diary 2025.2.

diary 2025.3.


2025.2.28 (Fri.)

本日は今年度最後の授業日だったのだが、予定を急遽変更してレポートの改善点スペシャルとしたのであった。
僕としては「出題者の意図」について説明するなんて、なんで今さらやんなきゃなんねえんだよ、という気分なのだが、
生徒たちの反応を見るに、やっぱりやらんといかんのかねえと。心底愚痴りたいけど日記に書くのはやめておく。終わり。


2025.2.27 (Thu.)

今週はどうも鼻が乾く感じで喉が気になる。これは僕にとっては風邪の前兆なので(→2025.1.24)、
またかよとションボリしながらずっとマスクを着用して部屋の湿度を上げる工夫に取り組んでいたのだが、
鼻水の頻度が異様に高いことから「あ、花粉症か!」と気がついた。今の段階で症状として出はじめているとなると、
最盛期にはどんなことになってしまうのか。花粉が多いと一気に来る当方(→2018.3.26)、今から震えております。


2025.2.26 (Wed.)

『志村けんの爆笑ベストコント30』を見たので感想を。TVerはいいよなあ〜。

志村けんのコントについては前にも書いたけど(→2020.4.24)、全盛期の勢いあるコントをじっくり見られるのは幸せだ。
もう、永遠に見ていられる。今回は特に当時のスターとの共演が面白くてたまらん。で、見ていて気がついたのが、
ゲストを生かすコントであるということ。本来芸人ではない演者のコメディの才能を引き出すコントであるということ。
当たり前になりすぎていて感覚がマヒしていたが、よく考えれば田代まさしも研ナオコも由紀さおりもそうだった。
(僕はひとみばあさんがそんなに好きではないが、土方田代とのコントは国が映像を永久保存すべきレヴェルだと思う。)
でも今、コントは絶滅寸前の状態であり、コメディの才能を引き出してくれる存在はもう完全にいなくなってしまった。
志村けんが亡くなったことで、芸能人を巻き込むコントが滅亡してしまったように思う。本当に残念である。


2025.2.25 (Tue.)

日記の更新履歴は直近15回分を記録していて、古いものは消去と同時にreference(⇒こちら)に格納するようにしていた。
しかしそれだと、更新されて約3ヶ月経ってからreferenceに入る、というラグが発生することになる。これが微妙に不便。
そこでちょっとがんばって、リアルタイムな「今月分の日記」である「びゅくびゅく日記(diary.htm)」の内容を、
月が替わって過去ログの「Byuxie Flatline」へと格納する際に(→2024.7.18)、referenceにも反映させることにした。
要するに、「今月分の日記」以外はぜんぶ即座にreferenceにまとめてしまう、ということだ。少し利便性が上がったはず。

ところでその作業をやっている中で、なんとreferenceのcitiesに中野区がなかったことが発覚した。22区しかなかったの。
慌てて中野区の項目をつくったけど、区役所とサンプラザだけで完了。どんだけ中野区に興味がなかったのか、オレ。
実際にはTOKYO SWEEP!! 23区編ですでに走りまわったのだが(→2021.10.2)、日記の更新がまだそこまで行ってないので、
項目に挙げられる場所がないのである。中野区民の皆様に全力で謝らないといけませんな。なかのはずれですいません。


2025.2.24 (Mon.)

『ドクトル・ジバゴ』。上映時間がなんと197分ですぜ。狂気の沙汰である。しかも最初に真っ暗なままでまさかの序曲。
この時点ですでに監督のエゴが全開であり、たいへんイヤな予感しかしなかった。で、やっぱりつまらなかった。

主犯格である監督はデヴィッド=リーンで、先日の『戦場にかける橋』(→2025.2.12)と同じ人。
あっちも長い映画だったが、三つ巴になる展開が見事だったし、橋の完成までの時間もあるので納得のいく長さだった。
しかしこっちについてはただ編集を放棄しているだけ。しかもそれを大作の条件と勘違いしている愚かさが透けて見える。
まあ確かに大人の恋にとって時間というものは重要なスパイスではあるが、さすがにこれは冗長さが過ぎる。
この話は不倫関係がベースにあるので、その分だけよけいに時間という言い訳が必要になるとしても、だ。
ヒロインの美しさと景色を描く上手さで我慢はできる。我慢はできるが、到底その努力に見合うだけの物語ではない。
展開がスムーズでないために、物語の描く軌跡が一本の長い破線になっている。それを3時間以上も見せつけられる苦痛。

最大の問題点は、キャラクターに大した魅力がないという点だろう。主人公のジバゴ先生はかっこよくて賢くて、
ひたすら時代に翻弄される悲劇の人である。でも運命を切り開く迫力はない。翻弄されて終わり、な人でしかない。
ヒロインサイドにしても、ラーラがめちゃくちゃ美人ってだけで、それに頼りっきり。やはりこちらも翻弄されて終わり。
腹違いの兄ちゃんはご都合主義であるにもかかわらず、キーパーソンになりきれない。中途半端にも程があるだろう。
コマロフスキーが一周まわってかっこよく見えてくる。でもそれは、魅力的なキャラクターの欠如の結果でしかないのだ。

興味深かったのは、ソ連の革命の実態を説得力を持たせて描いたことくらい。肝心の詩も中身が単語ひとつ出てこない。
映像と演技で強引に説得力を持たせているが、物語の編集センスは皆無。デヴィッド=リーンは大作をつくる人ではなく、
まとめられないから長い映画になっているだけ。時間を圧縮して納得させる能力がないから、長い映画になるだけの人だ。
『戦場にかける橋』がたまたま上手くいっただけのことで、本質的には能力の低い映画監督、というのが実態だろう。

この年のアカデミー賞は『サウンド・オブ・ミュージック』(→2005.9.26)だったが、そりゃそうだろとしか思わん。
上映時間の長さの質が違いすぎる。こんなのを比べるなんて、歌に2つの意味を重ねた本物の名作であるあちらに失礼だ。


2025.2.23 (Sun.)

