diary 2025.4.

diary 2025.5.


2025.4.26 (Sat.)

昭和100年映画祭、第12弾は『犬神家の一族』。横溝正史原作のミステリを市川崑監督で映画化した作品。
日本のミステリ映画における金字塔とされており、石坂浩二が金田一耕助を演じた最初の作品となる。
なお、いわゆる「角川映画」の1作目でもある。原作が角川文庫から出ていたことがきっかけだと。

舞台が思いっきり長野県で少々ずっこける。「那須」という栃木県風の地名だが、景色がたいへん長野県。
湖が明らかに大町(青木湖とか木崎湖とかその辺 →2023.10.14)だし、街は諏訪のイメージ(→2016.8.21)だろう。
いわゆる「因習村」とはちょっと違うが、同族経営の大企業が牛耳る企業城下町というのは僕の中では意外で、
そこで違和感をおぼえてしまったのはもったいないというか何というか。景色の描写が丁寧な分、違和感が大きくて。

オープニングの巨大な明朝体から市川崑のやりたい放題。もちろん展開もテンポがよくってさすがである。
歩いている人物を同じ速度の後ろ歩きのカメラで写して揺れを出し、緊迫感を演出する手法も面白い。
原作がミステリなので監督が改変する余地はもともと少ないだろうけど、限られた中できちんと自分の色を出している。
でもその一方で大衆向けというか角川映画らしい匂いも確かにあって、独特な質感がある。カラー映画であるせいか。

僕はミステリが嫌いなので(→2005.8.242006.3.312008.12.5)、トリックや話の流れについて特に感想はない。
まあ、受け手には知らされない過去をいきなり露わにすることで(名探偵だけがその過去を探し当てることができる)、
目下の犯罪が実行される理由を説明するのはどうなのよ、と思うだけである。またその説明ゼリフも好きでないので。
むしろスケキヨというキャラクターを生み出したこと、それを映像で示したことにこそ、この作品の価値があると思う。
スケキヨがスケキヨでなかったら、何も面白くないはずなのだ。マスクと足、そのヴィジュアルの面白さがすべてだろう。
あと、おいおいタバコ吸わせんなよと思っていたら、そういう結末に。冴えてるはずの金田一、そこになぜ気づかない?

最高だったのは、映画館の係の方がスケキヨスタイルで客を迎えていたこと。女性と男性のスケキヨがそれぞれいたが、
男性の方は声まで寄せていて完璧なのであった。こういう素敵な映画館が閉館してしまうのは淋しいなあ!

 スケキヨさん、素敵よ。

まあやっぱりスケキヨですよね。ミステリというより、偉大なネタ元を発明したことでの金字塔でありますね。


2025.4.25 (Fri.)

昭和100年映画祭、第11弾は『探偵物語』。松田優作が探偵だっていうから工藤ちゃんだと思ったら違った……。

結論から言うとこれ、薬師丸ひろ子を味わうだけの映画なのであった。
角川映画はしょうもないものだなと、赤川次郎はしょうもないものだなと思うのみである。
……で、松田優作に薬師丸ひろ子の尾行を依頼した人は誰だったの? 何の伏線にもなっとりゃせんがな。


2025.4.24 (Thu.)

昭和100年映画祭、第10弾は『二十四の瞳』。「にじゅうし」って読まないと不正解だぜ。

壺井栄の原作を木下惠介監督が映画化。主演は高峰秀子である。例によって僕は原作未読で申し訳ないのだが、
原作を丁寧になぞって映画化されているのが伝わってくる。特別なことをせず、とにかく愚直に映像化している。
だからこそ響いてくるものがあるわけで、周りの観客がみんなことごとく泣いているのであった。これには恐れ入った。
貧しさからの軍国主義というつらさ、そんな状況を生き抜いたことはそれだけで偉いということ(→2025.1.13)。
決してドラマティックに描いているわけではないのに、いやそれだからこそ、物語が説得力を持って迫ってくるのだ。
戦争の苦しさを味わった人たちが表現する日常の質感は、戦後80年経った現在でもリアリティそのものとして伝わる。
この感覚はちょっと不思議でもある。フィクションがどうしてこうも真に迫って伝わるのか。やはり傑作なのである。
二十四の瞳映画村、岬の分教場は12年前に訪れているが(本作ではなく1987年版映画のセットである →2013.12.29)、
この映画をきちんと観ていたら、かつて日本を覆っていた戦争の質感に一気に襲われて立ち尽くしてしまっただろう。

個人的に最も「うわー」と思ったのは、アカと疑われるからよけいなことを言うな、と上から釘を刺されるシーン。
さすがにアカ云々は現代ではありえないが、生徒に厳しいことを言うな、と釘を刺されるのはままあることでして。
これは教員として身につまされるシーンだった。しかも現代では文句を付けてくるのは国家ではなく生徒なので、
戦時中とヴェクトルは真逆でも、負けず劣らず絶望的な事態なのだが 。別の病理がはびこっているのかもしれませんな。


2025.4.23 (Wed.)

昭和100年映画祭、第9弾は『男はつらいよ』。記念すべき一作目である。
柴又は葛飾区の回で自転車で走っており、葛飾柴又寅さん記念館にもちゃんと行ったのだが(→2022.10.2)、
肝心の映画を観るのはこれが初めてなのだ。今ごろ初めてとかお恥ずかしい。

これが初代かー!と思いつつ観る。日本の常識を今ごろになって学んでいく私なのであった。
今回は奈良だが、日本各地の観光地に行きつついろんなヒロインが出るとは、たいへん巧いシステムを発明したものだ。
強烈なキャラクターが他者/マレビトとしてドタバタを誘発して去っていく。なるほどこれは王道のシリーズ物なのだ。
キャラクターの構築によって、一挙手一投足が娯楽となる。パターンが固定化された方がむしろ有利になるレヴェル。
渥美清のしゃべりがとにかく圧倒的だ。特にリズムが心地よい。こりゃ俳優が役と同化して受け止められるわ、と思う。
もう渥美清という人格が車寅次郎という人格に完全に上書きされて見える。このしっくりくる感はいったい何なのか。
キャラクターといいシステムといい、山田洋次監督はとんでもない発明をしたものだ。そりゃあ国民的映画になるはずだ。


2025.4.22 (Tue.)

