかも上映時間は94分で、リアルなのに作中の時間は飛び飛びで経過する。これも地味に状況をわかりづらくしている。

さまざまな切り口を持った事件だったことがよくわかる。たとえば、戦後のドイツが置かれていた状況。
これがそのまま最悪の結末につながっているわけで、そこにクローズアップしても、いくらでも物語が生みだせる。
しかしこの作品はマスコミの仕事と矛盾という問題に専念する。社会学的もったいなさも正直感じてしまうが、
テーマを絞った潔さは評価しなければなるまい。マスコミの有能さと傲慢さがたっぷり描かれて、その点は実に濃ゆい。
われわれには「知りたい!」という知的好奇心がある一方で、あえて行動を抑える倫理観というものも存在する。
どちらも人間性に深く関わる要素だ。それをTVクルーは最も衝撃的な形で突きつけられることになったわけだ。
ただ、現場でのてんてこ舞いがすごすぎて、葛藤はそこまで深く描かれない。それが現実だったから、そうつくった。
しかし観客に問いかけたいものがあるのなら、TVクルーが直面する問題を、彼らの行動が意味することになる結果を、
全員に熟考させる余裕が必要だったのではないか。あまりにもドキュメンタリーを優先しすぎて、見失っているものがある。
キツい言い方をすると、観客への問いかけよりも、単なる再現映像づくりを優先しているように思えるのである。
それはそれで潔い姿勢ではあるが、作品がより良くなるチャンスを自ら放棄してしまっているのは確かだろう。

厳しい言い方すれば、よくできた再現映像だが、本来深いはずのテーマを客観視させない分、響きづらい。
描く対象をとことんまで絞っているのに、何が起きているのか、何が問題なのかがわかりづらい。実に残念な仕上がりだ。
リアルをとことん追求すれば観客に言いたいことが伝わるかというと、そうとは限らない。むしろノイズが多くなる。
情報をただ観客に提示する一方の投げっぱなしジャーマン(ドイツだけに!)では、困ってしまう人がほとんどだろう。
強調したいことがあるから、あえて事実から離れる。そういうフィクションの意義が逆説的に理解できる作品である。


2025.3.4 (Tue.)

今日も雪でした。まあ雪が降らない年なんかは温暖化直撃って感じで、それはそれでイヤな気分になるのでしょうがない。
素直に冬の寒さを受け容れるとしましょう。3月だけど。……もう3月かよ! 怒濤の来年度の足音が聞こえる……。


2025.3.3 (Mon.)

卒業式なのであった。今年度の卒業生は僕が異動してきたのと同時の入学だったので、ちょっと思い入れが強い。
もう3年経って卒業かよと驚いている。こっちは大して何も成長していないというのに。卒業おめでとうございます。

ちょっとだけグチ。本来なら僕が卒業証書授与の介添えをやる予定だったのだが、どこかのバカがひっくり返しよった。
理由は修学旅行に行ってないからだと。こっちは3年間で卒業生の90%以上を教えたのだが。そんなに旅行が大事かバーカ。
でも僕を指名してくだすった3学年の先生方には感謝をしております。皆様と2年間を同じ学年で過ごせたのはありがたい。

ここまで天気に恵まれてきた学年なのだが、今日は寒いし雪だし、最後の最後で涙雨以上の何かがやってきたのであった。
でも本当に、生徒も先生もとことん楽しい学年だったと思います。皆さんがいなくなっちゃうのは淋しいなあ!


2025.3.2 (Sun.)

午前中は御守の撮影作業に専念し、正午を過ぎてお出かけ。戸栗美術館に行きたいが、混んでいる渋谷はイヤだ。
それならいっそ自転車で行くべきだろう運動不足だし、ということでのんびりサイクリングなのであった。
せっかくなので昼メシはベジ郎でいただいたのだが、正直なところ人気になるような店ではないと思うのである。
前に食ったときはやたら野菜が硬かったし、今回はモヤシの嵐。タレで味が濃いのも僕にとってはありがたくない。
野菜炒めってのはそんなジャンクな料理じゃねえだろう!と思うのだが。若者にはいいのかもしれませんがね。

では気を取り直して、戸栗美術館。今回は『千変万化―革新期の古伊万里―』という企画である。
「伊万里」こと有田焼の詳しい歴史についてはたびたび書いているが(→2018.2.252023.3.162023.5.28)、
今回のテーマは17世紀半ばの初期伊万里からの移行期、色絵を始めたばっかりの頃がメインである。
印象としては「プレ柿右衛門」と表現できるような感触の器からスタート。一方で古九谷もがっつりあるが、
この古九谷の濃い緑が洗練されて柿右衛門につながったのかなと思う。その推移がよくわかる展示だった。
(九谷焼は濁手のような美しい白が出ないため、色を濃くしてある意味ごまかしたと認識しているが。→2022.5.24)
また染付は、明の混乱による海外からの需要を受け、中国絵画のエッセンスを学んだことでどんどん洗練されていく。
初期伊万里の素朴さも日本の「カワイイ文化」を確実に反映するもので、味があるんだけど、引き返せない感じだ。
また造形の技術も上がって、形状も大胆になっていく。これらの革命が17世紀半ばに猛スピードで起きたのである。
そして柿右衛門とはつまり、古九谷を経由した色絵と中国絵画を学んだ染付のハイブリッドと解釈できるわけだ。
その後も革命のスピードはまったく落ちず、さらに金襴手へと変化をみせていくことになる。激動の時代だなあ。

 
L,R: 今回撮影OKだった『色絵 雉文 扇面形皿』。緑の濃さがたいへん古九谷様式。扇を重ねた意匠もまさに革新期。

それにしても鍋島のレヴェルの高さよ(→2024.6.12)。デザインが完成されていて、見飽きることがない。
有田の金襴手は空白を必死で埋めるけど、鍋島は空白まで生かしきっての研ぎ澄まされたデザイン。惹かれるわぁ。
戸栗美術館は毎回楽しい。見過ごされがちな初期伊万里にこだわることで、むしろバランスがとれている感があるかな。


2025.3.1 (Sat.)

本日は天気もよく、日付としてキリもよかったので、来年度以降へ向けての神頼みに出かけたのであった。
前にもやったことがあるのだが(→2021.12.182021.12.19)、おかげでここまでどうにかなった感触があるので。

まずは武蔵国一宮の氷川神社。お次は武蔵国総社の大國魂神社。最後に毎度おなじみ谷保天満宮。
どれもすべて災難除、厄除での公式参拝である。まずは自分の側がよけいなトラブルを起こさないようにと心がけつつ、
外から災難が降りかかってこないようにとお願いするのであった。これでなんとか3年間もってくれれば。必死である。


diary 2025.2.

diary 2025

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