『パピヨン』。古い方ね。世間では脱獄系映画の傑作みたいな扱いなので、わざわざ観てみたというわけ。
感想としては、「これ最後の15分だけでええやろ」。150分の映画なのだが、全体の90%が無駄だったエンドって感じ。

まず、脱獄のサスペンスとサヴァイヴァルのサスペンスは、本来は別物なのである。そこのバランスを整理できていない。
獄中のフラストレーションはよい。そこからの脱出アクションもよい。で、脱獄してからの冒険。これがよろしくない。
力が入りすぎているのである。ここの失敗劇で尺を取ってしまったことで、物語の焦点が完全にボヤけてしまった。
さらに最初の独房2年の描写が重すぎて、次の5年の描写が老けただけで、相対的に軽くなってしまったことも問題である。
結局のところ、撮りたいシーンの羅列でしかないのだ。13年間という時間を主観的にも客観的にもまとめきれていない。
全体のバランスを考えた強弱のつけ方になっていないから、「つらさ」と「解放」というカタルシスを制御できていない。
ストーリーテリングがここまでヘタクソな映画はそうそうあるまい。この映画を評価している人が多いのが本当に不思議。
絶海の孤島からの脱出をラストにしたかったのだろうが、そこからの冒険の方が本質的にはずっと重要であるはずだ。
すでにコロンビアでの失敗を見た観客は、そのことを知っている。泳いでめでたしめでたし、が通用するわけないのだ。
しかもヤシ袋の下に何か見えているし。そこをサボるような映画が名作と呼ぶに値するわけないだろう。呆れ果てた。

結局のところ、スティーヴ=マックイーンとダスティン=ホフマンってことで過大評価されているだけのこと。
Wikipediaの「アンリ・シャリエール」の項目を見るに、事実の方がずっと面白そうだ。映画の負け。大惨敗だわ。


2025.2.22 (Sat.)

今日は映画を見るのと美術館に行くのと睡眠時無呼吸症候群の医者に行くのとでいろいろ動きまわったのだが、
タイミングがよかったので東海道神奈川宿周辺の神社めぐりをやることにした。京急の神奈川駅からのスタートである。

国道1号を横断して横浜駅方面にちょっと入ったところにあるのが、大綱金刀比羅神社である。
もともとは丘の上に飯綱大権現(大綱神社)、麓に金毘羅大権現(金刀比羅神社)があり、1911(明治44)年に合祀。
背にした高島台との高低差に驚かされるが、実際に裏山が何度も崩壊しており、現在の社殿は元は神楽殿だったそうだ。

  
L: 大綱金刀比羅神社。高島台の崖下に鎮座する。  C: こちらがその崖。おそらくかつてはこの手前に社殿があったのだろう。
R: 左を向いて現在の社殿。もともと神楽殿だったというのも頷けるコンパクト感。おかげでだいぶちんまりした印象の神社だ。

  
L: 本殿があるのか覗き込んでみたけどよくわからない。  C: 境内の奥にはやぐらが掘られている。  R: 失礼して中を覗く。

参拝していると曇り空から小さな雪が舞い降りてきた。神奈川駅に戻るとそのまま京急の線路沿いにのんびりと歩く。
天気はだんだんと回復してきて、やはり日差しが出てくると少し暖かい。適度なところで線路をくぐると神奈川熊野神社。
1087(寛治元)年に勝覚が熊野権現を勧請し、幸ヶ谷山上に創建。しかし1712(正徳2)年に山が崩壊したため、
現在地に遷座したとのこと。埋め立てが進んでわかりづらいが、周辺は多摩丘陵の端っこの端っこなんだなあと思う。

  
L: 神奈川熊野神社。正式名称は単に「熊野神社」。  C: 拝殿。1963年の竣工。  R: 馬頭観音や穴守稲荷などが並ぶ。

なお神奈川熊野神社の御守には新旧があり、古い方は何も書かれていないものが2色。新しいものは表に「御守」とあり、
白赤青の3色。古いものがなくなりしだい新しい方に切り替わるのかはよくわからないけど、記録として頂戴しておいた。

 本殿。

東神奈川駅を越えてさらに行くと、笠䅣(かさのぎ)稲荷神社。10世紀前半の天慶年間に伏見稲荷大社を勧請して創建。
前を通る者の笠が自然と脱げて落ちたことから「笠脱稲荷大明神」と称するようになり、後に「脱」を「䅣」と改めた。
社地が鉄道敷設用地として接収されたため、1869(明治2)年に京急本線と京急新町検車区の間の現在地に遷座した。

  
L: 笠䅣稲荷神社。京急本線の下を抜けるトンネルから撮った。  C: 拝殿。現在の社殿は1979年竣工とのこと。
R: 拝殿の前から境内を眺める。ちょうど鳥居のところを京急の電車が通過していく。鉄っちゃんには聖地ですかな。

  
L: 本殿。  C: 境内にいた「美笠(みかさ)」という名前の犬。カメラ苦手みたい。  R: でも遊んでくれたのでヨシ。

こんな具合にコツコツと御守を収集しております。横浜周辺の御守集めも、あともう一息といったところですかね。



2025.2.20 (Thu.)