伊丹十三映画祭が開催中で『スーパーの女』を見たのだ。

伊丹十三監督作品を見るのは初めてである。僕が小学生から高校生くらいの時期にはたいへん話題になっていたが、
僕が大学1年のときに亡くなっている。自殺とされているが、まあどう考えても殺されたのだが。日本の闇ですな。
それだけ社会問題を鋭くえぐり、それだけ影響力があった映画監督ということだ。今ごろ初めてとかお恥ずかしい。

『スーパーの女』は1996年の公開で、スーパーマーケットの再建がテーマ。食品の偽装が中心的な問題となっており、
その鋭すぎる視点には驚かされる。また、徹底して客の立場に立つことの正しさ、仕事に対する誇りの正当性、
そういった普遍的な真理についてもしっかり言及している。学べる内容であり、自己を見直す内容でもある。
そんな具合にバリバリの社会派な骨組みでありつつも、完全にエンタメとして成立しているのがまた凄い。
日常の生活空間をこれだけのエンタメに昇華できるってそうとうな快挙だぞと、ただただ感心させられた。

コツとしては、主演の宮本信子が活躍する形に落とし込むパターンが確立されていることだろう。
これが女性の強さを表現することにもつながっている。弱きを助け、強きをくじく展開との相性もいい。
伊丹十三が本当に凄いのは、綿密な取材をコテコテのストーリーに乗せて楽しませる技術を持っていることだ。
また、本職が俳優ではないタレントの的確な起用も光る。「この人がこの役を!」という楽しみを上乗せしている。
あとは本多俊之のリズミカルな音楽も印象的だ。カーチェイスはクライマックスでサーヴィスしすぎな感もあるが、
やってみたかったんだろうなあと思う。エンタテインメントに徹する姿勢は、まさに客の立場に立っているのだ。

伊丹十三映画祭は2月からやっていたのだが、アンテナの張り具合が不十分で完全に乗り遅れてしまい、激しく後悔。
いつになるかわからないけど、なんとかして残りの伊丹十三作品も映画館で観たいものである。


2025.4.21 (Mon.)

ここんとこ映画で有楽町に入り浸っているわけだが、そうなると東京交通会館に寄っちゃうのである。
アンテナショップの聖地(→2011.5.7)ですからな、全国各地の名物を眺めたり買ったりしてホクホクしております。

で、衝撃を受けたのが沖縄の「わしたショップ」。先日、波照間島(→2025.3.29)で買った「泡波」を置いているが、
お値段が凄いことになっている。100mlでも1500円超えで、一升瓶なんて2万5千円近い。いやプレミアムすぎる!

 泡波。こりゃ壮観でございますな。

僕は飲めない人なので今までぜんぜん気づかなかったけど、現地のアレが都会でこんなことになっとるのかと。ただ驚愕。


2025.4.20 (Sun.)

東京都庭園美術館でやっている『戦後西ドイツのグラフィックデザイン モダニズム再発見』を見てきた。
昨年、『アイデンティティシステム 1945年以降 西ドイツのリブランディング』を京都で見たが(→2025.1.10)、
それと似た内容だろうなあと思いつつ鑑賞開始。結論から言うと、かぶっているのは一部だけだった。

 旧朝香宮邸。個人的には「デザインの帝国」と呼びたい建物。

旧朝香宮邸の本館はオトル=アイヒャーとキール・ウィーク関連が撮影OK、奥の新館はほぼすべて撮影OK。
ということで、撮った作品を中心にあれこれテキトーに書いていく。まずはオトル=アイヒャーで、
ミュンヘン五輪のデザイナーを務めたことで知られる。特に東京五輪で登場したピクトグラムを整理し、
45°の斜め線でまとめてさらに洗練したのが主な業績。それ以外もセンスが炸裂していて、どれもお見事。
ミュンヘン五輪は、1936年のナチス主催ベルリン五輪へのアンチテーゼということで赤と黒を排除し、
水色と緑色を中心に据えたという話。正直、今回展示された作品ではオトル=アイヒャーの独り勝ちという印象。

  
L: オトル=アイヒャー『ミュンヘン オリンピック 1972』。  C,R: 細部を拡大してみた。

  
L: オトル=アイヒャー『ミュンヘン オリンピック 1972』。これ絶対、亀倉雄策の陸上ポスターを参考にしているよな。
C: オトル=アイヒャー『ミュンヘン オリンピック 1972』。ピクトグラムによって競技スケジュールを表現したもの。
R: オトル=アイヒャーの作品群。上がエルコの冊子で、下がミュンヘンオリンピックの冊子。

  
L,C,R: オトル=アイヒャー『エルコ(ピクトグラム)』。

 
L,R: オトル=アイヒャー『イスニー・イム・アルゴイ』。イスニー・イム・アルゴイはドイツ南部の町。観光のためのデザイン。

キール・ウィークはドイツ北部のキールで開催される世界最大規模のセールボートのお祭り。ヨットレースだけでなく、
帆船のパレードなど、帆のある船ならなんでもいいみたい。ポスターの指名コンペはドイツデザイン界において重要だと。

  
L: ハンス=ヒルマン『キール ウィーク 1964』。  C: ドリス=カッセ=シュリュター『キール ウィーク1985』。
R: メンデル&オベラー『キール ウィーク 1986』。どれもヨットの帆がモチーフになっているわけですな。

 キール・ウィークの各種デザイン。

新館ではポスター、特に映画関連のポスターがよく目立っていた。今回のテーマは「グラフィックデザイン」で、
京都での「リブランディング」とは明らかに方向性が異なる。その分、ちょっともっさり感があると僕は思う。
すっきりしたインダストリアルデザインやコーポレートデザインとは違って、手づくり感が強めなのだ。
僕にしてみればそこが好みからはずれる部分なので、やや残念。ドイツという場所よりは時代の影響の方が強そう。

  
L: ミヒャエル=エンゲルマン『T2』。  C: イュルゲン=シュポーン『ベルリンのためのB』。
R: ハインツ=エーデルマン『映画「イエロー・サブマリン(ザ・ビートルズ)」』。

  
L: ディーター=フォン=アンドリアーン『展覧会「ドイツ交通展 ミュンヘン 1953」』。
C: リヒャルト=ロート『第39回 国際モーターショー』。  R: メンデル&オベラー『展覧会「自動車のデザインプロセス」』。

  
L: ハインツ=エーデルマンの映画ポスター各種。まあ正直、非常にモンティ・パイソン(テリー=ギリアム)っぽいなと。
C: ハインツ=エーデルマン『映画「偉大なるアンバーソン家の人々」』。
R: ドロテーア&フリッツ=フィシャー=ノスビッシュ『映画「七年目の浮気」』。

  
L: ドロテーア&フリッツ=フィシャー=ノスビッシュ『映画「野火」』。大岡昇平原作で市川崑監督のやつ。
C: ドロテーア=フィシャー=ノスビッシュ『映画「青少年向けドイツ映画」』。  R: ハンス=ヒルマン『映画「七人の侍」』。