高校入試の関係で時間的に余裕があったおかげで、テストづくりが終わった。でもまだレポートのチェックがあるし、
やるべきことがいっぱいある状況は変わらない。来シーズンに向けていろいろ考える余裕が欲しいところであります。


2025.2.19 (Wed.)

異動で来年度やってくる先生とお会いしたのだが、皆さん若くてだんだん自分はヴェテランになっていくなあ、
なんて思うのであった。自分がどんなに拒否しても、こればっかりはどうしょうもない。恐ろしいものである。


2025.2.18 (Tue.)

トランプも独裁者の認知症(→2022.3.1)ですか。そういうのを選んじゃってるんだもん、どうしょうもない。


2025.2.17 (Mon.)

地理の人として国立民族学博物館(→2013.9.292024.5.12)の公式サイトをチェックしていたら、
展示案内の販売が復活していたので歓喜する。ついでに創設50周年記念史も合わせて注文したところ、
ものすごいスピードで届いたのであった。職場に直接届けてもらったので、暇を見て読み込んでおく。

『国立民族学博物館 展示案内』はまさに展示のダイジェスト。現場にはとんでもない量の資料が展示されているけど、
その中の一部を取り出して紹介する内容。何が置いてあったか大雑把に確認したり思いだしたりするにはちょうどいい。

『語りあい ひらける世界 みんぱく五十年の歩み』はつまり、創設50周年記念史。内容としては対談が多いが、
国立民族学博物館の守備範囲や歴代館長の研究領域などが具体的にわかる点はなかなか興味深い。どうも読んでみた感じ、
梅棹忠夫を中心に今西錦司以来の京都大学の人類学関係者が公式に国から居場所を与えてもらった、というところか。
フィールドワークを丁寧にやっているのはわかったので、それをどのような理論に仕上げたのかもっと知りたいところ。
面白い対談もあればそうでない対談もあって、研究領域に根ざした話や苦労話などは例外なくきちんと面白い。
でも芯のない言いたい放題はどうしょうもない(最悪なのが上野千鶴子)。専門的な話をしてナンボなのだ。
グローバル化という等質化が進んでいる昨今、民族学の研究はいくぶん懐古的な要素を帯びていくのだろうが、
それぞれの場所で人類がさまざまな形相で存在していた証拠をしっかりと積み上げていってほしいなあと思う。


2025.2.16 (Sun.)

今日は曇りという予報だったので午前中は御守の撮影にあてようと思っていたのだが、しっかり青空が広がっていた。
拍子抜けするけどなんとかこらえて、久しぶりにちょっと距離のあるカフェに出て、ひたすら学年末のテストづくり。
一問一問地道につくっているが、その分なかなか進まなくって切ない。本当にかなりの労力をかけているのである。
おかげで日記が進まないけど、こればっかりはしょうがない。ベターなメンタルをなんとか維持してがんばるのみだぜ。


2025.2.15 (Sat.)

天気がよかったので、横須賀線から南武線沿いの川崎の神社をまわりがてら川崎市役所までサイクリングしてみた。
自転車で川崎駅まで行くのは本当に久々である。もしかしたら、川崎大師に参拝して以来か(→2023.12.3)。
すっかり面倒くさがりになったなあ……そりゃ太るわと反省しつつ、武蔵小杉の先の中原平和公園から南下する。
でっかい工場に群がるような住宅地を四苦八苦しながら抜けると、加瀬山という山にぶつかる。ここが最初の目的地だ。

  
L: 加瀬山へと登っていく富士見坂。  C: 頂上の公園から西側を眺める。  R: 反対の北東方面はこんな眺めである。

加瀬山はかつて現在の1.5倍ほどの大きさがあったそうだが、周辺の低地を埋め立てるために切り崩された。
頂上は山というよりは台地となっており、夢見ヶ崎動物公園のほかに寺社が点在している。いかにも周辺住民憩いの場。
その北西端に鎮座しているのが、天照皇大神だ。鎌倉末期は元弘年間の創建で、北条氏政が八棟造の社殿を建てたが、
小田原征伐の際に焼失した。1837(天保8)年に村民が再建、1884(明治17)年に村内5社を合祀して現在の形になった。

  
L: 台地の上、公園側からは裏参道となる。  C: 拝殿。  R: 境内。残念ながらこの日は御守を頂戴できず。

そのまま奥の方へと歩いていく。夢見ヶ崎動物公園の鳥類を集めた一角に入るが、鳥インフルエンザ対策で全面防備。
おかげで何も見えやしないのであった。さらに進むと熊野神社で、こちらは1587(天正15)年に北条氏直が創建した。
そこから先が本格的に夢見ヶ崎動物公園のエリアとなる。入園無料で年中無休ということでさすがに規模は小さめだが、
天気のいい日にのんびり散策するにはちょうどいい感じ。なお「夢見ヶ崎」とは、太田道灌がここに城を築こうとしたが、
悪夢を見たので断念した、という逸話にもとづく地名である。で、その代わりに道灌が建てたのが江戸城、という話。

  
L: 夢見ヶ崎動物公園の鳥類エリア。厳重な防備で何も見えない。  C: 熊野神社。さっきの天照皇大神よりも広々としている。
R: 熊野神社の先が本格的な夢見ヶ崎動物公園。かなり開放的で、公園内に次々とオリを建てることで広げていった感触がする。

  
L: 反対側、管理事務所の辺りから振り返る。  C: 動物公園すぐ脇の了源寺。  R: 南東端は古墳群のある公園となっている。

 後で天照皇大神の表参道に行ってみた。住宅地を抜けて強烈な石段となっている。

動物を撮影するとキリがないので、ひととおり動きまわって加瀬山を後にする。小倉陸橋で横須賀線の上を通ったのだが、
その手前にNECと富士通の建物が並んでいた。僕の世代としては夢の共演、スクウェア・エニックス以来の衝撃である。
「PC-9801とFM TOWNSが並んどる!」と、30年前の感覚がいまだに抜けない。インターネット老人会よりも前の話だぜ。

 手前がNECで奥が富士通。こうなるとぜひ、SHARPも欲しいところである。

そんなこんなで気がつきゃ横浜市鶴見区に入っており、次の目的地である矢向日枝神社に到着なのであった。
1638(寛永15)年に日吉大社(→2010.1.92014.12.13)からの勧請で創建。いかにも地元で大切にされている神社だ。

  
L: 矢向日枝神社の境内入口。道路が境内を迂回しており、歴史が感じられる。  C: 境内は細長い。  R: 拝殿。

 奥の本殿を覗き込んだところ。

無事に御守を頂戴すると、尻手駅の脇を抜けてそのまま南武線の浜川崎支線方面へ。しかし八丁畷駅周辺がややこしく、
高架を抜ける際に方向感覚を失ってしまった。それで軽く京町周辺をさまよう破目に。道路が見事に矩形に走っており、
これは空襲でやられた影響だよなあ、と思いつつ東へ。京町通りを渡って小田に入ると道は微妙に曲がるようになり、
僕はなんとなく人工島を除いた大田区の東端、森ヶ崎へと向かう大森南の辺り(→2021.8.10)を思いだしたのであった。

そうしてやってきたのは日枝(ひえだ)大神社。こちらも日吉大社からの勧請だが、948(天暦2)年創建と歴史がある。
さて、僕は予備知識を持たずに参拝したのだが、境内には女性の姿がチラホラ。だいたいそういうのはジャニーズ関連で、
名字が神社の名前と同じだからってパターンが思い浮かぶ(→2020.11.14)。しかし「日枝さん」は聞いたことがない。
まさかいま話題のフジテレビ会長が推しってわけでもあるまい。首をひねりつつ二礼二拍手一礼して授与所へ行くと、
そこにはとんでもない量の御守があった。そしてその大半がキャラクター入りのデザインとなっていた。実はこちら、
サンリオキャラクター御守発祥の神社なのだ。なるほど、そりゃ聖地だと納得。そういう客層(→2022.10.12)だったか。

  
L: 日枝大神社。  C: 拝殿。瓦屋根が神仏習合っぽくていい感じである。  R: 本殿を覗き込む。

 授与所にて。サンリオ御守はデザイン豊富なうえにカラバリもある。恐ろしい……。

川崎駅東口に出ると、これまた本日のメインエベントである川崎市役所の撮影に挑む。2023年に新庁舎が竣工したのだ。
前の庁舎(→2007.10.282016.1.9)は1938年の竣工で、設計したのは当時川崎市で臨時建築課長だった元田稔。
この建物を復元して正面に貼り付ける形で25階建ての新庁舎が建設された。なお、新庁舎の設計は久米設計である。
建設中にはボヤ騒ぎもあったけど(→2023.10.30)、無事完成してよかったよかった。でも土日に入れないのは淋しいね。

  
L: 2023年に竣工した川崎市役所。まずは南東から。  C: 第3庁舎から見た正面。  R: 南西から見たところ。

  
L: 横の構図で撮るとなると、このアングルしかないのではないか。  C: エントランス。旧庁舎は時計塔も含めて復元。
R: エントランスの東側にはベンチやテーブルなどが置かれ、滞留スペースとなっている。夏にはパラソルが開くっぽい。

  
L: 西隣の第2庁舎は取り壊されて、オープンスペースを整備中。  C: 第2庁舎跡の手前から見た川崎市役所。
R: 川崎市の市制施行は1924(大正13)年。そこから100年分の軌跡がエントランスの辺りまで埋め込まれている。

  
L: 南西側のファサード。  C: 中を覗き込む。パサージュっぽくしているとは面白い。  R: 右を向いたところ。

  
L: 北東から見たところ。  C: 少し距離をとって全体を眺める。  R: 北西側。わかっちゃいたが、撮るのが大変。

 市役所通りを挟んだ第3庁舎は健在。神谷・荘司計画設計事務所の設計で1993年竣工。

せっかくなので、稲毛神社にも参拝する。実に9年ぶりだが(→2016.1.9)、御守が完全に切り替わっていたのであった。
デザインにこだわりがあるのは相変わらずのようで、いろんな種類を頂戴することになってしまった。うれしいが大変。
なお9年前にも書いたが、現在の主祭神は武甕槌神だが長く山王権現を祀っていた。川崎周辺は日吉系が強い土地のようだ。

  
L: 稲毛神社の境内入口。  C: 参道から神楽殿を眺める。いちばん背の高い建物が川崎市役所。  R: 拝殿。9年前と変わらん。

昼メシにアゼリアで青葉のラーメンをいただく。城南近辺には店がないので、最近は川崎に来ると食べることが多い。
青葉のラーメンはクリーミーさがなんとなくスガキヤ(→2024.12.27/2024.12.28)っぽくて、それで気に入っております。

……あ! 「男には帰れない夜がある…」の看板を撮るのを忘れてた! あのイラスト好きなんだよー。リヴェンジせねば!