 ハンス=ヒルマン『映画「羅生門」』(左)と『映画「チャップリン短編喜劇集」』(右)。

ドイツという国のイメージでもあるが、やはり作品には機能性、無骨さを強く感じさせる要素が確かにある。
音楽で言うと、クラフトワーク(→2011.4.20)の重い金属な感じも、ドイツのデザインと同じ匂いが漂っている。
工業、職人気質、ローマンではなくサンセリフなど「ドイツらしさ」の具体的な要素はいろいろあるが、
それは日本にもなんとなく通じるところがあると感じた。文字にしろ形態にしろ、ミニマルにもっていく感覚というか。

  
L: オットー=リーガー『切手シート「連邦園芸博覧会25周年 1977年シュトゥットガルト」』。
C: ハンス=フォェルチュ&ズィーグリート=フォン=バウムガルテン『切手シート「常時警備」』。
R: ハインツ&ヘラ=シリンガー『切手シート「ドイツ ラジオ展 シュトゥットガルト 1965」』。

  
L: ヴァルター=ブレーカー『展覧会「ドイツのグラフィックデザイン」』。
C: ヴァルター=ブレーカー『展覧会「ヴァルター・ブレーカー」』。
R: カール=オスカル=ブラーゼ『舞踊「アメリカのバレエ+ダンス」』。

  
L,C,R: セレスティーノ=ピアッティのdtv作品群。dtvは「ドイツペーパーバック出版社」で、書籍の表紙を一人でデザイン。

  
L: イュルゲン=シュポーンによる写真を使った作品群。演劇やコンサート、イヴェントなどのポスター。
C: ヴォルフガング=シュミット『映画「悪ふざけ」』(左)、『映画「M」』。
R: ドロテーア&フリッツ=フィシャー=ノスビッシュ『映画「Love 65」』。

あらためて書くが、京都が企業・団体単位での展示だったのに対し、今回は個人をクローズアップする展示。
したがって工業デザインとは逆方向で、けっこう芸術性に寄った内容となっていた。これは個人的にはやや残念。
ルフトハンザとかブラウンとか、企業のデザインこそがキレキレなのだ。個人的に最も面白かったのが、ボンのポスター。
かつての西ドイツ時代の首都だが、キスマークを大胆に使った点もいいが、下に小さくbonnの4文字をまとめていて、
これがすばらしい。企業・団体が研ぎ澄ませたデザインが見事なのは、ドイツと日本に共通する点だと思う。

 ショップの有料の袋は旧朝香宮邸のデザイン要素(→2016.10.312024.5.2)を散らしている。

旧朝香宮邸を使っての展示だが、アール・ヌーヴォーからのアール・デコと、モダニズムからのポストモダニズムで、
展示空間と展示内容の間のズレが少々気になる。とはいえ「デザインの帝国」として、デザインに強い美術館、
という方向性は正しいと思う。前も書いたけど、「東京都デザイン美術館」にして展示をそっちに特化すべきだろう。


2025.4.19 (Sat.)

府中市美術館でやっている『春の江戸絵画まつり 司馬江漢と亜欧堂田善 かっこいい油絵』を見てきたのだ。

まずは日本画で比較対象を示す。ラインナップは狩野派、やまと絵、琳派、肉筆浮世絵、応挙、文人画、禅画で納得。
さらに前哨戦として南蘋派を特集する。司馬江漢は浮世絵師から南蘋派を経て洋風画へと転じていくのだ。
南蘋派から洋風画への全体的な流れを見るに、花の写生から発展していったような印象を受ける。
小田野直武の活躍などを経て西洋的な目が定着していき、明治になって博物画へと行く流れを感じる。
府中市美術館はきちんと作品を展示するだけでなく、その先の知識や教育に力を入れている感触があってよい。

さて司馬江漢だが、浮世絵のど真ん中を行くもの、他の手法を同居させたもの、絵本みたいなものなど試行錯誤が面白い。
細い線の風景画が見事で、エッチングの銅版画はやはり向いていたんだなあと思う。反面、人物を描くのは苦手なようだ。
補聴器やコーヒーミルをつくったり天文にも興味を持ったり、単なる画家の枠に収まらない活躍ぶりが凄まじい。
知を求めて蘭学に没頭した結果、洋風画に転じたのは必然だったわけだ。「ぼくの考えた外国の風景」まで描いている。
ただ、展示されていた作品は2年前(→2023.3.23)ほどのインパクトはなく、もっと上手い作品があるだろうとは思った。

亜欧堂田善は松平定信の命で谷文晁に弟子入りし、後に銅版画を習得した人物。その技術は医学や世界地図で活用された。
遠近法全開の風景画も見事で、今回じっくり作品を見て勉強できたのは大変ありがたい。また実家が紺屋ということで、
銅版画で絵を染めた布製品をつくっていたことには驚いた。江戸時代の最先端は想像以上に最先端なのであった。
それにしても、司馬江漢も亜欧堂田善も文人画をきちんと押さえているのは興味深い。対極にありそうなイメージだが。

壁に「長沢蘆雪展は来年だよ」のポスターが貼ってあった。あの虎(→2024.8.2)が府中に来るんか!


2025.4.18 (Fri.)

昭和100年映画祭、第8弾も黒澤明監督で『天国と地獄』。『羅生門』についてはボロクソに書いたが(→2025.4.15)、
こちらはしっかり本領発揮という印象。締め方が微妙ではあるが、黒澤明は純粋な娯楽もいけるんだなと驚いた。

脚本がしっかりしているし、空間も演技もいいので、すごく引き込まれる。室内を登場人物が動きまわる様子は、
まるで演劇を観ているかのような感覚である。そしてカメラも自在に動いて、それを一分の隙もなく収めてみせる。
また、異様なくらいに展開のテンポがいいのも演劇的。シンコペーション(→2024.8.30)で観客を食いつかせるが、
それを不自然に感じさせないつなぎ方がお見事。実はここがいちばんの黒澤明の凄みなんじゃないかと思う。
黄金町の麻薬地帯の迫力なんか、いろいろ凄すぎて言葉がない。モノクロの白と黒が強烈な効果を生んでいる。

タイトルがまるでフリーサイズの服のように、どんな作品にも使えるような大雑把なものなのだが、そこはイマイチ。
「天国」と「地獄」だと絶対的な二項対立となって、中間がなくなる。「勝ち」か「負け」のどちらかしかなくなる。
そうなると三船(と警察)が勝って犯人が負けるしかないのだが、その勝敗の質を問うところまでいっていないのだ。
具体的には、天国と地獄に至る理由を描くには、誠実な三船サイドと比べて犯人側の掘り下げが足りないのである。
犯人の独白=説明ゼリフをできる限り避けた結果かもしれないが、追跡シーンを犯人の内面を追いかける内容に変えて、
彼が闇に堕ちた理由をもう少し強調すべきではなかったか。この追跡シーンがただ間延びしてしまったのが非常に痛い。
最後の接見室でのやりとりを考えても、もっと有効に使えたはずだと感じる。ガラスに映る顔を生かすのはさすがだが。
とはいえ、総じて面白かった。ミステリは個人的には嫌いなのだが、しっかりつくってあるのでその点に文句はない。

それにしても三船敏郎はいい声しとるのう。顔もよくて体格もよくて声もいいとか、そりゃ世界のミフネですわ。
パトレイバーの後藤隊長は仲代達矢がモデルという話に納得。この映画での静かな熱さと容赦なさは後藤隊長ですな。


2025.4.17 (Thu.)

東京都写真美術館の『ロバート・キャパ 戦争』を見たのであった。撮影NGなのでエントランスの写真だけ貼る。

 この展覧会、有名なやつはだいたい押さえていたのではないか。

アンドレ=フリードマン時代、つまり若い頃の写真はけっこうちょっとピンぼけなのであった。
その後、「ロバート=キャパ」を名乗るようになると、作品が一気に洗練されていく印象を受ける。
パートナーのゲルダ=タローを失って、独り立ちを余儀なくされた影響だろうか。どこか覚悟を感じさせるのだ。
あらためてノルマンディーのボケボケ写真(→2024.6.17)を見てみると、むしろ撮ったのが偉いという種類の写真だ。
また、地雷を踏んで亡くなる直前に撮影した写真もあった。こういう状況に身を置く覚悟が写真を研ぎ澄ませるのか。

どの写真も絵画的センスを感じさせるというか、構図がビシビシ決まっている。背景を含めて見透している感覚。
そういうアングルを一瞬で見つけられるのが、写真家の才能というものなんだろうなあ、と思わされる。
もうひとつ特徴的なのが、戦争の中の日常など対比、あるいは複数の解釈が含まれる写真が多いということだ。
基本は間違いなくジャーナリズムの写真だが、ただ瞬間を切り抜くだけでなく前後の物語を想像させるものがある。
対象に付随する余白を見抜くというか、事態の背景を見抜くというか。単なる撮影対象以上のものを読ませる写真、
フィルムを通して事態を見透した気にさせる写真なのである。因果(→2020.3.16)にまで踏み込んだ写真という感じ。

思わず図録を購入してしまった。歴史総合の授業で使えないか、作品を眺めながらあれこれ画策してみることにする。

もうひとつの展覧会、『TOPコレクション 不易流行』も見てみた。女性、寄り添う、移動の時代、音、昭和から平成、
以上の5つのテーマでコレクションを展示する企画。こちらはほとんどが撮影OKで、気になったものをピックアップ。

  
L: 下岡蓮杖『梅の枝を活ける女性』。  C: 下岡蓮杖『手を繋ぐ二人の女性』。下岡蓮杖(→2017.10.7)の写真とはすごい。
R: フェリーチェ=ベアト『お茶くみ』。外国人向けの土産物として撮られた写真で、着色してある。いわゆる「横浜写真」。

  
L: NASA『ミッション:アポロ(サターン)14号』。  C: NASA『ミッション:ジェミニ(タイタン)4号』。
R: NASA『ミッション:アポロ(サターン)17号』。こうやって見ると、NASAにしか撮れない写真ってのは革命だなあ。

 林忠彦『引き上げ(上野駅)』〈カストリ時代〉。あまりにいい笑顔だったので。

  
L: トマソンには反応してしまうぜ。こちらはその元祖、赤瀬川原平『No.1 真空の踊り場・四谷階段 東京都新宿区本塩町 1972』。
C: 赤瀬川原平『No.2 歩行者用のダム 東京都千代田区神田駿河台 1972』。
R: 赤瀬川原平『No.3 通り抜けた家 東京都渋谷区南平台 1981.11』。かつては「原爆タイプ」と呼んでいたような。

オムニバスなので、好みに合うものと合わないものの差が激しいのであった。ハイ、僕の好みはこんなんです。


2025.4.16 (Wed.)

三菱一号館美術館『異端の奇才――ビアズリー』。あまりにも混みすぎていて、ぜんぜん落ち着いて見られなかった。

ビアズリーというと大学時代の造形芸術論I、カワジョー先生を思いだす。当時っからぜんぜん好みではないのだが、
日本のカワイイ文化の元祖(→2014.10.182023.11.272024.11.23)のさらに元祖ということで、無視できないのだ。
19世紀末の芸術を代表する存在であり、 先行したアーツ・アンド・クラフツ(→2024.3.4)の流れを受けて広げて、
アール・ヌーヴォーを牽引していく最先端がビアズリー。時代を切り開くそのクリエイティヴィティは迫力満点である。
それまで誰も思いつかなかったことをやってみせた独自性は、やはり偉大なのだ。その凄みを実感できる作品ばかり。

  
L: 『おまえの口にくちづけしたよ、ヨカナーン』。英訳版「サロメ」の挿絵を依頼されるきっかけとなった作品とのこと。
C: 『マダム・シガールの誕生日』。左の女性に両性具有的な人物たちが貢ぎ物をしているそうだ。  R: 『イゾルデ』。

ビアズリーはやっぱりオスカー=ワイルド『サロメ』の挿絵が有名で、展示もそこはしっかり見せてくれる。
撮影可能なのはありがたかったけど、人が多くて撮るのが大変。とりあえず印象的なものを貼り付けることにする。
それにしても、新約聖書から究極のヤンデレを生みだしたオスカー=ワイルドのヤバさよ。そこに痺れる憧れる。
もちろんビアズリーの絵がそのインパクトを決定づけたわけで、その相乗効果にあらためて震えるのであった。
しかしながら解説によると、オスカー=ワイルドはビアズリーの絵を嫌っていたそうでびっくり。ものすごく意外だ。

  
L: 『オスカー=ワイルド「サロメ」の表紙案』だが、没になったとのこと。まあこれじゃ何の話かわからんもんな。
C: 『「サロメ」の題扉』。  R: 『孔雀の裳裾』。ヨカナーンに会わせろとサロメがシリア人の隊長に迫るシーン。