2025.2.14 (Fri.)

本日は高校入試なのでありました。大きなトラブルもなく無事に終了。きちんとした生徒が入ってくるといいなあ。


2025.2.13 (Thu.)

エロゲー原作の伝説のアニメ『ヨスガノソラ』を見たよ。感想としては、正直特にないです。
オープニング曲が不自然な転調を繰り返して気持ち悪かったのと、エンディング曲がなぜか2つあって不思議だったのと。
マルチエンディングを受けてのルート分岐を丁寧にやるけど(これもそうだった、そういうものなのか →2024.7.26)、
どうせなら最も衝撃的な穹ルートに全力を傾ける方が、いろいろ独自性があって面白かったのではないか。
典型的なアスカ系妹とのイチャコラのために、すべてのキャラクターをかませ犬にする。それでいいではないか。
玄関(玄姦)ですべてがバレるという演出は面白かったので、そこに向けて盛り上げていった方が楽しかったと思います。


2025.2.12 (Wed.)

『戦場にかける橋』。いわゆるサル、ゴリラ、チンパンジー♪ですな。

東南アジアの捕虜収容所で日本人の大佐が捕虜となったイギリス軍兵士たちに鉄道建設を強制する、というのが基本設定。
ジュネーヴ協定を無視するし建設工事も進められないダメな日本人と、部下を上手く扱い工事を進める誇り高い西洋人、
というやや差別的な対比に見えるのだが、実際ダメだったからしょうがない。この映画がもし白人至上主義であるならば、
大佐の部下として小ずるいイヤな日本兵を出してくると思うのだが、その要素は皆無なので、実はフェアなのではないか。
ここを色眼鏡で見てしまうと損をするはずだ。単純に、頭のクソ固いイヤな権力者に正攻法で挑むという構図なのである。

上映時間が161分としっかり長い。長いけどその分、一切の手抜きをしないで描くべきものをきちんと描く。
もったいぶらないと橋のありがたみが減るのも事実である。削ってテンポよく、とはいかない物語が確かにあるのだ。
そして途中でアメリカ軍兵士・シアーズが脱走に成功することで、最終的に三つ巴のサスペンスにする展開は実にお見事。
橋をめぐるそれぞれの立場や思惑が入り交じり、それまでかけてきた時間にふさわしい厚みのあるドラマに変化する。
全体を通して、それぞれの登場人物がそれぞれに自分のポジションで全力を尽くす、そういう物語に収束していくが、
その努力の尊さが最後の最後でことごとく失われてしまうわけだ(橋の爆破も結局は運だったという点もまた巧い)。
シアーズにしても任務を遂行するために「kill'em!」と、本来なら味方である人物までも殺せと叫ぶ狂気に呑まれてしまう。
最後まで理知的な観察者である軍医が、物語をmadnessという一言で総括してみせる。これが完璧な締め方なのである。
ものをつくる素晴らしさと、ただすべてを破壊する戦争の虚しさを、じっくりと時間をかけて描ききった正統派の名作だ。

それにしても、最初にサル、ゴリラ、チンパンジーって歌いだしたのはいったい誰なんだろう?
「百匹目の猿現象」みたいな同時自然多発現象なのか? 「百匹目のサル、ゴリラ、チンパンジー現象」とでも言うべきか。


2025.2.11 (Tue.)

気合いで情報をシャットアウトして、午前2時から放送のスーパーボウルを早起きして見るのであった。
今年のカードはカンザスシティ・チーフスとフィラデルフィア・イーグルスなので、2年前と同じとのこと。
というか、QBマホームズ(→2020.2.42021.2.9)を擁するチーフスは2020年からの6年間で5回もスーパーに出ている。
そんでもって史上初の3連覇がかかっているのである。いくらなんでも強すぎる。というわけでイーグルス贔屓で見る。

アメフトを見るのは正直けっこう久々で、序盤はややボケ気味で眺める感じ。双方ディフェンスが良さげなスタートで、
QBの判断が遅く見える。派手なプレーが出ないことで、よけいにすっきり目が覚めるのが遅れたところはある。
ところがイーグルスがスルッと先制。TD取り消しからのゴリ押しで、そりゃそうだよなとようやく頭が動きだす。
ディフェンスがいいからかどっちの攻撃もあっさりに見えて、パッと見は凡戦気味の玄人好みのゲームかと思うが、
2Qに飛び出したインターセプトリターンTDで完全に流れが傾いた感じ。マホームズがここまで冴えないとはびっくり。
さらに前半終了間際にもう1回インターセプトが出て、そこからイーグルスがスルッとTD。前半で24-0もの差がつくとは。
スーパーボウルは両軍とも凄まじく分析して対策するはずだが、それでも針の穴を通すイーグルスが偉いってことか。
対照的にマホームズはまったく冴えないが、これはおそらくプレッシャーをかけるイーグルスのDLがいいだけでなく、
セカンダリーが受け手を見逃さないからパスが出せなくてつぶされるのだろう。そうとう洗練された守備ってわけだ。