  
L: 『ヨカナーンとサロメ』。  C: 『ベリー・ダンス』。サロメが「7つのヴェールを使った踊り」をヘロデ王に披露する。
R: 『踊り手の褒美』。銀の大皿に載せられたヨカナーンの首が届く。地下から伸びる巨大な黒い腕は処刑執行人のものだと。

 『クライマックス』。世紀末芸術を代表する一枚ですなあ。

ビアズリーも十分な量があったが、アーツ・アンド・クラフツを意識して三菱一号館美術館の持っているカトラリー、
さらにビアズリー以外の各種サロメ作品の特集もあった。三菱一号館美術館は周辺知識に丁寧な印象(→2023.3.6)。

  
L: 草花文ドアノブ。  C: 吉祥文双扁壺(左)、吉祥文花生(右)。どちらもロイヤル・ウースター社による陶磁器。
R: 祥瑞風吉祥文双耳扁壺。ロイヤル・ウースター社は日本的な様式の陶磁器を積極的に最産していたそうだ。ジャポニズム。

 さまざまな企業による銀製品。アーツ・アンド・クラフツの流れが実感できる。

あらためて作品をじっくり見てみると、やっぱり本当に上手い。夭折しているから印象としては異なるかもしれないが、
二十歳そこそこで広く才能が認められているのはさすがなのだ。初期はカリカチュアライズした人物画が目立っていて、
なんとなくロートレックっぽさ(→2024.9.3)を感じる。その時期を抜けて自分の作風を確立してからが、やはり強い。

  
L: 『「イエロー・ブック」出版案内書の表紙』。「イエロー・ブック」はビアズリーが創刊に関わった文芸誌。
C: 『ジョン・ラムズデン・プロパート蔵書票』。「イエロー・ブック」第1巻掲載作品の素描。
R: 『神秘の薔薇園』。「イエロー・ブック」第4巻の校正刷り。ビアズリーが関わったのは第4巻まで。

  
L: 『「キーノーツ叢書」の宣伝ポスター』。  C: 『「ステューディオ」第5巻 30号の宣伝ポスター』。
R: 『「筆名叢書と本名叢書」の宣伝ポスター』。いかにも絵画なロートレック(→2024.9.3)と比べると、デザインな感じだ。

  
L: 『アヴェニュー劇場公演の宣伝ポスター』。  C: 『T. フィッシャー・アンウィン社刊「子供の本シリーズ」の宣伝ポスター』。
R: 『セシル・レイナー編著「老嬢の処方箋」の宣伝ポスター』。こうして見るとビアズリーはモノクロの方が魅力が出るなあ。

  
L: 『黒猫(エドガー・アラン・ポー作品集の挿絵:刊行中止)』。
C: 『赤死病の仮面(エドガー・アラン・ポー作品集の挿絵:刊行中止)』。
R: 『アシャー家の崩壊(エドガー・アラン・ポー作品集の挿絵:刊行中止)』。

1895年、オスカー=ワイルドが男色の罪で逮捕されてスキャンダルとなると、ビアズリーは巻き添えを食ってしまう。
以降は健康を害したり経済的に苦しんだりと苦境に陥る。そして1898年に25歳の若さで亡くなってしまうわけだ。
晩年の作品は全体的なバランスがよくなって、それはそれでさびしい。どことなく漂う不安定さが味だったので。
描き込みが増えることで不安定さが減るというか、線もモダンに近づく感じ。明らかにミニマルの美に接近していくが、
やはり時代の先を読む圧倒的なセンスがあったんだなあと思う。20世紀を迎える前に亡くなってしまったのは、
「ビアズリーの作風」が固定されたイメージとして残ることにつながった。でもモダンのビアズリーも見たかった。

 ジョサイア=コンドルのベンチがあるのに今回初めて気がついた。

ショップではサロメのTシャツを思わず買っちゃったのであった。いやあ、そりゃあやっぱ買っちゃうよねえ。


2025.4.15 (Tue.)

昭和100年映画祭、第7弾は黒澤明の『羅生門』。芥川龍之介が原作だけど、『羅生門』ではなく『藪の中』が元ネタ。

つまんなかったー! 名作とはとても呼べないシロモノだ。宮川一夫の撮影と役者の熱演で名作扱いされているだけだろう。
結局のところ内容がミステリだから個人的に合わなかった面も大きいかと思うが(→2005.8.242006.3.312008.12.5)、
そういう好みの問題を差っ引いてもデキはよろしくない。まず、「羅生門」というタイトルにした分の無理がたたっている。
雨宿りで羅生門にやってきた3人の会話からの回想となっているが、その舞台空間がそもそもの間違いなのである。
ボロボロの羅生門で表現されるのは、何よりもまず、崩壊しきった社会である。そんな極端な背景を設定しておいて、
「人間が信じられない」とは何を今さら。被害者1人の殺人事件に対して関係者3人の供述が噛み合わないとか、
崩壊しきった社会の前では些細な問題になってしまう。それなのに「わからない」とか盛大に悩まれてもねえ……。
そして芥川の本家『羅生門』がどこまでも冷徹さを失わないのに対し、こちらは取ってつけたような赤子エンド。
せめて志村喬の懐から拾った短刀が落ちて、それを捨てるまでやらないと、赤子エンドは説得力が出ないだろう。
原作の改変について僕は肯定派だが(→2024.1.31)、芥川との差がここまで酷いとなると、呆れて物が言えない。
まあ黒澤明も若かったんだろうけど。少なくともこの作品については、芥川との才能の差は情けないほど明らか。

登場人物がみんな自分のことしか考えていない、というのは本家『羅生門』と重なっているポイントである。
しかし各人が嘘をつくに至る「立場」を描かないからダメなのだ。つまり登場人物の心理をきちんと描いていない。
エゴを描くには、エゴを正当化する思考回路を示すことが必要だ。そこに取り組むことなく映像でごまかしている。
そうなると、登場人物は黒澤明にとって都合のよい人形でしかなくなる。だから臆面もなく赤子エンドができるわけだ。
カメラを見つめる供述シーンと激しいアクションの対比、実はどっちも戦い慣れていない泥仕合の格闘シーンなど、
まったく工夫を感じないわけではない。しかしそういった表現手段に凝る一方、物語を描く目的が疎かになっている。
音楽もハマっているものの、非常にうるさい。もっともそれは、回想にドラマティックな演出が含まれることを示す工夫、
つまり誇張された回想なので嘘である、という表現であろう。志村喬の回想による種明かしシーンではBGMがなかったし。
しかし雨も赤子の鳴き声もうるさかった。黒澤明には音量バランスの感覚が欠けているのではないか、という気もする。

本当に褒めるべきは宮川一夫なのだ。黒澤明は巨匠という評判が定着しているが、この作品ははっきり言って二流である。
その評判と実態の乖離っぷりは、三船敏郎が演じる多襄丸にそっくりだ。そこに気がつくと、この作品は逆説的に面白い。


2025.4.14 (Mon.)