ハーフタイムショウが長々とすっげえ邪魔だなあと思っているうちに後半戦。やはりイーグルスのディフェンスが良く、
マホームズはターゲットが見つからない。それで相手からスルスルと逃げるマホームズの身体能力の高さに驚かされる。
なんだかんだでマホームズのスクランブルがいちばんヤードを稼げるんじゃないか。チーフスは3QもFGを許した後、
4thダウンギャンブル失敗から一発でTDを食らって、見ていられない惨状。もはや完封が焦点のゲームになっている。
まあさすがに完封は阻止したが(スーパーボウル史上、完封ゲームはない)、チーフスは本当にいいところがない。
イーグルスは最後も中央を開けて時間を使わせているし、あえて反撃させて時間を消費させる余裕を感じるほど。
反則でもリターンでエンドゾーンまで行くことで時間を使っていると解説で聞いて、とことん頭いいなあと納得。
そういえば反則の少ないゲームである。4年前には老獪なブレイディが反則を誘ってチーフスを倒したが(→2021.2.9)、
今回は優れた守備で正統派のゲームだった。イーグルスは7年ぶり(→2018.2.6)のスーパー制覇おめでとうございます。

ところでWRが1ケタ背番号ってのはちょっと気持ち悪いよね。背番号が足りないんだろうけど、違和感が抜けない。


2025.2.10 (Mon.)

パナソニック汐留美術館『ル・コルビュジエ 諸芸術の綜合 1930-1965』。
ル・コルビュジエといえば近代建築の巨匠なんだけど、今回の展覧会では建築はあくまでone of them。
となるとイヤな予感しかしないのだが、まあでもいちおう見ておこうということで行ってきた。

案の定、展示のほとんどがまったく大したことのない抽象画なのであった。困っちゃう。
設計者ということで国立西洋美術館にはコルビュジエの絵画が展示されているけど(→2023.10.5)、あんなのばっかり。
悪いんだけどコルビュジエには絵の才能がないんだから、何も考えずにありがたがるのはどうかと思う。
最初っから最後まで何ひとつ成長していないし、1930年代はともかく1950年代の絵としては時代錯誤も甚だしい。
並べられるとフェルナン=レジェのマシさがよくわかる。カンディンスキーの版画と建築写真の対比とか苦し紛れだろ。
いちばん面白かったのはロンシャンの礼拝堂の模型で、やはりコルビュジエは建築をやってナンボなのだ。
思っていた以上にしょうもなかったが、そもそもコルビュジエの絵がしょうもないんだからこりゃしょうがない。

あと、ルオーのところには、ル・コルビュジエ+ピエール=ジャンヌレ+シャルロット=ペリアンによる、
3人がけのソファ「グラン・コンフォール」が置いてあった。座ってみると意外と深く沈む感じがした。
背もたれの丈の短さは座っていると腰と背中の間でいい感じ。でも立ち上がるのに力がかかるのが難点である。

 こんなんばっかし。

パナソニック汐留美術館って基本的に、デザイン方面で意識高い系の人が「見てきましたよ」って満足するための場所、
って感じがする。優れた内容のときもあるけど(→2020.12.13)、狭いところに意識高い人がいっぱいで、僕は息苦しい。


2025.2.9 (Sun.)

昨年から今年にかけて古い映画を観まくっておるわけですが、当時と今で感覚が最も違うと思うのが、シリーズ物である。
スターな俳優によるシリーズ物がやたらめったら多かった。そしてそれが面白いと僕にはまったく思えないのである。
『眠狂四郎』(→2025.1.152025.1.162025.1.27)の何が面白いのか、まったくもってサッパリ。駄作の連発に思える。
またその一方で『網走番外地』(→2024.11.7)や『陸軍中野学校』(→2025.1.14)や『忍びの者』(→2025.1.29)など、
1作目の設定を考えたらシリーズ化に向かないだろう、というものが続いちゃったり。その辺りの感覚がイマイチわからん。
最初からシリーズ化を見越して売れ筋の原作にスター(期待の若手)を起用して映画化、がふつうだろう(→2024.11.17)。
でも、監督としては単発としてきれいに完結させたはずの作品が、「これ続編いけるんじゃね?」的な上からのお達しで、
無理やりシリーズ化されてしまった例もけっこう多そうに思える。で、稼げるだけ稼ごう、と作品が粗製濫造されていく。
そして気がつけばシリーズ物はとことん劣化してしまう。減価償却が済んだら廃棄されるだけ。全体が尻すぼみで終わる。

こういうシリーズ物が生まれる動きは、役者が物語よりも偉くなってしまう現象の一環なのではないか。
歌舞伎では「誰が演じるのか」が最も大事であり、全体のストーリーはまったくもって軽視されてしまう(→2008.1.13)。
おなじみの感極まった観客が屋号を叫ぶ行為なんて、役者が物語よりも偉いという関係性を象徴しているわけだ。
宝塚もまた、トップスターをはじめとする出演者の一挙手一投足にウットリしてナンボという世界である(→2012.2.26)。
物語の流れを平気でぶった切る拍手の嵐で、これもまた、役者が物語よりも偉いことを示す行為となっている。
このように日本の伝統芸能には、困ったことに、「役者が物語よりも偉い」傾向が本質的に埋め込まれている。

そして映画のシリーズ物も、こいつに演じさせて稼げるだけ稼げ!の精神の下、役者が物語よりも偉い現象を生みだす。
僕としては、監督が頭をフル回転させて魅力的に組み立てた物語が、単なる「シリーズ中の最初の作品」に貶められ、
いつの間にか役者のためにいろいろねじ曲げられて当然となっている、そういうシリーズ化がよいものとは到底思えない。
そして現在も、キャスティングが最優先される悪習は続いている。いまだに観客・制作者のレヴェルは低いままなのだ。
確かに、高倉健や市川雷蔵などスターの役者から入ることで、僕は名作に触れることができている。これはありがたい。
しかし役者が物語よりも偉くなることは主客の転倒であり、目的と手段をはき違えることに他ならないのだ。
『カメラを止めるな!』(→2021.3.14)や『侍タイムスリッパー』(→2024.9.18)などは、魅力的な物語によって、
役者が注目された好例である。魅力的な物語が魅力的な役者にスポットライトを当てる、そんな好循環がまだまだ乏しい。
目指すべきは、役者と物語のバランスなのだ。これを無視して役者に重きを置くことから、いいかげん卒業すべきだ。



2025.2.6 (Thu.)