『バトル・ロワイアル』がリヴァイヴァル上映中なので観てみたのであった。20年前にDVDを借りていちおう見ており、
なかなか容赦のない酷評(→2005.6.24)。映画館だったら多少マシかも、と思って、今回は褒める部分を探して観てみた。

結論から言うと、たけしと山本太郎でもってる映画である。特に絵も含めて北野武の超人性に依存しすぎである。
出演者の皆さんはお疲れ様でした。20年前は演技力に問題があると書いたが、歳をとったら努力を褒めたい気分になった。

先週観た『仁義なき戦い』(→2025.4.7)と比較していろいろ考えてみる。『仁義なき戦い』は徹底してリアルだが、
こちらは全編が妄想の産物。それで殺し合いに至る前の関係性がきちんと描かれているかどうかが大きく異なっている。
『バトル・ロワイアル』は平時を描かずいきなり殺し合いだから、人間ドラマとしての説得力が出るわけなどないのだ。
はっきり言って、登場人物は人形にすぎない。最も象徴的なのが安藤政信で、殺人マシーンなのでセリフがないそうだが、
これは完全に失策。殺人マシーンになる経緯がなければ人間ではない。兵士を殺すドローンと変わらないのである。
そんなものの描写、やるだけ時間の無駄なのだ。葛藤する人間が殺す/殺されるからこそドラマになるはずなのだが。
各人が殺しに至るまでのそれぞれの理由を示すのに、会話ではなく黒地に白い文字を並べてモノローグというのは、
映画監督としてかなり情けない敗北である。しかも生きている間ではなく、死ぬときにやる。頭が悪すぎて悲しくなる。
また、キタノがヒロインを崇拝する理由も足りない。登場人物がみんな監督にとって都合のいい人形でしかない。

そもそもが、大人と子どもの違いを示していないのが致命的である。『蠅の王』(→2020.8.9)の大人は「理想」だった。
しかしこの映画では、大人がダメになったとまず宣言をする。それだと、子どもと大人の境界線がなくなってしまう。
なのに、子どもと大人は断絶しており、大人が子どもに殺人を強制する。論理的な前提が完全に破綻しているのだ。
中学生が殺し合うのは表現として「あり」だけど、中学生である理由を示すところまでいっていない、深められていない。
『仁義なき戦い』はヤクザなので最初から暴力的だが、『バトル・ロワイアル』は中学生なので暴力に理由が必要だ。
14歳であることを危うさの前提とするのは少々乱暴で、クラス全員がグレるわけではない。その論理回路を示すべきだろう。
好意的に解釈すれば、極限状態での人間のあり方を、中学生が持つはずの危うさと純粋さで描きたかったのかな、と思う。
しかし人数が多すぎることもあって一人ひとりの掘り下げが浅くなっており、暴力行為と心理のつながりが希薄というか、
暴力があまりにも先鋭的なせいもあり、行為に至る心理を描ききれていない。本来なら平時にそのきっかけがあるはずだ。

いつも書いているが、手段が目的となってしまうことは、たいへんに醜いことである。そしてこの映画はその典型だ。
物語を生みだす動機が、「暴力描写をやりたい」に留まってしまっている。暴力とは最も原始的な物理的行為であり、
知的生命体がその原始的な物理的行為に頼るには、やむをえない理由があるはずなのだ。暴力とはあくまで手段なのだ。
目的となっている暴力は、意味がきわめて軽い。銃の引き金には「軽い引き金」と「重い引き金」があるはずで、
そこの差を描いてこそ暴力描写が価値を持つ。重い引き金を引く葛藤を描くことで、暴力に意味が生まれるのである。
深作欣二は『仁義なき戦い』がたまたま上手くハマっただけで、上記のことをきちんと考えられるだけの頭がない。
結果、この映画はただの暴力の消費である。ドラゴンボールが大好きっていう知能の低い皆様は喜ぶかもしれないけどね。
物語の締め方も、なんにもならない締め方。暴力が発揮される対象は、子どもでなく大人・制度でないと話にならない。
山本太郎の敵討ちもぜんぜん果たされていない。果たしたと見なしても、成果が小さすぎて釣り合わない。話にならない。

品のなさが、まあ、東映ですねえと。……結局、褒められる部分はほとんどないのであった。


2025.4.13 (Sun.)

授業のときに持っていく道具を入れるFREITAGを購入したのであった。15年使ったLEO(→2010.1.22)にガタが来たので。
科目が地理なので黄緑色、とことん使い倒すことを考えて凝った要素のない無地のLELANDを第一希望としていたけど、
店に置いてあったものはかすりもしなかった。そしてBOBでオシャレなやつを見つけてしまったのであった。
BOBは10年前に通勤用で買っており(→2014.3.30)、同じ種類のものは買わないという原則を設けていたのだが、
オシャレなデザインには勝てず、大は小を兼ねるので結局屈してしまったのであった。もうね、こりゃしょうがない。

  
L: 300円のショッピングバッグで持ち帰る。  C: こちらが今回のBOBです。通称「サカナ」と命名。  R: 裏面。

引退する日までこのBOBを引っさげて授業に行くことになるのだ。まあのんびりと頼むぜ相棒。


2025.4.12 (Sat.)

昭和100年映画祭、第6弾は『八甲田山』。新田次郎の原作を豪華キャストで仕上げた大作映画。

 丸の内TOEIは今年の7月27日に閉館予定。名作映画を観る機会が激減してしまう……。

公開は1977年で、80年代のバブルを予感させる大作ですなあ、という映画。木村大作のカメラがしっかりハマっている。
ただ、木村大作の画(→2024.11.16)はそういうしっかり金をかけた豪華なつくりでないと意味をなさないとも感じる。
とはいえ「つくったのが偉い!」という種類の映画なのは間違いあるまい。金の使い方がたいへん正しい映画である。
かけた資金の分だけ圧倒的な説得力を生み出している。日本映画にとっては、ある意味で頂点と言える時代だったろう。
実際にやっているから撮影できた映像が満載で、地形も吹雪も雪崩もどう見ても本物。ごまかしがまったく感じられない。
関わった人全員の気合いがスクリーンを通して伝わってくる作品になっている。結果として、どこか青春の匂いがする。

大失敗の事件を映画にするのは勇気がいることだが、それをこれだけ丁寧に再現したのは本当に大したものだと思う。
誰か一人が特別に悪いわけではなくて(三國連太郎演じる山田大隊長がわかりやすく悪役だが、彼一人が悪いのではない)、
何気ないところから希望的観測の積み重ねで大失敗へと至る、いかにも日本的な負の連鎖をとことん描いたのは偉業だろう。

それにしても憎まれ役を演じた三國連太郎は偉いなあと。個人的には「悪のスカパラ谷中敦」に見えてしょうがなかった。


2025.4.11 (Fri.)