朝のHRに行ったら男子が麻雀をしていたのであった。なんでも麻雀の朝練が流行っているそうで。
牌にマットまで持ち込んでかなり本格的である。なんとも平和ですね。……あ、ピンフじゃないよ。


2025.2.5 (Wed.)

TVアニメ『ダンダダン』の感想を書くタイミングを完全に逸していたので、ここできちんと書いておくのだ。

オープニングからして明らかにふつうのアニメと違う感触。明らかに『ウルトラマン』(→2012.2.27)へのオマージュで、
なるほど変身ヒーローの怪獣退治という内容にふさわしいし、芸術性も高く仕上がっている。気合いがとんでもない。
まずはここが圧倒的で、毎回毎回飛ばすことができなかった。まだまだ新しいことができるんだなあと、ただただ感心。

中身についても、従来のアニメとは理論が違う感じを受ける。僕らは今まで「アニメの文法」に囚われていたんだなあと。
なんとなくだが、井上雄彦の動くマンガ(『THE FIRST SLAM DUNK』→2022.12.20)がヒントになっている気がする。
マンガの絵とアニメの絵を、できるだけ分けて考えない、という発想。そのうえでアクションをものすごく大胆に表現する。
ただ、僕には何をやっているかサッパリというアクションの方が多かった。しかも見ていて休めなくて非常に疲れる。
すごいことをやっているとは思うけど、画面が暗くてよくわからないし、ファンタジー脳(能?)がないのでつらい。
ジャンプでアクションというと『DRAGON BALL』(→2024.3.8)があまりにもデカい存在として立ちはだかっているが、
そのアニメに慣れている人ならまた違う見え方がするのかもしれない。残念ながら僕にとっては難度が高かった。

特筆すべきはやはり田中真弓の使い方だ。これはズルすぎる。近年稀に見る的確な起用だ(ルフィなど比べ物にならん)。
これ田中真弓だけで圧勝だよ優勝だよ、とウキウキしてしまうではないか。声だけでそうなってしまうとは恐ろしい。
また、井上喜久子のキレキレっぷりも衝撃で、平成初期の声優ブームに心を掴まれていたおっさんは涙が止まらない。
ここはなかなかにハードな背景を下品にならずに描ききったという点でも、非常に優れていた。すばらしかったですよ。
僕にとって唯一マイナスなのが、メガネが花江夏樹であること。主人公向けにつくった声がまったく好きではないのだ。
ここはなんとかならかったのかと心底思う。人気あるからって、売るための保険なのかねえ。僕には台無しなんだがなあ。

非常に中途半端なところで終わったが、つまりはシリーズが継続するということ。続きを楽しみに待つとしましょう。


2025.2.4 (Tue.)

『ジュラシック・パーク 3D』。「スピルバーグ IMAX映画祭」の一環である。
実は『E.T.』もラインナップに入っていたのだが、前に書いたとおりなので(→2020.5.18)、そちらは堂々スルー。

3Dということでとにかく目が疲れた。これわざわざ3Dにせんでもええやろ、と思う。必要性をまったく感じない。
動きまわる恐竜をリアリティたっぷりに描いた点は賞賛に値するけど、褒められる点はそれくらい。
やっとること『ジョーズ』(→2025.1.20)と一緒やんけ。こいつドッキリさせたいだけなんとちゃうか。
そんな具合になぜか関西弁になりつつ呆れてしまった。デビュー作のタイトルがもうそのまますべてを表している。
スピルバーグは観客の感情を刺激するのは上手いけど、知的さはまったく欠けている。名監督とは到底言えまへんな。


2025.2.3 (Mon.)

根津美術館『古筆切 分かち合う名筆の美』。

古筆切については見る機会がちょこちょこあって(→2024.2.92024.12.25)、さらに理解を深めようと思ったのだが、
正直ぜんぜんわからん。もう、ぜんぶ上手い。「昔の人はみんな達筆!」その一言ですべて片付いてしまうのではないか、
そんなレヴェルで本当に申し訳ない。拓本もそうだけど(→2023.4.102023.4.15)、量を見ないとわからん世界であろう。
というわけで、とにかく見てみるのが大事ということで粘ってみる。とりあえずは目の前にある筆跡を依代にして、
昔の人の身体性を想像するのだ。そのうえで、指先の動きをトレースしてみる。そこは昔も今も変わらないはずなのだ。
そうして出てきた結論は、「やはり究極的には好みの問題!」という身も蓋もないものなのであった。ニンともカンとも。
ただまあ、定家がそんなに上手い方ではないという説はなんとなくわかった気がする。貴族にしては無骨な感じなのだ。

古筆切の隣の部屋では一行書。禅寺で発展した形式だそうで、大徳寺(→2024.10.8)が本場だったとのこと。
歴代の偉い人による一行書が並んでいたが、ちょっと奇を衒っている感がある。その点、狩野探幽がさすがの迫力。
良寛は脱力が過ぎないかと思う。とはいえ、思ったように書ける毛筆の上手い人がただただうらやましい。

2階では古代中国鏡の特集があり、たいへん興味深い内容だった。青銅の鋳造技術は以前書いたとおりで(→2023.2.23)、
戦国時代には正方形の鏡もあった。その後、前漢時代に円形にまとまった。唐代になると円形ではないものだけでなく、
模様から絵への変化が目立ってくるようだ。中国古代の美術史もなかなか面白い、とあらためて実感できたのであった。


2025.2.2 (Sun.)