『アラビアのロレンス』を観たよ。完全版なので上映時間はなんと227分。ふざけんな、デヴィッド=リーン。

圧倒的なクソ長さなのであった。ただ逆を言えば、長い以外には文句の付けどころがない映画でもあった。
「アラビアのロレンス」とはイギリス陸軍の将校だったトマス=エドワード=ロレンスのことで、
第1次世界大戦後にオスマン帝国からの独立を目指すアラブ軍を指揮した人物である。その活躍を克明に描く。
砂漠の映像が本当に見事だし、史実を再現したであろう舞台空間も迫力があり、よくつくったものだと感心。
構成も冒頭でロレンスが死んでからの回顧という大胆なものになっているが、これが効いている。
おかげで最後に走り抜けていくオートバイからロレンスの心身の死が見えるってわけだ。伏線もしっかりしている。

内容も単なる異文化理解以上のことに踏み込んでおり、近代とは何かを考えさせられるレヴェルにある。
過酷すぎる環境の砂漠には独自のルールがあるわけで、そこを生き抜いてきたイスラームはさすがなのである。
ただ、それが砂漠以外の環境で正当となるかはまた別問題だが。近代とどうバランスをとるか、きちんと示唆がある。
丁寧に事態を描いた姿勢は評価したい。個人的には「ロレンス単独のアラブ部族」という発想がすごいなと感心。

ただ、さすがに4時間弱というのは常軌を逸している。削る才能も映画監督には必須だと痛感させられる作品でもある。


2025.4.10 (Thu.)

ワカメが上京してきて飲み会である。ナカガキさんとハセガワさんと4人でいろいろじっくりダベるのであった。
僕としては真人間の皆さんの感覚をしっかり学ぶ場である。しかしワカメもナカガキさんも人生を達観しつつあるね。
子どもの成長をきちんと見つめているとそうなるのだなあ。僕なんて、離島! 映画! 美術館! ひたすらそればっかり。
教養ある人間を目指してまっしぐらだが、あくまで自己満足でしかないからねえ。他人のために生きる人は本当に偉い。

なお今回のワカメのオススメは、空木哲生『山を渡る -三多摩大岳部録-』なのであった。
僕? 『私だってするんです』(→2025.3.24)を薦めておいたよ。ハセガワさんは夫婦で読むがよい。


2025.4.9 (Wed.)

昭和100年映画祭、第5弾は『ギターを持った渡り鳥』。小林旭のマイトガイっぷりを勉強するのである。
そしたらオープニングから「ギターしか持っていない渡り鳥」で、マイトガイの半端なさを見せつけられるのであった。

話としては……うーん、コテコテのコテコテ。それならもっといい見せ方がいくらでもあるだろうと思ってしまう。
函館の街の魅力はよく出ているし、小林旭ってスタイルがいんだなあ、と思うが、まあそれくらい。本当にそれくらい。
主役をかっこよく描くことに全振りで、何から何まですべてがそのためにお膳立てされている感じ。スターの映画ですな。

殺し屋ジョージがなんとなく宍戸錠に似てるなあと思ったら宍戸錠だった。やはり宍戸錠はほっぺたなのであった。
そして金子信雄が相変わらず昭和の食えないオヤジなのであった。脚本が原健三郎で、議員かよと思ったら議員だった。


2025.4.8 (Tue.)

本日は入学式。ついに始まってしまったか、と感傷に浸る時間なんてまったくない。やることが多すぎて目が回る。


2025.4.7 (Mon.)

昭和100年映画祭、第4弾は『仁義なき戦い』。DVDで以前見たけど(→2006.3.27)、映画館で観てみたかったのだ。

感想は基本的に19年前と一緒である。まずは暴力、暴力、暴力で観客を圧倒することで物語に入っていく。
その暴力描写が一段落ついたところで、登場人物たちがヤクザの世界に落ち着いていく。戦後の混乱が整理されていく、
そんな社会状況と重なっているわけだ。そして山守組は対外抗争に見せかけて、内部での実力者の抹消が続いていく。
最も義理人情にまっすぐな広能は、刑務所に入っていたことで権力闘争から隔離され、外から事態を見守ることになる。
結局のところ、親子の盃という仁義を盾に、若い者が使い捨てられていくだけ。どうしても暴力の描写が目立つが、
あらためて観てみたら描きたいテーマはかなりしっかりしていたのであった。やっぱりよくできていたんだなあと感心。

しかしながら、この映画のMVPはテーマ曲。ホーンセクションとベースが楽器本来の威力を知らしめる傑作ですわな。


2025.4.6 (Sun.)

東京藝術大学大学美術館でやっている『相国寺展―金閣・銀閣 鳳凰がみつめた美の歴史』を見てきたよ。

相国寺は足利義満が建てた寺で、作庭の名人・夢窓疎石(→2010.3.272010.11.272024.10.7)により開山。
「金閣寺」こと鹿苑寺と「銀閣寺」こと慈照寺は、ともに相国寺の境外塔頭である(→2010.3.272015.2.1)。
室町以降も安土桃山・江戸時代と、臨済宗らしく権力と結びつくこと巧みで、多数の文化財を抱えているわけだ。
また雪舟(→2014.7.262024.5.13)は若い頃に相国寺で修行しており、伊藤若冲も当時の住持とかなり関係が深かった。
そんな相国寺の力を存分に味わえる展示なのであった。次回の京都サイクリングではぜひ相国寺にも寄ってみようと思う。

展示はまず、禅らしさ満載のテキトーな書から。お得意の一行書(→2025.2.3)の世界だが、夢窓疎石はさすがに上手い。
まるで脱力感を競っているような字の崩し方に、やはり禅の美学が込められているなあとあらためて思うのであった。
義満といえば日明貿易の人で、相国寺には当時最先端の中国絵画がどんどん入ってきて、雪舟が修行したのもその影響。
しかし中国産の絵画は派手な色づかいに夢中でデッサンが少々狂っている印象。モチーフの強弱のバランスがおかしくて、
いちばん描きたい主題がわかりづらいように思う。あと古びて暗い色合で全体的に見づらくなってしまうのはなぜなのか。
中国からの文化の流れを示してから如拙、周文、そして雪舟。禅と水墨画における雪舟の総決算ぶりがよくわかる内容だ。
狩野探幽の作品も多く残されており、本気と脱力の差の大きさ、言い換えると作風の幅広さをしっかり味わえる。