日本近代文学館でやっている『三島由紀夫生誕100年祭』を見てきたのでレヴューなのだ。

 こちらがポスター。

展示は3つのキーワードによっている。書簡や絵葉書などのメッセージに注目する「ミシマニア(ΜΙΣΙΜΑΝΙΑ=三島愛)」、
冊数を限定した本などを中心に製本へのこだわりぶりを紹介する「ビブリオマニア(ΒΙΒΛΙΟΜΑΝΙΑ=書物愛)」、
そして東武百貨店で開催した展覧会と楯の会での活動ぶりを紹介する「ヤポマニア(ΙΑΠΩΝΟΜΑΝΙΑ=日本愛)」。
僕のイメージでは、三島由紀夫とはいわゆる「文豪」という称号が許される最後の人ではあるものの、
そのあまりにも衝撃的な死によって純粋に作品を語ることが難しくなっている人、という感触である。
『炎上』も観たし(→2025.1.23)、生誕100周年でいい機会なので、まずはきちんと勉強しようというわけなのだ。

1970年11月、つまり自決の直前に東武百貨店で開催した三島由紀夫展において展示された『四つの河』を読むに、
これは明らかに遺書。他の展示と合わせて見ていくとどうも、肉体がいちばんいい状態で終わりたいという意志が見える。
三島は自身の年齢の数字が昭和の年数と重なるところに絶対に意味を見出していたはずで、そうなると50ではダメなのだ。
人生100年として50では峠であり、それより少し若くなければならない。そういう強い美的意識の結果があの結末なのだ。
美的意識については、蕗谷虹児(→2014.10.182024.11.23)との関係からも、世紀末美術への好みは明らかである。
これとボディビルが両立できるところに三島の美意識の形が見える。三島の中では、両者に矛盾はないわけだ。
また、30歳から始めたボディビルが訓練された身体への憧れにつながり、軍隊へと尖鋭化していったのも見て取れる。
これらの表面的には相反するものが三島の次元ではつながっているのだ。その変容のスピードと異質さの共生ぶりこそ、
彼が宿命として背負った「昭和」の側面を体現するものであるように思う。そういう公を私で裏返すようにして自決した。

さて、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込んだ際の檄文を読んだのだが、問題意識はたいへん正しいなあと思う反面、
手段としてはどうなのかとも思う。大衆は三島ほど賢くないのである。だから結局、キリのいい数字で散りたいという、
私的な理想に公を巻き込んだという結論で終わってしまう。そうなると「理想」よりも「幻想」という表現がしっくりくる。
その時代の社会状況というものはその時代を生きていないと絶対に理解できないので簡単に断定することはできないが、
展示を見ていてどうも、楯の会は絶対値としては学生運動の組織と変わらなかったのではないの、と思えてしまう。
理論の中心に三島という文学的天才がいたからある程度の規模で活動できたが、理論を組むだけの能力がない場合には、
あさま山荘事件のような顛末となるだろう(山本直樹『レッド』を少しだけ読んでそう思った。いずれじっくり読みたい)。
肉体的にも精神的にもいちばんいいところ、ということであの結末。三島は幸福だったかもしれないが、他の人ははたして。

それにしても献本の安部公房の字がヤベエ。『壁』を書いちゃう人は字の発想からして違うのだと、大いにたまげた。


2025.2.1 (Sat.)

『アイドルマスター シャイニーカラーズ』の2期をようやく見たのでレヴューなのだ。

1期では「ぶっ飛んだレヴェルでヤベエ」と酷評したわけだが(→2024.6.27)、2期も基本的には同じである。
どんなアイドルになりたいかという問いと、具体性ゼロの宣言の無間地獄。そして雰囲気だけの景色とBGM。
今回はニコニコ動画で見たのだが、皆さんのコメントがものすごく容赦なく的確なツッコミばかりでほっとした。
おかげで笑い転げながら楽しめた。ツッコミによって、結果的に最高に共感できる映像に仕上がっているしだい。

ところが2期は、ストレイライトが登場する第2話だけマトモだったことに驚愕した。これは本当に不思議である。
1期から通して、この話だけが唯一マトモ。たった一話だけマトモな物語が紛れ込んでいる。いったい何があったのだ?
おそらくは対照的なキャラクターが三者三様にぶつかりやすいストレイライトだから、ということになるのだろうが、
その中でも特に鍵を握っているのが黛冬優子なのは間違いあるまい。対話を促さずにはいられないキャラクターなのだ。
冷静に考えるとこれはけっこう面白くて、トリックスターとしてあるべき魅力を分析するのにかなりいい対象ではないか。

対照的に悲惨なことになっていたのがノクチル。天才不思議ちゃん設定の透はしょうがないにしても、
円香は冬優子のようには動かずただジト目で見る人。小糸はただ踊りを練習する人。雛菜はただ「あはー」という人。
この4人こそ、内側で動かしていくらでもドラマをつくることができるはずなのだが。冬優子の偉大さを実感しましたとさ。


diary 2025.1.

diary 2025

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