後半は伊藤若冲を大々的に扱う。むしろ絵画を理解する伝統、若冲を評価していた寺ということでアピールしている。
そして確かにそれだけの作品が残っている。狩野派にはないユーモアにあふれる作品が多数味わえるのはさすがなのだ。
若冲は相国寺に残した水墨画において、ありとあらゆる技術を試している感触がある。自由な主題と構図に応じて、
確かな手腕が発揮されている。鹿苑寺大書院の障壁画はさすがの迫力。葡萄小禽図と松鶴図を両面そのまま展示しており、
実に贅沢な鑑賞経験。さらにCGで鹿苑寺大書院のそれぞれの障壁画を再現していて、これがかなりわかりやすかった。
三之間の月夜芭蕉図はぜひ本物を見てみたい。『玉熨斗図』も見事で、打ち出の小槌の胴体をどう塗ったのか不思議だ。
また近代になって入手したという円山応挙は『七難七福図巻』を展示。七難と比べて七福の生き生きした筆致が面白い。

以上気ままに書いたけど、禅と絵画の関係について学べたのと若冲のおかげで、かなり満足度の高い展覧会だった。


2025.4.5 (Sat.)

昭和100年映画祭、第3弾は『鴛鴦歌合戦』。マキノ雅弘(正博)監督が1939年につくったオペレッタ時代劇作品。
マキノ雅弘というと早撮りで80点前後の作品を量産するイメージ。決して100点満点の作品にはならないが、
それはそれで映画が娯楽の王道だった時代の職人芸の世界である(→2024.12.112024.12.132024.12.152024.12.16)。

この『鴛鴦歌合戦』も10日間ほどでつくったそうだが、そういうある種の「軽さ」がいい方に作用しているのはわかる。
阪妻のジャズ殺陣でも披露されていたマキノ雅弘の音楽センスが冴え渡る。早撮り由来のテンポの良さも噛み合っている。
もちろん楽曲もノリノリ。工夫したカメラワークで各キャラクターが朗々と歌う姿は、現代のPVにまったく見劣りしない。
家臣が和楽器を構えてから鳴り出すのがビッグバンドジャズという発想が凄い。刀を使わないジャズの殺陣もさすがだ。
合わない人はまったく合わないだろうなあとも思うが、娯楽作品としては振り切っていて、戦前の日本の凄みを感じる。
殿様とお富ちゃんの歌唱力が抜群と思ったらさすがの本職なのであった(ディック・ミネと服部良一の妹の服部富子)。
その中で志村喬の健闘ぶりもかなり印象的。残念なのはヒロインの魅力がイマイチなことで、性格が少々エキセントリック。
さらに歌はだいぶ厳しい箇所も。ヒロインは歌が上手くないといけないのだ、という基本的な事実を突きつけられた感じ。

そんなわけでだいぶ楽しませてもらったが、肝心の物語はやや粗く、最後の結論のもっていき方が雑だったのは残念。
あっちのネタバレになっちゃうけど、壺を生かした山中貞雄(→2022.11.5)との差は歴然としている。満点が取れない。
とはいえマキノ雅弘監督の凄みをわかりやすく示している作品なのは間違いない。わざわざ映画館で観た甲斐があった。


2025.4.4 (Fri.)

昭和100年映画祭、第2弾は『無法松の一生』。教養として無法松をきちんと知っておきたかったので観てみた。
4回映画化されたそうで、今回観たのは1958年の三船敏郎主演のやつ。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞とのこと。

結論から言うと超絶クソ映画であり、稲垣浩監督は監督の才能が皆無であるとしか思えないほどの駄作だった。
歌舞伎的ダイジェスト感覚による原作の展開を追うだけのカットの連続で、テンポの悪い編集は冗長極まりない。
地獄のような暗転の連続と特殊効果による逃げのクライマックスも拙い。松五郎の内面の葛藤が描ききれていない。
そもそも物語じたい、何が面白いのかまったくもってサッパリ。キレキレの三船敏郎以外に褒めるところがない。
こんなものを名作などとぬかしているのは、松五郎を見世物のように眺めて面白がっているだけの悪趣味な連中だ。
オレが独身男性であるせいで不快感がマシマシであるとは思いたくないが、本当に気持ちの悪い映画だった。


2025.4.3 (Thu.)

昭和100年映画祭、第1弾は『遙かなる山の呼び声』。山田洋次監督で舞台は北海道。主演が高倉健。相手が倍賞千恵子。
武田鉄矢が車を運転するし渥美清まで出てきて、なんだかどこかで見たような気がする(→2012.10.152024.11.19)。
そっちのログではかなりいろいろ分析したけど、小難しいことは考えずに観られるのが山田洋次監督の偉大さなので、
あれこれ書かずに結論だけ。ハナ肇が持ち味全開なので優勝です。もちろん吉岡秀隆も優勝です。おめでとう!

とはいえラストシーンについてちょろっと。倍賞千恵子とハナ肇が出てくるけど、このふたりが和解していることは、
高倉健の存在がなければありえなかったことなのだ。そして最後は、高倉健が泣かなかったという昔話を伏線としている。
キャラクターを操るストーリーとして本当によくできている。さすがなので山田洋次も優勝です。おめでとう!


2025.4.2 (Wed.)

「レドミ」ことレアンドロ=ドミンゲスが亡くなった。ついこないだまでキレキレのプレーを見せてくれていたのに。
やはりMVPを獲った柏時代が全盛期だとは思うが、横浜FC時代もとんでもない存在感だった(→2019.3.232019.8.24)。
強くて上手くて諦めなくて、こんなん相手にいたら絶望感が半端ないよなあ、なんて思いながら観戦した記憶が蘇る。
それにしても、自分より若くて頑丈で人間性も優れている人が病気で亡くなるというのは堪える。ただただやるせない。


2025.4.1 (Tue.)

本日より新年度であります。知らないうちにいろいろ変化があって、現状把握するだけでなかなか大変な一日だった。
まあそれだけ昨日まで豪快に遊び倒ししていたわけですが。でも遊びというよりはひたすら学びだったわけですが。
日記を書き上げて任務完了なので、なんとかして早いうちに学習した内容をまとめたいところであります。


diary 2025.3.

diary 2025

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